虜の虎

餅川

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虜の虎-7

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「ありが、とうございました。どうかまた、ごしめい下さい」
 
 毎回毎回お決まりの挨拶をどうにか口から吐き出す。牙が何本か折れて、喋るのが少し大変だった。すぐに生え変わるけどやっぱり痛い。
 懸命な努力も空しく客は振り返りもせずに去って行く。いつもの事だ。
 無視じゃなければ無作法な挨拶に怒って殴られる。気色悪い客相手だと甘えた声で媚びなきゃいけないからもっと大変。
 
「べとべとになっちゃったな」
 
 身体中にまとわりついた、汚らしい液を手で拭う。精液だけじゃなくおれの血と吐き出した胃液までもが混ざっている。
 これもまたましな方だ。特にイカれた客だともっと酷いもので身体中を汚される。身体の表面だけじゃなく、中までも。
 そう考えると今日はついているんだろうな。久しぶりに良い客を引けた。
 馴染みである犬人のお兄さんで、仕事で失敗する度にきておれで鬱憤を晴らす。といってもおれに土下座をさせたり排泄物を食わせたりとか、屈辱的だったり変態的な行為をさせるわけではない。
 ただおれをぶん殴って、それから犯すだけだ。畜生、畜生とぶつぶつ呟きながら。何もしなくても終わるから良い。
 
「ん、顔は痣も付いてないし。骨も大丈夫かな」
 
 精液を拭うついでに鏡で全身を確かめてみる。空色の肌は痣だらけで触ると痛いけど、骨に異常は無いようだ。こうして自分で身体を確認する作業にも慣れてしまった。
 もし肋骨でも折れているようだったらオーナーに報告しなければならない。治療と、ついでに乱暴なプレイができないように客を選ぶ必要が出るからだ。
 オーナーは冷酷だけど頭はまともだ。そこそこに稼げる商品を使い潰したらもったいないから、ある程度は大事にしてくれる。
 熱い鉄串でおれの鱗を焼いた奴は出禁にしてくれたし。子どもの頃は人間のクズだと思っていたけど、ここでちゃんと仕事をしていれば最低限命の保障はしてくれる。
 合理的で金が大好きだけで、大金を積まれたらそれが殺人鬼だと分かっていても娼夫を売り飛ばす冷酷な奴。
 だが少なくともイカレ野郎じゃない。おれなんかが生きていけるのはオーナーのおかげだと感謝もしている。猪に壊された豹人みたく、絶対の安全というわけではないけれど。
 おれに商品価値が無くなれば、ゴミみたいに捨てるのは分かっている。それでも役に立っていれば捨てられないと分かるのはありがたくて、安心できた。
 
「綺麗にしないと。シーツは…替えの出そう」
 
 急がないと次の客が来るかもしれない。さっきの客は泊まりではなく、夕方頃に来て深夜半までの短い時間だけおれを買った。
 大体の客が宿泊ではなく、ヤりたい事ができる最低限の時間だけを求める。
 宿泊をするともなれば相応の金がかかるし、おれとベッドで一晩過ごしたい酔狂な客なんてあんまりいないからだろう、おれは一日に何人もの客を取るのが常だ。
 痛む身体を励まして、シーツを取替え綺麗に整える。ある程度稼げる娼夫であれば見習いがこうした作業もするのだけど、おれには見習いがいない。
 おれに付きたがるのは皆嫌がったし、おれ自身も嫌だった。小さい子におれなんかの世話をさせるのは可愛そうだ。
 だからこうして自分で処理をする。ベッドを直したら、鏡台にある引き出しから香水を取り出して振り撒いた。
 ロクでもない娼館に相応しい下品な甘い香りが部屋に充満する。慣れていないと鼻が曲がりそうなぐらいきつい香りだ。おれはもう慣れている。
 客もこんな匂いのする部屋でセックスして平気なのか心配になるけど、精液と汗でいっぱいの部屋もそれはそれで不快だし、仕方ないんだろう。
 
「こんなもんかな。あと、身体洗って」
 
 ベッドは大体綺麗になった。染みこんだ雄の匂いはもう仕方ない。
 共用の浴場で身体も綺麗にしておかないと。他の男の匂いがするだけで怒る客もいるし。空いてるといいなぁ。おれの足だと入るのも手間取ってみんなをイライラさせちゃ――
 
 その時、備え付けてある鈴がカラカラと鳴った。ああ、もう次の客が来た。
 こっちはまだ身体が汚れてるってのに。客を通す受付も受付だ。客の相手をした直後のおれがどうなってるか知らないわけでもないだろうに。
 愚痴ってもしかたないから手ぬぐいでざっと身体をふく。客に文句を付けられてもどうせオーナーに折檻されるだけだ。
 服装はどうしよう。あらかじめ来る客が分かっていれば全裸で跪いたり、首輪だけを付けていたりとするのだけど。
 便器が服なんて着ているんじゃないと殴りつける客もいれば、そんなにヤられたかったのか淫乱めと嘲る客もいる。今日の客はどちらだろう。悩んだ結果、罵られる方が殴られるよりも面倒だからという消極的な理由で服を着る。
 粗末なシャツとズボン。身体の線がぴっちり浮き出るくらいに小さいし丈が小さくて太腿が半分くらい丸出しだ。
 娼夫が身体をみせびらかすには丁度良いんだろうけど、だいきらいな足の傷が見えちゃっていやだ。隠すように膝を抱えると、ベッドの上でうずくまる。いかつい鮫の大男には似合わない姿。

「早く終わるといいな」

 さっさと済ませて、ヤることをやってくれればその分休める。どうせマトモな客なんてこないのだし、内容はどうでもいい。傷なんてどうせすぐ治るのだから。
 膝を抱えて、ただ何もかもが面倒な気分で待っていると、やがていつものようにドアが開く。
 しかし、いつも違って入ってきたのは客ではなく見慣れた白黒のデブ、オーナーだった。その後ろにはマントをすっぽり被った大男。

