信長の秘書

たも吉

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先生の過去

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 殿の側仕えの右筆となって数日。
 私は右筆の仕事はそこそこに、稽古漬けの日々を送っていた。
 今後、戦場を含め、いかなる場所にも殿の供として同行することになる。
 そのために必要なことを身に着けなければならない。
 剣術や馬術、礼儀作法など。
 ただの農家の三男坊の私は、その全てに心得がなかった。
 それ故に、空いた時間の全てを稽古に費やしている。
 これは奥方様の命令でもあった。
 もちろん殿の許可も得ている。
 というより、奥方様の命令なのだ、殿も駄目とは言えない。
 初めてお会いした時にも感じたことだが、この数日で改めて理解した。
 殿は織田家の棟梁で、家中で一番偉いお方だ。
 しかし、そんな殿ですら奥方様に逆らえない。
 殿を完全に尻に敷いている奥方様だが、奥方様は殿の事を第一に考える。
 夫婦というのは、お武家様も農民も変わらないのかもしれない。
 おもしろいものだ。
 そんなわけで、私は今は剣術の稽古をしている。
 地稽古をしている方々の邪魔にならないように、道場の隅で素振りをしている。
 鍬を振る動作に似てる部分もあるので、そこまで苦にはならない。
 黙々と素振りをしていたら、周囲がざわついた。
 何事かと思ったら、道場に殿が来ていた。
 どうやら殿もこれから道場で稽古をしていくようだ。
 皆、殿に一礼し、稽古に戻る。
 殿も皆に頷き、私の横に来て素振りを始めた。
「剣術の稽古の調子はどうだ?」
「はっ。
 木刀を持つ自分に違和感を感じる、というくらいまだまだ馴染んでおりません。
 鍬を振るように木刀を振るとすごくしっくりくるのですが……」
「鍬か、そういえばお前、農家の出だったな。
 どれ、少し素振りをしてみろ」
「はっ」
 ビュンッ!ビュンッ!
 しばらく素振りをしたが、殿は何も言わずじっと素振りを見ている。
 止めと言われないので、私は素振りを続ける。
 百回……二百回……三百回……。
 まだかな……?
 五百回……七百回……九百回……千回!
「あの、殿?
 もう千本も素振りしているのですが、まだ止めては駄目なのでしょうか?」
「ん?
 俺は少し素振りをしてみろと言っただけで、千本も素振りしろとは言ってないぞ?
 お前が勝手に千本素振りしただけだろう。
 随分がんばるなと関心していたぞ、ははは!」
 ……子供の嫌がらせか!
 イラっとしたが顔に出してはいけない。
 仮にもこの方は我が主君なのだ。
 しかしささやかな仕返しはさせてもらう。
「殿。
 適当な指示書に適当に書き足して、殿の私財から特に必要の無い物を大量に購入するよう指示を出しておきます。
 しっかり払って下さいね」
「お前がそんなことをしたところで俺が払わなければお前が払わないといけないだけだろう。
 やってみるがいい」
 得意気に殿が言い返す。
「殿が支払いをしなければ奥方様に連絡が行くようになっております。
 奥方様は、多少の悪戯ならば目をつぶるとおっしゃってくれています」
「おいいいいいいいいい!
 だからなんでお前らはそうやって結託してるんだよ!
 そんなんだから俺はこうやってささやかな仕返しをしてるんだろうが!」
「結託だなんて人聞きの悪い。
 殿は堅苦しいのがお嫌いなので、ドッキリを仕掛けたりして殿を楽しませるよう奥方様に言われているだけです」
「私財ががっつり減るドッキリを楽しめるとでも!?
 お前は馬鹿なのか!?」
「奥方様を馬鹿とおっしゃるのはやめたほうがよろしいかと……」
「帰蝶のことを馬鹿と言ってねーよ!
 お前だよ!」
「この悪戯を考えたのは奥方様ですので、奥方様のことを馬鹿とおっしゃってるのと同じことです」
「ぐっ……。
 くっそ!お前、くっそ!」
「厠は外ですよ?」
「ちげーよ!
