あなたと私のサイコパス(元 潮の香り)

団子(仮)

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少年の悩み

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「分かったって言うのは、主人公の気持ちです。……でも、でも、そうじゃない! この物語を書いたのはあなたです! だから、あなたは主人公の一番の理解者でもある!! だとしたら、だとしたらあなたも人の血を吸うことに、喜びを感じるはずなんです! きっとそうです!」
「…………」
「僕には分かりました! あなたが実際に飲んだことがあるのか分からないけど、たとえ血を飲んだことがないとしても、僕の血を飲めば、あなたはきっと僕に感謝する!! 僕に、隠す必要はないんです!」
「君――」

 違う、と言いたいところだった。だが主人公が人の肩から、腕から血を吸って飲むとき、その描写に真実を混ぜたのは否定できない確かな稀の事実だ。
 それが伝わったというのか。この少年に。

 だが血を飲めと言われても、そんなこと頼まれたってやりたくない。潮の香りを思い起こしながら幸福に浸る行為とは決定的に違う。
 他人の血を飲むということは、自分以外の誰かに目に見える形で危害を加えるということだ。
 捻くれた手の早い大人が道行く若者を説教と称し傘で足を叩いてみたり、広い歩道だからと友人と並んで歩いている大して邪魔になっていない通行人を、制服を着た学生だからという理由で突っかかる自転車のおばちゃんなんかとは違う。
 むしゃくしゃして自分より弱い者を傘で叩くのも、言葉で憂さ晴らしするのも、気持ちの良いことではないがよくあることだ。
 しかしその延長線上にあるのが取り返しのつかない暴力ということに気付いているのか。残念ながら、自分は越えてはいけない境界線を見極められると勘違いしている馬鹿がほとんどだ。すでに道は踏み外しているというのに、そんなことにも気付こうとしない。
 だが誰だって怒るきっかけはある。それがたとえどんなに理不尽な理由からでも、人間は我慢出来ないことが起こると理性を手放して暴力を振るってしまう。

「僕の血を、飲んで下さい」
「……ちょっと」

 つまりだ。ここで稀が少年の体を傷付けて血を飲んだとしたら。あまつさえ気分が高揚しようものなら!
 それが強要されたことだとしても、稀の中には人を傷付けて喜んだという不名誉な称号だけが残ってしまうのだ。
 これがきっかけで血に興味を持つなんてことになったら、道を踏み外すことにも繋がってしまう。それは避けたい。

 周りの人間と自分の考える普通にズレがあるのは知っている。しかし稀には周りの人間と嘘偽りなく共有できるものが、ひとつだけあった。
 それは他人を労わる心。困っている他人を思いやるごく自然な気持ち。
 稀は自分を良い人間だと思っていなかったが、かといって悪い人間になるつもりは全くなかった。理不尽な理由で誰かを傷付けたいとは思わない。そんなことをしても誰も得をしない、それこそ稀自身にも幸せはやってこない。不幸しか待っていない衝突はない方が良いのだ。もし稀が怒ることがあるとすれば、それは相手が悪い。
 子どもの時からそうだったが、周囲の人間はよく稀を優しい人間だと口に出して評価してきた。それは稀が自然にやってみせる善行のことを言っているのだろう。
 唐突に優しいと指摘される度に、稀の知らないところで褒められる自分自身に違和感を覚え居心地が悪かったが、そう口に出して言ってくる人間は稀と同じ他人を思いやる心を持っていたのだ。それは喜ばしいことだった。まるで同志を見つけたかのような心地になったものだ。
 そうして稀は周りと同じものを共有してきたのだ。だから、こんなところで、しかも見知らぬ少年にを奪われるのは許されることではない。稀の尊厳を守りつつ、かつこの異常事態を潜り抜けなければならない。




「……やりたくもない受験勉強をさせられて、小学校で友達になって、六年間も一緒だったはやとと違う中学に行く羽目になって! お父さんは喜んだし、お母さんはよく笑うようになったし、それでいいとも思ったけど。でも、僕が学校の授業をちゃんと聞いていないと先生から聞いて、テストの点が悪くなった途端、家の中は前よりももっと酷くなっだんだ!」
「……」