「こちらがご指名の娼夫でございます。いやはや、お客様は幸運ですよ。この子は稼ぎ頭ですから、ええ。この時間はいつも馴染みの客に買われております」
 
 息を吐くように嘘をつくこの馬鹿でかい2枚舌には本当に関心する。おれは稼ぎ頭なんかじゃない。もしそうならこんな狭苦しい部屋じゃなく、もっとまともで広い部屋を与えられている。
 だが今はオーナーに関心している場合ではない。慌てて姿勢を正す。オーナーがわざわざ案内をしている上にこうも畏まった対応をしているのだから、この客は相当な上客だ。失礼があったら絶対罰を受ける。
 横にも縦にも広いオーナーの後ろに続き、マントの男が入ってくる。巨漢という言葉が相応しいその男はオーナーより更にでかい。
 筋肉だらけのおれとは違って脂肪も纏ったぶ厚い肉体なのがマントの上からでも見て取れる。種族は分からないが、こんな大男が客ならばさすがに覚えている。初見の客だろう、と判断したおれはすっかり慣れてしまった挨拶をする。
 
「今宵は私をお買い上げ下さってありがとうございます。鮫人のノアと申します。初にお目にかかりますが、今宵はどうかお楽しみ下さいませ」
「ん、うむ…」
 
 低くて男らしい声。でもなんだか震えている気がした。とん、とんと音がしたので足元を見てみると大男はブーツを何度も踏み鳴らしていた。
 どうしたんだろう。怒らせちゃったのかな。ちゃんと挨拶できたと思うんだけど。やっぱり服を脱いでおけばよかったかも。
 
「……それでは、私はこれにて。お客様、どうかごゆるりと」
 
 オーナーはぺこりと頭を下げると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 いた所でお客がおれを甚振るのを止めてくれるわけではない。でも、薄暗い部屋に二人きりになると温度が急に下がった気がする。
 背筋がぞわぞわとして指先までもが震える。いつもの事だけど、慣れるわけではない。
 はやく、どうすればいいのか言って欲しいのにお客は黙ったままだ。というか、入り口でぼけっと突っ立っている。怒っているかもしれないと思うと話しかけるのは怖いが、お客様をこうして立たせておくわけにはいかない。
 
「お客様、マントをお預かりします」
「あっ、ああ。すまない…」
 
 肩をびくりと震わせるとマントを脱ぎはじめた。もしかしてだけど、緊張してるのかな?おれの客って皆遊びなれているような人ばっかりだから、よくわからないけど。
 マントを全て脱ぎ終えると、屈強な肉体を山吹色の毛皮で包んだ獣人が現れた。だいぶ歳をくってるみたいだけど、精悍な顔も服の上から分かる筋肉もとても格好良かった。質は良いけど簡素なシャツのせいで筋肉が浮き出ている。同じ男としてすこしだけ憧れる。
 でも耳としっぽはせわしなく動いて、目線はきょろきょろと動き回っているせいで台無しだ。率直に言うと挙動不審。せっかくきれいな金色の瞳をしているのに、勿体無い。
 
「あの……」
「わひっ!ままま、まだ、まだ心の準備ができてないから、待ってくれ!」
 
 ちょん、と肩に触れるとお客様は、おれに向かって両掌を向けると目をつむってしまった。
 予想外の反応だ。おれも昔はこんな風に客の相手をするのを嫌がっていた気がするな。でも、お客様がこんな態度を取るのはおかしいだろう。心の準備も何も、ここに来た時点でヤることをヤろうという気でいるんじゃないのか。わけがわからない。
 もしやとは思うが、男を買うのは初めてなんだろうか。尋ねるのも失礼かもしれないが、これじゃ埒があかない。お客様が何もしないで帰ってしまったなんてオーナーがどれだけ怒るか考えたくも無い。
 
「あの…お客様、失礼ですがこういった場所は不慣れで…?」
「っ、う、やっぱり、分かるのだろうか」
 
 分かるに決まってるだろ。お客様は手をもじもじとさせて俯いた。尻尾までも心を表すように不安げにくねっている。 予想は当たったけど正直困る。おれは客が望むようにただ命令をこなして媚を売ってただけだから、この初々しいお客様相手にはどうすればいいか全く分からない。まさか童貞じゃないだろうな。
 また、二人で突っ立ったまま押し黙る。お客様はまだ手をもじもじとさせているし、おれも服をつまんで弄繰り回している。馬鹿でかい男二人がうろたえている姿はちょっと不気味かもしれない。
 お客様をいつまでも突っ立っているわけにはいかない。足りない頭を使って考えたけど駄目で、オーナーを呼んで助けを請おうとした。
 
「その、聞きたいのだが」
 
 その時、お客様が振り絞るようにしてか細い声を出した。
 
「きみと、せせせ、性的な行為をしないというのは駄目なのだろうか…?」
「ああ、別に構いませんけど」
 
 なんだ。ヤるんじゃなくおれを殴りにきたのか。だったらそうだと早く言って欲しい。無駄に時間を使ってしまった。
 それにしても変わった客だ。おれを痛めつける客は大体尊大だった。こんなにおどおどはしていない。
 いや、まあいいかどうでも。さっさと思考を止めよう。ただ呻き声を発するだけの肉袋になろう。いつもみたく何も感じないように――
 
「そうかいいのか!じゃあ今日は君とたくさん話をさせてもらおう!」
「へっ!?は、話す?」
 
 何を言ってるんだこいつ。
 止まりかけていた脳みそが混乱する。
 娼夫といっても客に抱かれるだけじゃない。ただ酌をさせるだけで満足する客もいれば、一緒に食事をしながら恋人同士みたいに語り合うのを望む客もいる。
 でも、おれに望まれるのはこのぼろぼろの肉体を使うことだけだ。おれが口に出す必要があるのは呻き声と媚びへつらった声だけだ。
 おれ自身もその使い方が正しいと思う。おれと会話をしたって時間の無駄だし。だから、高い金を支払っておいておれと会話をしようだなんて言われて、目をぱちくりとさせてしまった。
 
