あなたと私のサイコパス(元 潮の香り)

団子(仮)

文字の大きさ
24 / 27

それぞれの基準 2

しおりを挟む
 ……優しい? 私が? 

 絵里からその言葉が出た瞬間、嫌な緊張が体を走った。

 優しいってなんだ、どういう意味だっけ。

 まるでそれを待っていたかのようだった。怒りと焦りがない交ぜになったような感情がどこからかさざ波のように押し寄せて、じわじわと稀を侵してきた。気付かなかった、背後にそんな波が迫っていたなんて。
 逃げたいとは思っても、足を動かす気にはなれない。嫌なのに甘んじて受けるしかないのだ。

「どうしたの」
「は、あ――」

 足裏を濡らすだけだったものが、次には足首の上まで完全に浸ってしまう。太もも、腰とあっという間に水位が上がって、遂には地面に足が着かなくなる。
 稀は酔ってしまいそうな波に身を投じる事になり、気休めに新鮮な空気を肺に送ろうとしたがあまり意味はない。つんと鼻に付くようでいて生ぬるい、重く湿った海のにおいを体に取り込んだだけで気分は悪くなる一方だ。
 空は灰色に覆われ太陽の光は届かず、目の前には絵具のようにぬったりとした透明感のない海。寂しい世界がどこまでも広がっている。



 何時の間にか閉じていた目を開ければ、絨毯の淡いクリーム色が目に入った。こっちの世界にしかない、温度のある色だ。

「……っ」

 思わず顔を顰める。せっかく現実に戻って来たのに、頭の中だけじゃなくこの部屋にも波が押し寄せてきそうな気がするのだ。瞬きした次の瞬間、足下が水に覆われているんじゃないかという恐怖心がある。あれはイメージでしかないのに。

「稀ちゃん、大丈夫?」
「…………絵里さん」

 気遣うように肩に手を置かれて、少し余裕が生まれる。

「もしかして気持ち悪い? あんまり、お酒に強くないのかな」
「……いえ、そうじゃありません」

 分からない。絵里の言う優しいとは一体どういうことを指しているのか。
 山の斜面を昇ってくる霧を前にしているようだった。動きは見えても掴んだ手の平には一向に感触として伝わってこない。目の前に迫るそれは掴める筈だったのに、触れないからいつまで経っても正体は掴めない。

 どうして、いつから分からなくなったのだろう。思わず口を突いて出たのは否定の言葉だった。

「違います、私は優しくなんかない。絵里さんは勘違いしているんです」
「……どうしたの? そんなことないって」
「私は――」

 隣にしゃがみ込んだ絵里と視線がかち合って、どうしようもなくなった稀は全てを白状した。

「私が優しいなんて間違いです。絵里さんと神社に行ったのも、こうやって二人で話しをしているのも……ただ自分にとって都合が良かっただけです。ネタを探せないかと思っただけ。私はいつもそう、自分のことしか考えてこなかった。今回の事だって、自分の予定を崩してまで絵里さんと行動を共にしたりなんかしなかった……!」
「…………」

 声を荒げそうになって自然と肘掛けに置かれた指に力が入る。絵里の視線は外されなかったが、どんな表情をしているのかよく認識出来なかった。
 しかしもう、これで関係が終わる。先に視線を外したのは稀の方だ。

「うちはその程度の人間です。絵里さんとの旅行をキャンセルした人と何も変わりありません。絵里さんは私に騙されて、勘違いをしている。私はあなたの理解者でも友人でもない、だから」
「……そう」

 一呼吸置いて、絵里が零したのは実に簡潔な言葉だった。

「そうだったんだ」
「……」

 それは意外にも優しい声色で、微笑しているのが分かる。
 どうしてここで笑えるのだろう。理解が追い付かなくて稀は続きを待った。

「話してくれてありがとう。……やっぱり、稀ちゃんは優しいよ」
「――は?」

 笑顔でまた優しいと言われた瞬間、頭が沸騰しそうになった。

「私の話、聞いてました?」

 どうしてこんなに腹が立つのか。どうして彼女が同じ言葉を繰り返したのか。全く意味が分からなくて絵里の方を見ると、眉間に皺を寄せている稀を笑うような形で笑顔を返してきた。その表情は稀の発言に傷付いているどころか、喜んでいるようにも安心しているようにも感じられる。