 基本に忠実かよお前!」
「なにやら殿は元気が有り余っているご様子。
 一緒に稽古で汗を流しましょう」
「お前には俺がはしゃいでるように見えるのか!?
 この節穴め!」
 元気な殿と一緒に、その日は遅くまで稽古に励んだのだった。

 翌日、今日の稽古は馬術だ。
 馬術……と言っていいものではないと思うが、一応私は馬に乗るのはそこそこできる。
 村にいた頃、先生がたまに遠乗りをしていて、いつからか、先生は私も遠乗りに連れて行ってくれるようになった。
 おかげでそこそこ馬に乗ることができるようになった。
 しかし、村で乗っていたのは軍馬ではない。
 軍馬ともなれば、さすがに勝手が違うかもしれない。
 しっかり稽古しなければ。
「門司尾よ!
 今日は馬術の稽古をするのか?
 ならばついてこい!
 遠乗りに行くぞ!」
 なぜか殿が朝も早くから厩舎にやってきて私にそう言った。
 やけにニヤニヤしている。
 さては昨日の仕返しとか企んでいるのだろう。
 一体遠乗りで何をしようというのか。
 それよりも。
「殿、お仕事はいかがなさるのですか?
 こんなに堂々とサボられては、奥方様の雷が落ちるかと思いますが」
「良いのだ。
 たまには息抜きをせんと、かえって仕事の効率が落ちる」
「私は忠告致しましたからね?
 奥方様の逆鱗に触れても私を巻き込まないでくださいね?」
「お前は一体どれほど帰蝶のことを恐れているんだ!?」
「何をおっしゃるやら、恐れてなどいません。
 ただただ、尊敬あるのみでございます」
「そんな震えながら言われてもな……。
 まぁよい!
 見ろ!
 俺の自慢の愛馬を!」
 そう言って殿は、連れてきた馬を私に自慢し始めた。
「この馬はな、家中で一番速く走る馬だ。
 この間の戦で先頭を全力で駆けたら、家臣は誰もついてこれなかったのだ。
 すごいだろう?
 おかげであやうく一人で敵陣に突っ込んでしまうところだったがな、ははは!」
「殿は死にたいのですか?
 一国一城の主になり、素敵な奥方様を持ち、何が不満なのですか?」
「いや、そこは真に受けるなよ!
 笑うとこだろうが……。
 まったく、冗談の通じんやつだ」
「冗談でしたか、それは失礼致しました」
「はぁ……。
 とりあえずお前も馬を連れてこい。
 遠乗りに行くぞ」
「はっ」
 私は厩舎にいる馬の中から、一番元気そうな馬を選んだ。
 そして、殿と遠乗りへ出かけた。
 村を出てからは、馬で駆けることは一度もなかった。
 馬に乗ったのさえ久しぶりだ。
 風を切るこの感じ、気持ちのいいものだ。
 しばらく殿に並走していたら、殿から止まるように言われた。
「待て待て待て待て!
 なんでお前俺と並んで走ってるんだ!?」
「え?
 ……あ、そうですね、大変失礼致しました。
 殿の横に並んでしまい、まことに申し訳ございません」
 私は馬を降り、平伏して謝罪した。
「あ、確かに家臣が主君の横を走るのは無礼なことか。
 いやいや、でもそんなことはどうでもいい!
 俺は気にせんし、許す!
 俺が言いたいのは、なぜ俺についてこれるのだということだ!」
「と、いいますと……?」
「だから!
 俺の愛馬は家中の馬で一番速いと教えただろう!
 なのになぜ当たり前のようについてこれるどころか、並走できるんだと聞いている!」
「なるほど、そのことでしたか。
 たしかに殿の愛馬は素晴らしい馬だと思います。
 私もこれほどの馬は見たことありません」
「だろう!?
 そうであろう!?
 ならなぜだ!」
「殿の馬の乗り方があまりよろしくないだけかと……。
 雑に乗ってるので、馬が嫌がっております。
 なので馬もちゃんと走ってくれないのです」
「はあああああ!?