 「こういう場所だしせ、セックスをしなけれならないのかと思ったよ。いやあ安心した」
 
 その反面、お客様は急に笑顔になると饒舌に喋り始めた。声の調子も明るくなった気がする。その笑顔はあまりにも眩しくて、普段おれに向けられるものとは全く違った。こうして笑うとなんだか可愛らしいとさえ感じる。
 けれど、同時にこの笑顔が不気味だった。わざわざおれなんかに高い金を払って、会話をしたがるなんて何を考えているか分からない。
 
「ん?私の顔がどうしたかな?」
「す、すいません。何でも、ないです」
 
 いけない。つい見つめてしまった。なんだかうまく言葉が出ないでどもってしまう。
 あまりにも予想外な展開に脳みそが付いていけないのだろうか。しっかりと、このひとの相手をしなければならないのに。
 
「えー、あの、では、こちらへどうぞ」
「うん。ありがとう」
 
 椅子も机も無いこの部屋だし、座るところをとりあえず用意しようとベッドの上に座ってもらったがこの先どうすればいいか全く分からない。娼夫らしくお客様の隣に座るべきなんだろうか。そうするべきだよな、お客様の気が変わっておれの身体を触りたがるかもしれないし。
  
「し、失礼します」
  
 すとん、と尻同士がくっ付きそうな距離で座ると、なんだか緊張する。抱かれる時も殴られる時もなんとも思わないのに。
 で、お客様はといえば相変わらずニコニコとしてこっちを見ている。その笑顔をみているとなんだかゾクゾクして、緊張で身体がかちこちになってしまう。舌がうまく動かない。
 このお客様の意図が読めないから怖い。何を思っておれを話したがるのか、それが分からない。もしかしておれをからかっているだけなのだろうか。マヌケな娼夫の無様な姿を見て、嘲笑いたいだけなのだろうか。
 殴られるのも罵られるのもなんとも思わない。でも、こうも考えることが読めないのは嫌だった。もう何も感じないなんて思っていたくせに、なんて情けないんだろう。
 
「あ…あの……おきゃ、お客様。えと」
 
 言葉を発しようとした。したがやっぱり舌がもつれて声が出ない。そういえばまともに人と話したのもロッソさんが最後だった。決められた挨拶と嬌声以外ろくに喋っていない口でまともに話せるわけがない。
 会話すらできない自分が惨めで、恥ずかしくて更に口の動きは混乱する。「あ、あぁ、あの」などと意味不明のうめき声ばかりが口から漏れる。
 いけない。このままじゃお客様がなんて思うか。はやく、はやくしないと。どうにかして声を出そうと必死になっていると、それまで間の抜けた笑みをしているだけだったお客様が口を開いた。無能な娼夫を叱責するでも罵倒するでもなく、優しい声で。
 
「――オルド、だノアくん」
「ひっ、あ、あの?おる、ど?」
「そう。オルドが私の名前だ。本当はもう少し長いんだが、父母も妻も、皆そう呼ぶから君にもそう呼んで欲しい」

 お客様、オルドさんはゆっくりとおれに聞き取り易い速さで話した。おれの瞳を見つめながら、まるで子どもに語りかけるみたいに。おれは親が子に話すときどうするかなんて知らないけど、なんとなくそんな気がした。
 その優しい瞳で、おれを気遣ってくれたのだと分かる。これじゃあどっちが客か分からない。
 でも、それを恥ずかしく思うよりも安心感が勝った。早鐘のようにやかましく鳴っていた心臓は落ち着き、汗も止まり舌がすらすら動くようになる。
 
「オルド、さん」
「うん。私の本名は長すぎるせいかな、誰も覚えてくれないんだよ。酷いと思わないか?」
 
 にへらとして、照れくさそうに頭を掻くオルドさんからはなんの嘘も苛立ちも感じられない。このひとは本気でおれと話したいだけなんだ。そして、こんなにも愚図なおれに対して少しも怒っていない。
 出会ってから少ししか立っていないが、なんとなく分かった。このひとはたぶん変なひとで、少し抜けている。怖がらなくてもいいんだと、そう思えた。
 おかしな話だ。ほんの少し話しただけのひとなのに、おれはどうしてしまったんだろう。
 
「ノアくん?どうかしたのか?」
 
 オルドさんの声で我に帰る。お客様を放って考え事をするなんておれは本当におかしくなっている。今はただ、オルドさんの相手をすることだけを考えよう。それがおれの仕事なんだから。
 にしても、オルドさんはおれことを変に呼ぶな。「ノアくん」なんて丁寧に優しく名前を呼ばれると少しくすぐったい。不快ではないけど。
 
「し、失礼しました。オルドさん、何か飲まれますか?もしご希望がございましたら下から探してきますが」
「うん、ありがとう。それじゃあ…ああ、そこにあるぶどう酒をもらえるかな?」
 
 だからいちいちお礼を言うのはくすぐったいからやめて欲しい。
 オルドさんは、鏡台の上に無造作に置いてあるぶどう酒を指差した。お客様が酒を所望したときの為に一応置いてある安酒だ。ここに来るお金持ちたちはみんな良い酒を嗜んでいるのにあんなので良いのだろうか。
 なんて思っても口には出さないで、コップにぶどう酒を注ぐとオルドさんへと手渡す。実際にお客様に渡したのはこれが初めてだ。お客様はおれと酒を飲んだりしない。ロッソさんは安酒なんか飲まなかった。
 と、ぼんやりとしながらコップを手に取ったオルドさんを見ているが、なかなか飲もうとしないでおれをじっと見ている。これは何だ?もしかしておれが何か間違っちゃったんだろうか。
 