 少年はそう言うと、涙を流し、持っていた包丁を自分の腕の前にかざした。
 なるほど、ナイフは脅す以外にも使い道があったのか。全く勘弁してほしいものだ。

「僕は人の役に立ちたい! だから――」
「ねえ、名前は?」
「……名前?」
「うん、そう。君の名前」

 少年はぽかんと口を開ける。そして何が言いたいのか分からないと訝しげに稀を見上げてきた。

「聞いてどうするの?」
「……いや、言いたくないならいいけど。でも、自分の腕を傷付けるのはやめてくれない? 君が血を流したって、飲めないよ」
「なんで!」
「もっ、びっくりするなあ……」

 ぐっと詰め寄ってくる少年の目から視線を逸らさないようにする。ナイフが気になるが、ここで目を逸らしたら逆に状況は悪化する気がしてならない。
 この少年はどうしてか、たまたま読んだ小説の作者に助けを求めてきた。今この少年が頼れるのはその作者だけだったのだろう。血を吸って欲しいなんてなかなか飛び抜けた思考回路をしているが、もう少し他の方法でアプローチしてほしかったものだ。それほどこの少年が追い込まれていたとも言えるか。

「君が自分を傷付けても、私は喜ばないし感謝もしない。それに、こんな大勢の人がいるところで声を掛けてくるってことは、本当は誰かに止めて欲しいと思っているんじゃない? まだ誰も傷付けていないのがその証拠」
「…………」

 ほら、やっぱりそうだ。少年の目に正気が戻ってきた。

「君の親をどうこうするなんて無理だけど、でも、もっと視野を広く持った方がいい。隼くんだっけ?」
「……隼、そうだよ。僕の友達」
「隼くんと友達でいたいなら、ナイフを床に置いて」
「……」

 少年は口を引き結んで躊躇っている。武器を手放すことに不安があるのだろう。だが、少年は血を飲んでほしいなんて欲求が本当にあるわけじゃない。

「うちは、君の血は飲まない。その代わり、助言ならしてあげられる」
「助言って……!」
「だから、視野を広く持つんだよ。君は家の中がめちゃくちゃで、辛い思いをしている。しかもその原因が自分だと思い込んでいる。……でも、そうじゃないよ。君はまだ子どもだから気付けなかっただけだよ」
「じゃあ……なんだっていうんだよ」
「教えるけど、勘違いはしないでね。……君はこの世に産まれてきて、それから家族とずっと一緒に暮らしてきた。だから、君は親が神様か何かのように感じてるんじゃない?」
「……神様って」
「だから、親を否定することは君にとっての神様を否定するようなものだから、どうしても親のせいにできない。だから自分のせいにした。……言っておくけど、親ってのは完璧な生き物じゃない。神様じゃないんだよ。だから間違ったりもする。それを受け入れるかどうかは君次第だけど、もっと視野を広げないと。君は隼くんって子と友達なんでしょ? 友達っていうのは自分で勝ち取ったものだから、君が大切にしなければならないのはそっちだと、私は思うよ」
「…………でも」
「君は今日、私に血を飲んでもらう為にここに来たんじゃない。自分を取り巻く環境を変えたい、変えてほしいと思って私に助けを求めてきた。これはチャンスだよ」
「チャンス?」
「そうだよ、自棄になって絶望しちゃ駄目だ。君は自分の幸せを願う資格がある。……そのナイフは君を幸せにはしてくれない、絶対に。むしろ今よりもっと不幸になるだけだ。だから、床に置いて」
「……それ、本当ですか? ……チャンスって、本当の本当に?」
「嘘は言わないよ」

 少年はうつむいて、両手で持ったナイフを手の中で転がした。その動作に一瞬ぎくりとしたが、声が縋るような涙声になっている。やはりまだ子どもだ。少年はただ誰かに助けてもらいたかっただけなのだ。

「う、うう……うぇっ」

 少年はナイフを床にぽつんと置くと、その場に座り込んで泣き出した。稀はそのナイフを拾って遠くに投げ飛ばすと、少年の手を握ったまま警察が駆けつけるのを待った。
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