「稀ちゃん、さっき言ってたよね。皆好き勝手やってるって。目的は違ったのかもしれないけど、私達が一緒に神社に行ったのも、こうやって話をしているのも、稀ちゃんが望んでいたってことではあるんでしょ?」
「……私は吸血鬼の話を書かなくちゃいけない。だから、私は絵里さんを観察してみたかっただけなんです。私達に絵里さんが思うような関係は最初からありません」
「うん、きっと稀ちゃんは本当のことを話してくれてるんだと思う。……でも、どうして今打ち明けたの? そのままにもできたよね」
「…………」

 そう言われて言葉に詰まってしまう。確かに自分はどうして隠し通さなかったんだろう。引き金はそうだ、彼女に優しいと評されたから。でも、どうしてそれが引き金に成り得たのだろうか。
 彼女の笑顔の意味が分からない。でも絵里は優しいということがどういうものなのか、もしかしたら知っているのかもしれない。知っていて、言っているのだとしたら……?

「皆、好き勝手やってる。稀ちゃんも私と一緒に過ごしたのはそういうこと。……でもそうじゃなくて、それを隠さずに話してくれた事が重要なの。稀ちゃんは私と対等な関係を築きたいって思ってくれたんじゃないかな、多分。だから私は嬉しいし、打ち明けてくれた稀ちゃんは優しいと思う」
「……対等な関係? 嬉しい? やっぱり、意味が分かりません」
「んー、そうかな。確かに普通の考え方じゃないと思うけど。私の勘違いかもしれないしね」

 穏やかに笑う絵里は安心し切っていて、稀には今までで一番心を許しているように見えた。

 彼女は、何を考えているんだろう……嬉しい?

 糸口が見付からない。どんどんこんがらがって、考えが纏まらなくなってくる。

「絵里さん、今私に馬鹿にされたって分かってます? 対等な関係を築く為だなんて、そうだとしても馬鹿にされたんですよ。笑うんじゃなくてもうちょっと、怒るとかないんですか」
「ふふ、そうだね。でもどうしてかな、馬鹿にされてる感じがないから怒れないんだよね」
「それは……」

 もし、逆らう気が起きないのだとしたら? 稀に何を言われても、良いように捉えることしかできなくなっているとしたら?
 絵里の言葉をそのまま受け取ってしまって良いのか。でも、絵里はそんな簡単な人間じゃなかった筈で……。

「絵里さん、やっぱり私は優しくなんかないです……」

 絵里の視線を避けるように反対方向を向けば、夜の窓ガラスに写った自分と目が合った。稀にはどうしてもそういう人間に見えない。絵里の目にどう映っているのかさっぱり分からない。

「……そっか、稀ちゃんはそう思うのかもね。でも、きっと私の考える優しいっていうのは、稀ちゃんとは基準が違うんだと思うよ。普通の人とも違う、あくまでも私の価値観でしか成り立たない。だから私が優しいって思ったら、少なくとも私にとっては優しいってことなんだと思う」
「――――絵里さん……」
「難しく考えるから分からなくなっちゃうんだよ。私は山頂からの景色を一緒に眺めたり、お風呂入ったり、食事したりして楽しかったから。それだけで十分」

 絵里は椅子に凭れ掛かるようにして稀の隣に座り込んだ。椅子の陰に隠れて絵里の姿が見えなくなる。
 窓ガラス越しにそれを追いながら、稀は理解し難い思考に驚いていた。

「――呆れた。打ち明けさえすれば、どんな目的でも関係ないってことですか? 楽しかったといえる? ……ふっ、考え直した方が良いですよ。それは自分を見失っている状態とそう変わらないと思います」
「あ、言うなあ! どんどん口が悪くなってる……!」

 声を大きくしても、怒っているには程遠い。むしろ楽しそうだ。

「でも、分からなくてもいいよ。私のことは今まで通り扱ってくれて構わないから」
「……ふうん、そうですか」

 ……彼女は、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。

「なら、お願いしたい事があります。吸血鬼の話を書くのにどうしても試しておきたい事があるんです」

 稀は絵里の手をすくうように持ち上げて、親指の爪を手の甲に軽く滑らせた。

「ここにちょっとだけ傷を付けて、血を吸ってみてもいいですか? 吸血鬼の真似事です。……あなたのいう対等な関係は理解出来ませんが、今まで通りで構わないんですよね。だったら、協力してくれますね」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...