「ノアくんは、飲まないのか?」
「お、おれもですか?」
「うん。もしかしてお酒はダメなのか?それなら下から好きな物を持ってきても構わない」
「いえ、嫌いなわけではなくって…」
 
 これじゃお前も飲めと言われているのと同じだ。無自覚なんだろうけど。コップに同じものを注ぐとオルドさんの隣へと座りなおす。
 
「それじゃ、乾杯」
 
 コップを差し出されて、一瞬何のつもりか分からなくて硬直する。が、すぐに言葉と動作の意味を理解してコップを差し出す。
 このひとは普通の娼夫にするような真似ばかりする。喜ぶべきなんだろうけど、申し訳ないだけだ。おれなんかに普通に接しないで欲しい。
 
「か、かんぱい」
 
 コップを打ち鳴らす。乾杯の仕方なんてよくわからないけど、オルドさんの真似をしてぬるくてまずいぶどう酒と一緒に喉の奥へと飲み込んでいく。
 
「うん、美味い」
「そ、そうですか?」
 
 オルドさんは満面の笑みだ。でも、このぶどう酒は正直不味いと思う。部屋に置きっぱなしだし、安物だ。高級品とは縁の無いおれでもあまり飲みたいとは思わない味。喉を潤す以上の価値が無い。
 
「ああ美味しいよ。一人じゃないからか、いつも飲んでいるものよりずっと美味く感じる」
 
 なのにオルドさんは実に美味そうに飲み干していく。しかもお世辞ではなく本気で思っている風で。
 このひとは少し変わっていて、少し抜けていると思っていたけど、違う。かなり変だ。おれと一緒に飲んでも不味くなるだけだろう。
 顔が熱い。久しぶりに酒なんかを飲んだせいか、顔がぽかぽかとする。それを誤魔化すように頭を振る。でも、熱が去ってはくれない。
 オルドさんは何がおかしいのか、そんなおれを見てにこにこと微笑んでいる。そしておれはまた顔が赤くなる。繰り返しだ。
 会話もなく沈黙が続く。どんどん茹っていく顔をどうにかしようと、無理やりに口を開いた。
 
「あっ、あの」
「うん?」
「ええと…オルドさんは、なんでおれを買ってくださったのでしょうか。ただ話をするだけなら、おれなんかに高い金を出さなくても」
 
 さっきからずっと気になっていたことだ。おれを買う金でもっと綺麗で上等な娼夫が買える。歌も踊りも得意で、ただ話すだけでお客様を満足させられるようなのもいる。おれを話し相手にするオルドさんは全く不可解だった。
 
「ふむ…その前にひとついいかな?ノアくんの話し方のことなんだが」
「えっ、おれ、何か失礼をしてしまったでしょうか…」
 
 おれが身を竦ませていると、オルドさんは「いや、その逆なんだ」とあわあわしながら話しだした。両手を振って否定している姿は大きな体躯に似合わず子どもっぽい。
 
「もっとくだけた話し方をして欲しいんだよ。名前を呼ぶときもオルド、と呼び捨てしてくれていい」
 
 オルドさんというひとが分からなかった。かなり変で、おれの理解が及ばないことばかり繰り返す。おれにとってはお客様は敬うべき方で、くだけた話し方なんてありえなくて、呼び捨てなんて絶対に許されない。
 口をぽかんと開けているおれに対して、オルドさんの方はといえば恥ずかしそうに耳をぱたぱたとさせている。
 
「自分で言うのは恥ずかしいのだが…私は友人がいないんだ」
「は?」
「だから、気安く話しかけられるのに憧れていて……いきなりお願いしないで私の事情も話すべきだな。すまない」
「何言ってんの…」
「見れば分かるだろうが私はこんなにむさくるしい大男だ。顔は良くない。頭も良くない。話術も下手だ。できるのは剣を振るうぐらいだ」
 
 何を言い出すんだろうかこのひとは。全く予想していない言葉ばかりを言われてついつい失礼な態度をとってしまった。
 
「その、つまらない話しかできないし、笑顔を向ければみんな逃げる。私に微笑んでくれるのは妻だけだった。こんな自分を変えたいけれど、どうしようも無かった」
「あの。意味が」
「そうしたら部下がノアくんを紹介してくれたのだ。私にぴったりの娼夫がいると――私なんかの友人になってくれる素晴らしい娼夫がいると!」
 
 オルドさんは混乱しているおれを放っておいて、いつの間にやら拳を握り締めて目を爛々と輝かせている。触れば熱そうなぐらいに興奮しているのが分かる。
 おれは言葉も出せずに口をぱくぱくとさせるだけだった。このひとは、このひとはかなり変なひとで、少し抜けている。そう評価したが改める。
 このひとは変なひとで、とてつもなく抜けている。おかしい。
 
「ノアくんに出会えたんだ!あんなにもみっともない姿を晒した私を、嘲笑わない、優しいきみに!」
 
 オルドさんは立ちあがるとおれの片手を握り締めてきた。
 いきなりのことにおれの脳も肉体も固まってしまう。でも、ふさふさの毛皮もその手の暖かさも不快ではなかった。
 毎日違う客に抱かれているくせに、ひとのぬくもりを感じたのは久しぶりな気がする。
 
「頼む!私の友人になってくれ!私が変わる手伝いをしてほしい!」
 
 おれの手を包み込む手に力がこもる。でも、おれが痛みを感じたりしないようにそっと。
 言葉が出ない。緊張と恐怖のせいで喉が詰まったさっきとは違って頭がくらくらとしている。本当に何を言っているんだろうこの人。ヤりもしないのにおれを買った理由は分かったが分かる前よりも混乱していた。心臓がやかましく鳴って、うまく話せない。
 