 俺はそれなりに馬術はできるほうだぞ?」
「しかし、現に馬は嫌がっておりますよ?
 馬の嫌がるような乗り方をせず、乗せてくれてありがとうという感謝の気持ちを伝えて乗れば、馬はよく走ってくれるものです。
 ちゃんと馬と語り合っていますか?」
「え、それマジなん?
 さも当たり前みたいに言ってるけど、馬と語り合うとかできるのか……?」
「というよりも、馬と語り合わないなら馬に乗る資格などないと、先生は言っていましたが……」
「先生って誰!?」
「私の村にいる先生です。
 村の者にいろんな事を教えてくれた恩人でございます」
「ほう、お前の師か。
 お前をこのようなやつにした張本人ということだな。
 顔を見てみたいものだ」
「私を右筆になってみてはと勧めてくれて、私に推薦状まで持たせてくれた方です。
 今私がここにいるのも、先生のおかげですね」
「推薦状?
 お前の先生は以前は織田家にいたのか?」
「詳しい話は聞いたことありませんのでなんとも言えませんが、昔武家に仕えていたとおっしゃっていたことがあります。
 その武家というのは、織田家のことなのかもしれませんね。
 そういえば、その武家の殿様やそのご子息の教育係もしていたと言ってました。
 もしかすると、殿もご存知なのかもしれませんね」
「きょ、教育係……だと!?」
「そうですが……、どうなされたのですか?」
「お前の先生とやらの……名前はなんというのだ?」
「先生の名は奇礼茂地兵衛といいます。
 ご存知ですか?」
「も、ももも、茂地兵衛だとおおおお!?」
「なるほど、ご存知のようですね……」
「ご存知も何も!
 今の俺があるのは茂地兵衛のおかげだぞ!
 俺のことをうつけと呼ばず、俺の考えを理解してくれた数少ない人間だ。
 俺が家督を継げたのも、茂地兵衛のおかげと言っていい。
 しかしその分、信勝派の者に恨まれてな。
 暗殺に襲われたりして危険だったから、俺が暇を出して逃げるように言ったのだ。
 そうか……、ちゃんと逃げ切ったのだな……」
「そうだったのですか……。
 先生はやはりすごい方だったのですね。
 先生の教えを受けたことを誇りに思います」
「うむ、誇るべきだ。
 そうか、お前は茂地兵衛の教えを受けていたのだな……。
 そういえばお前も、うつけという評判に流されず、ちゃんと俺を評価していたな。
 なるほどな……」
「はい、噂はあくまで噂に過ぎない。
 参考にするのはいいが、鵜呑みにしてはいけない。
 何事も、最後は自分で見聞きして判断するものだと教えられましたので」
「そうか……、よし!
 門司尾よ!
 帰蝶から言われていたが、改めて俺から命ずる。
 今後俺の側仕えとなり、俺を支えよ!」
「はっ!
 謹んでお受け致します!」
「うむ!
 しっかり励め!」
「はっ!」
「ではそろそろ帰るか。
 あまり遅くなると帰蝶にバレてしまうな」
「お言葉ですが、殿。
 すでにバレているかと」
「え、なんで?」
「今日、殿とお会いする前に奥方様に言われました。
 厩舎にいれば殿がやってきて、私を遠乗りに誘うだろうと。
 万が一の時は盾となって殿をお守りするよう、申し付けられました。
 下手に隠そうとしたり誤魔化そうとすると、かえって逆鱗に触れるかと」
「あいつはエスパーか!?
 未来が見えるのか!?
 我が妻ながらこえーわ!」
「奥方様が怖いなどと……、あのようなお優しい方はそうはいないかと」
「震えながら言っても説得力ないわ!
 はぁ……、まぁよい。
 バレているなら土産でも買っていくか。
 少しは機嫌取りでもしないとな」
「そうですね。
 贈り物をされて嬉しくないなんてことはないでしょう」
「だよな。
 じゃあ市に寄って帰るぞ」
「はっ」
 殿と私は、何を買って帰れば奥方様が喜ぶかを考えながら来た道を戻っていった。
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