「ちょっ、ちょっと待って!」
「ここにいる間だけでいいんだ!頼む、みっともないと思うだろうが、私を助けると思って!」
「だから待てって!」
 
 自分でも驚くぐらいの大声が出た。こんな大声を出したのは何年ぶりだろう。オルドさんがお客様であることも忘れて、つい怒鳴ってしまった。
 隣の部屋に聞こえてないだろうか。嬌声なら慣れっこだが怒声は珍しい。お客様を怒鳴ってなんて告げ口されたら。いや、今はオーナーよりも目の前の問題を片付けなければ。
 頭が痛い。息が苦しい。目の前を見れば瞳を潤ませた虎がいる。ひげをしょんぼりと垂らして、叱られた子どもみたいな顔をしてるじゃないか。良い歳した男が。
 みっともない、とは思えなかった。ただ見ているといやな気分になって、誤魔化すように言葉を漏らす。
 
「……怒鳴ってごめんなさい。でも、そんなことならおれなんかに高い金出さなくても」
 
 おれを買う金で庶民の一家一ヶ月分の生活費にはなる。ここに来るお客様は貴族や豪商のようなお金持ちばかりだ。オルドさんだってそれなりに金を持っているはずだ。大した金ではないだろうが、やはり無駄な出費だとも思う。
 オルドさんの事情なんて全く分からないが、セックスをしないのならばもっと安く買えて、まともな娼夫がいるはずだ。
 
「だめなんだ。もう他の娼夫は買いたくない」
 
 けれど、おれが問いかける前にオルドさんはぽつりと呟いた。おれの手を握ったまま手をもじもじと動かすせいで毛皮の感触がくすぐったい。
 
「君を紹介される前に、自分でも娼館に行ってみたんだ。銀の狼亭というなかなかに人気の娼館だった」
「それで、どうしたんです?」
「『ここはお友達ごっこをする場所じゃねえ!』と尻を蹴られて追い出されてしまった」
 
 それは不運だったとしか言えない。オルドさんにとってもその娼夫にとってもだ。
 その娼夫はまともで善良すぎたのだろう。金をもらえばなんでもするような堕ちた奴ではなく、妙なことをお願いする大男相手を騙して金をむしるほど悪人でもなかった。良い迷惑だったろうに。
 
「次は龍泉館というところにいってみた。異国の龍人ばかりを集めた高級娼館で、鮮やかな銀鱗と赤いたてがみの龍人を買ってお願いしてみた」
「……それで?」
 
 なんて問うまでも無いのだ。無事お願いを聞いてもらえたならばオルドさんは今ここにいない。
 
「散々嘲笑された後に、追い出された。童貞はお断りだと――私は、きみぐらい大きな息子だっているのにな」
 
 それも正しい反応なのだろう。このひとは正直言えば変だ。おれが普通の奴だったならばどもりながら話すオルドさんを見た時点で馬鹿にして、嘲笑していたかもしれない。
 おれが普通で無くて幸運だった。おれまでもオルドさんを笑いものにしていたらこのひとはきっと傷ついただろうから。
 おれにとっては不幸だったかもしれない。今はこのひとを嘲笑ってやれば良かったと少しだけ思いはじめていた。
 
「それは、かわいそうだと思いますけど。でも無理です」
「な、何故だ。やっぱりこんなお願いは気持ち悪いのだろうか?」
「そうじゃないです。そうじゃなくて、オルドさんはこんなお願いをしなくても」
 
 でも、それとこれとは別だ。おれはオルドさんのお願いを聞きたくない。聞いてあげたくなかった。
 おれにはオルドさんの友人なんてできない。お願いを叶えてあげられない。
 でもそれとは別にオルドさんことがほんの少しだけ嫌いになっていて。だから、オルドさんを拒みたかった。
 
「おれなんかにお友達ごっこをしてもらなくても、家族と話せばいいでしょう?」
 
 オルドさんにはおれと同じくらいの息子がいるのだ。そのくせ寂しいだなんて、話相手が欲しいだなんていうオルドさんを見ていると何故だか苛々した。
 この気持ちは嫉妬、と呼べるものなのかもしれない。オルドさん相手にこんな気持ちになる自分の心に驚いていた。
 オルドさんよりずっと恵まれているひとを見てきた。この国でも有数の豪商、お忍びで来ていた王族、おれの命100万個よりも価値がある宝石をじゃらじゃらと身に着けた成金野郎。そいつらを見ても羨ましいとも妬ましいとも思わなかった。なのに、目の前の男が家族のことを口にした瞬間に心がざわめいて。
 
「おれと同じくらいでっかい息子さんだっているんですよね?奥さんだって」
「それは……」
 
 目を伏せて悲しそうな顔をするオルドさんを見て、更に不愉快な気持ちになった。
 オルドさんにこんな顔をさせた自分を嫌悪し、家族を放っておいておれなんかに友人になってくれと頼むこのひとへの嫌悪。家族がいるくせに、寂しいなんて嘆くこのひとが不快で仕方ない。さまざまなものがごちゃまぜになって口から出て行く。
 
「なのに寂しいだなんて、勝手すぎるんじゃないですか。家族を放っておいて、娼夫とお友達ごっこをしてるなんて、恥ずかしくないんですか」
「そう、だな。きみの言う通りだと思う」
「おれなんかじゃなくて、奥さんとお話してればいいでしょう?言ってたじゃないですか。自分に微笑んでくれるのは奥さんだけだって!」
 
 お客様にこんな失礼な口を聞くなんてオーナーが許さないだろう。優しそうなこのひとだってこれだけ酷い罵声を浴びせればおれを許さない。おれは間違いなくオーナーから手酷い折檻を受ける。
 おれはそれでも構わなかった。いつまでももごもごと返答するオルドさんに腹が立って、口調は荒くなっていく。胸の中にあるぐちゃぐちゃとした気持ちが溢れて止まらない。生まれて初めて怒鳴り散らしたかもしれない喉は裂けそうなぐらいに痛かった。
 
「それは、無理なんだ。私の妻は」
「ああ!?もうなんだって言うんだ!?」
 
 オルドさんの手を振り払って、立ち上がる。使い物にならない片足のせいでぐらりとよろけるがこらえる。
 頭が完全に茹で上がっていた。オルドさんは明らかに何かを隠そうとしていて、それも尚更気に障った。
 
「もう、妻はいないんだ。病で倒れて」
 
 そう呟くとオルドさんは瞳を伏せた。今日一番の悲しげな顔をして。熱と醜い気持ちでいっぱいだったおれの頭と心が急激に冷えていく。
 
「っ、ごめんなさい、おれ」
 
 オルドさんの態度を考えれば分かることだった。余りにも馬鹿な自分が恥ずかしくて惨めで、死んでしまいたくなった。このひとを羨んでいたんて、最低だ。おれよりずっと辛い目にあってるじゃないか。おれには母さんの思い出なんてない。父さんとロッソさんも死んだわけじゃない。大事なひとを永遠に失ってしまう痛みは、おれには想像できないくらい重いだろう。
 オルドさんはまだ瞳を伏せたままだ。おれが振りほどいてしまって手は硬く握り締められている。
 ちゃんと謝らなければ、と思うが声が出ない。お互いに押し黙ったままだ。沈黙をどうにかして打ち破ろうと、オルドさんの肩へと手を伸ばした。触れてどうしようかなんて考えてはいなかった。ただ、オルドさんの悲しげな顔をこれ以上見たくなかったのだ。
 
「う、おっ!?」
 
 それが失敗だった。加熱され、急激に冷やされたおれの脳みそはまともに動かない。加えておれの片足は完全に動かない。そんな状態で身をかがめたものだから、バランスを崩して床へと倒れこみそうになる。
 
「っと、危ない!」
 
 しかし、おれの身体は中空で停止する。オルドさんがおれを受けとめてくれたのだ。うすらでかく筋肉が無駄に付いたおれはかなり重い。だがオルドさんは腰をわずかに浮かせた不安定な体勢でやすやすとおれを抱えている。
 丸太のようにぶっとい腕で抱きとめられると、そのぬくもりと逞しさでなんだか安心してしまった。オルドさんはそのまま、まるで壊れ物を扱うみたいにおれをベッドへと座らせる。
 
「大丈夫か、ノアくん?」
 
 あんなに酷いことを言ったおれにオルドさんは優しく声をかけてくれた。どこまでお人よしなんだろうこのひとは。
 殴られて犯されるときよりも、オルドさんに優しくしてもらっている今の方がずっと痛くて苦しい。おれはこのひとにどうやって謝ればよいのだろう。オルドさんはきっと許してくれるだろうけど、自分で自分が許せない。
 そうして俯いていると、オルドさんの手がそっとおれの頭に触れる。驚いて見上げるとまた優しい笑顔があった。
 
「ありがとう」
「え……」
 
 どうしてお礼なんか言うのだろう。おれはオルドさんに罵られなければならないのに。
 
「私の家族の為に、怒ってくれてありがとう。きみの言う通り、私は間違っている。本当ならば今すぐにでも息子のところへ行かなければならないんだ」
 
 オルドさんは微笑んでいる。でも、その声色は今すぐにでも泣き出しそうなものだ。さっきひげをしょんぼりと垂らしていたときよりも、ずっと悲しそうだった。
 なら、何で。それが分かっているならば何故、この優しい虎は息子を放っておいて、おれなんかと。
 
「息子はずっと私と話してくれないんだ。目も合わせてくれない。妻が逝ってからずっとだ」
 
 オルドさんの手は小さく震えていた。おれよりも逞しい肉体をしているし、毛皮も瞳も美しい。なのに、その表情にあるのは無力感だった。自分には何もないと、今すぐにでも叶えたい望みがあるのに自分にはどうにもできないと嘆いている、そんな感じを受けた。
 
「息子が大きくなる度に私を見る目は冷たくなっていった。最近はあの瞳が怖くて、話しかけることすらできなくなっていたんだ」
「オルドさん」
「私の何がいけなかったのかも分からないんだ。もしかしたら、全部かもしれないな。友人も作れないような男に子を育てられるわけもない。でも私はどうにかしたかった。あの子とまた話したかった」
 
 オルドさんはそこまで話すと、残りのぶどう酒を飲み干した。空になったコップをテーブルに置くと小さく息を吐く。
 おれは何も言えないでオルドさんを見つめていた。このひとは寂しいんだろうか。悲しいんだろうか。
 
「――だから、まず自分を変えてみようかと思ったんだ。友人ができれば私も少しは変わるかもしれない。ひとと話すことに慣れれば息子とも話せるようになるかもしれないと」
 
 違うな。このひとが抱えているのは愛情なんだ。息子さんをどうしようもないぐらいに愛していて、それでも愛し方が分からない。不器用で愚かでかなり抜けていて、そして優しいこのひとはそんな自分をどうにかしたかったんだろう。
 何もかもが理解できなかったこのひとのことを、ようやく分かった気がする。
 
「でも、間違っているよな。きみたちにとっては私と話すのなんて、仕事でしかない」
「……」
「ああ、ごめん。嫌な言い方だった。違うんだよ、ただ私はそんなことにも頭が回らない馬鹿だったなと思って」
 
 自嘲するように笑う。おれは何かを話そうとしたが、何を言えばいいかも分からなかった。オルドさんも息子に接するときこんな気持ちなのだろうか。
 そんなことはない、と嘘でもいいから否定するべきだったのだろうか?でも、オルドさんはそんなもの望んでいないだろう。じゃあ肯定してやればいいのか?これ以上このひとを責めてやればいいのだろうか。
 
「そんな顔しないでくれ。ノアくんには本当に感謝してるんだ。私が本当に馬鹿だと教えてくれたから。もう、金を払って友達になってくれなんてお願いはしないよ」
 
 太い指がおれのひれをくすぐる。そっとおれの頭を撫で回す。おれがいつもされている、淫猥な愛撫とは違って、あやすみたいな優しい指先だった。おれには経験がないから分からないけれど、子どもを撫でるときはこうするものなのだろうなと思う。
 本当は息子にこうしたいんだろうな。おれなんかじゃなくて、愛している自分の息子と酒を飲み交わして、話して、頭を撫でてやりたいのだ。
 この手が心地よかった。さっきあれだけ怒鳴り散らしたくせに、愚かで情けなくて、脆くて優しいこのひとを嫌いではなくなっていたんだ。
 できればずっとこの時間が続けばいいとさえ思った。でもオルドさんは手を離してしまう。おれで自分の心を慰めるのをやめて、憂いを帯びた小さな笑みをおれに向ける。
 
「息子と話してみるよ。何をすればいいかも分からないが、頑張ってみる」
「オルドさんは、オルドさんはそれでいいの?」
 
 自分で望んだくせに、オルドさんを引き止めたくなる。オルドさんはそれでいいのだろうか。きっと、うまくはいかない。オルドさんが頑張れば愛情は伝わって。何もかもが解決するなんて。そんな都合の良い話があるわけがない。どれだけ愛していても伝わらないないなら無いのと一緒だ。
 そうしたらこのひとは一人だ。誰にも頼れないで、甘えられないで一人で頑張らなければならないのだろうか。
 
「ああ。きみのおかげで勇気が出たんだ」
 
 オルドさんはおれの心の内まで読んだように笑う。
 おれのおかげなんかじゃない。おれはただ、馬鹿だっただけだ。何も知らないくせにオルドさんに怒鳴り散らして、手を振りほどいて。
 頷いてやれば良かったじゃないか。おれにはお友達のフリなんてまともにできないけど、オルドさんが飽きるまでやってあげればよかったんだ。
 おれには何もできない。できるのは身体を使われることだけだ。そんなおれでもオルドさんの役に立てたかもしれないのに。断ってしまったせいで、おれにはもう何の役にも
 
「だから、もう少しだけ勇気をくれないだろうか」
 
 その時、オルドさんの声がした。自分を嫌悪して、思考の海に沈むおれにもはっきりと響く声で。
 
「オルドさん?」
 
 オルドさんの手が再びおれの手を包んでいた。さっきまで感じていたぬくもりをもう一度感じて、嬉しさがこみあげた。さっきは分からなかったけど、少し硬い肉球の感触も、箇所によって違う毛皮の感触も、感じるオルドさんの中を流れる血の音もすべてが心地よく感じた。
 
「きみに、もう一度お願いしたい。私の友人になって欲しい」
「え……」
 
 言葉を失う。オルドさんの言葉の意味が分からない。正確には理解しているが思考が追いつかない。さっき言ったじゃないか、娼夫に友人になってくれと頼むのはやめるって。
 オルドさんが自分の言葉を取り消すとは思えない。やはり怖いからやめるなんて、情けないことを言うわけがない。
 わけがわからないままでいると、オルドさんはまた笑った。今度の笑みは憂いを含んだものではなく、ただひたすらに明るくて優しいもの。
 
「お金を払ったからじゃない。きみと、普通の友人になりたいんだ」
 
 オルドさんの瞳がおれを見つめる。その金色の瞳は綺麗で、眩しくて、まっすぐだった。あまりにも輝いていて、おれの心の中まで照らされそうで、目を逸らす。
 
「なんで、なんでそんな」
「きみが優しいひとだからかな」
 
 おれが優しい?おれがしたのはオルドさんを傷を抉ることだけだ。オルドさんを何もしらないくせに嫉妬して、自分の醜い心の淀みをぶつけただけだ。おれが優しい、なんて思われる理由が思い当たらない。
 
「さっき怒ってくれたじゃないか。家族を放っておいて娼夫と遊んでるんじゃないと」
「それは、違うんです。おれはオルドさんに腹が立っただけで」
「私の家族の為に怒ったんだろう?だからきみは優しいひとだよ」
 
 違うと否定したかった。おれはオルドさんの家族のために怒ったんじゃない。ただ嫉妬しただけなんだと。
 でも、声が出なかった。おれの醜い心を曝け出したらオルドさんは暖かい手を離してしまう気がしたから。
 そして手が震えているのを感じたからだ。ごつくて、たこがいくつもできている男らしい手だ。でもその手は震えていた。おれが昔、ここに来たばかりのころと同じように。
 
「嫌なら、ノアくんが嫌なら、断ってくれていいんだ。これは客としてのお願いじゃない。私からのお願いだ」
 
 その声も、必死に取り繕うとしているが震えている。このひとは怖いんだ。
 このひとにとってはとても怖いことなのだろう。ろくに友人もいなかったひとが、自分から友人になってくれと頼むのだ。
 情けないと言えるのかもしれない。でもおれにはこのひとの手をもう一度振り払うことなんて、できはしなかった。
 
「ノアくん、駄目だろうか?やっぱり、私なんかでは駄目だろうか…」
「……おれは」
  
 この人は、まともな客じゃない。愚かと言って良い。優しいけれど、馬鹿だ。物を知らない。
 金で媚と身体を売る娼夫相手に友達になってくれとか言っちゃうんだから。それも娼夫としてではなく、おれへのお願いだなんて言って。
 まともな娼夫な鬱陶しい客が来たなと思いながらも、適当に作り笑いをしてあしらうのだろう。
 あくどい娼夫ならば良い金づるが出来たとほくそ笑んで、たっぷり金を毟りとろうとするのだろう。
 
 そして役立たずのおれは断るべきだ。おれはこのひとのお願いを叶えられないから。
 おれには友人になんてなれないできない。おれには友人なんていない。いたことがない。娼館に来る前から、来てからもずっと。
 他の娼夫仲間にはいるんだ。仕事が終わった後、貰い物の酒を飲んで部屋でぎゃあぎゃあと騒いでいるのを見かける。でもおれはその輪に入れない。
 そんなやつが友人になろうだなんて笑わせる。すぐにオルドさんをがっかりさせてしまうだろう。
 
「おれは、優しくなんかないですよ。オルドさんが思ってるような奴じゃないです」
 
 俯いたまま呟く。オルドさんはどんな顔をしているか分からない。ただ手のぬくもりと、脈動だけが伝わる。
 このひといるのは楽しい。変なひとだけど、嫌いじゃない。今握ってもらっている手のぬくもりが心地よい。
 でもおれはこのひとといちゃいけない。おれは身体を提供するしかできない。オルドさんは身体を求めていない。だからおれはオルドさんに何もしてやれない。友達なんて関係は成立しない。このひとの寂しさを紛らわせてあげられない。だから断るべき。
 断ればこのひとは悲しむだろう。でも、おれなんかが友達になったって迷惑になるだけだ。おれなんかよりずっときれいで頭が良くて、愛想も良い娼夫はたくさんいる。そいつらを教えてやるべきで。

「――それでも」
 
 なのに、おれは手を振りほどけなかった。しましまの手を見つめながら、言葉を紡ぐ。オルドさんの顔を見る勇気が無い。
 このひとに関わっても辛くなるだけだとは理解していた。おれなんかを好きになってくれるひとはいないんだ。
 きっとこのひとはおれのことを何も知らないんだ。おれがついさっきまで殴られて犯されて精液塗れになっていたなんて知らない。服の下が痣だらけであることも知らない。
 頑丈で、他に何も出来ないから、他の娼夫にはできない行為を散々されてきた。オルドさんがそれを知ったらどうなるか。きっと軽蔑するだろうな。おれもオルドさんも嫌な気持ちになるだろう。このお願いを聞く理由なんて、何も無い。

 でも。
 
「それでもいいなら、喜んで」
 
 でもおれは手を握り返してしまった。おれの片手を包むオルドさんの手を、もう片方の手で握りしめる。自分でも何故握り返してしまって分からなかった。ほんの一瞬だけ後悔する。自分はとてつもない間違いをしてしまったのではないかと。
 
「ほ、本当か!ありがとうノアくん!」
 
 でもそんな後悔はすぐに吹き飛んだ。顔を上げるとオルドさんの笑顔が目の前にあったから。さっきおれを見つめてくれたときとは違う、辺りを照らすような明るい笑みだった。目をきらきらさせて耳をパタパタ動かしている。子どもみたいに表情がころころ変わるひとだ。
 その笑顔を見ていると、奇妙な感覚があった。心臓が早く鳴って、手のぬくもりが胸にまで伝わってくるようで。
 今まで感じたことがないような、遠い昔に感じたような何かがおれの心に生まれていた。決して不快ではなく、心地よいなにかが。
 その笑顔を見ていると、ふと背中に妙な感触があった。なにやら硬いような柔らかいような。
 
「……ん?」
 
 振り返ってみると、それはおれの尻尾だった。ふりふりと揺れて、ベッドに当たっては跳ねて、おれの背中をこすってはまた反対側のベッドへと倒れる。
 何だ?なんでおれの尻尾が揺れているんだろう?
 
「どうかしたのか、ノアくん?」
「いえ、なんでもないんです。ただ――」
 
 途中で言葉が止まる。おれの尻尾と同じように揺れるオルドさんの尻尾が目に入ったからだ。でっかい体躯に似合わない細い尻尾は、おれの尻尾と同じリズムでふりふりと揺れている。
 それを見て、おれの口元が緩むのを感じた。ああそうか。この気持ちは。
 父さん手を握ってもらったときの事を、ロッソさんにはじめて抱きしめてもらったときのふわふわした毛並みを思い出す。
 もう絶対に感じることがないと思っていた、あの感情だ。諦めていたあの気持ちだ。
 
「オルドさん」
 
 おれはオルドさんの手を力いっぱい握り返す。このぬくもりを逃がしたくないと願うかのように。
 オルドさんも力を強くして握り返す。相変わらずおれが痛がらないぐらいにそっと優しく。
 
「これから、よろしくおねがいします」
「――ああ、よろしく。ノアくん!」
 
 おれを呼ぶオルドさんの顔はおれよりずっと年上なくせに、おれよりずっと明るく無邪気で。
 この笑顔を見られて、頷いて本当に良かったと思った。
 オルドがいつかおれに飽きて、この関係も終わるのだろうと思った。それでもこの笑顔が見られればそれで構わなかった。
 オルドさんが他の友人を見つければおれは不要になるのだと分かっていた。それでも良かった。
 オルドさんと息子のわだかまりが消えれば、おれはいらなくなる。それも理解していた。おれとオルドさんの関係は、薄っぺらくて、すぐに消えてしまいそうなどうでもいい物。おれにとってもオルドさんにとっても、いつ終わってしまっても構わない関係。
 
 その、はずだったんだ。
 オルドさんに期待なんてするはずが無かったのに。おれがどうしようもなく汚い娼夫だと知っても嫌わないでいてくれるかもなんて。
 オルドさんに何かを願うはずが無かったのに。ずっと一緒にいたいと願うなんて、あるはずがなかったのに。
 オルドさんを信じるわけが無かったのに。信じたいと思うはずが無かったのに。
 
 おれが何もかもを間違えていたと知るのは、ずっと後だ。
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