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虜の虎-8
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懐かしい夢だ。
目を覚ますとオルドの匂い。きれいな毛皮とぶあつい胸板。
オルドに抱きついて眠ってしまったから、あんな夢を見たんだろうか。それとも、今日が最後だからだろうか。あの情けなくて、抜けていて、そして優しいこの虎といるのは今日で終わりになる。だから思い出を確かめていたのかもしれない。人生の終わりに走馬灯を見るみたいに。
ぴょん、とベッドから降りるとチェストから小さな箱を取り出す。
中に入っているのは統一性が無く、ごちゃ混ぜで、わけがわからないもの。
貝殻。ペンに紙。星空に関する本。可愛い魚の絵が描かれたお菓子の包み紙。異国の人形。望遠鏡。その他にもガラクタなのか価値があるのかわからないものがいっぱい。
おれにとってはかけがえのない宝物。オルドがおれにくれた贈り物たち。オルドと出会ってから1年の間にこんなにもたくさんの思い出をもらったんだ。
「騎士団長!?オルドさん、そんなすげぇ人だったの!?」
「あれ、言ってなかっただろうか」
「聞いてないです!娼館に通ってるとか、ばれたらとんでもない事になるんじゃ…」
「平気だと思うがなぁ。私の部下は連日のように花街に来てるらしいし…」
オルドはあれからちょくちょくおれの所へ来るようになった。「本当は毎日来たいんだが」と言っていたがおれを毎日買っていたらさすがに貴族様でも金がもたないだろう。
何より、おれも忙しかった。客が途切れる日は無く、オルドがおれを独占するなんて許されなかった。だから自然と二人で約束ができるようになった。週に一度。どんなに忙しくても週に一度だけは必ず会う。それが約束。
「ノアくん!今日息子おはようって言ったら返事をしてくれたんだ!」
オルドは来るたびに息子の話をした。おれと出会ってから、毎日息子に話しかけるようになったらしい。最初は変わらず無視されるだけだったけれど、少しずつ反応も変わっていったみたいだ。
「良かったじゃないですかオルドさん。一歩前進ですね」
「ああ!ノアくんのアドバイスのおかげだよ」
「おれは何も言ってないですけど。最初は挨拶から始めてみたらってだけで」
「そんなことはないぞ!ノアくんがいなかったらきっと何を話せばいいかずっと分からないままだった――ということで、これをお礼に持ってきてみたんだ」
オルドが懐から取り出したのは木彫りの人形だった。虎獣人を模したもののようで、なかなか精巧に作られているものだ。
丸々とした身体でにっこりと微笑んだ虎の人形。小さい子にあげればきっと喜ぶのだろう。でもおれに渡した意図が読めなかった。
「えーと、オルドさんこれは?」
「かわいいだろう!昨日市で売っていたから買ってみたんだ!」
「そうですね、まあかわいいはかわいいんですけど」
「かわいいだけじゃなくて魔よけにもなるんだぞ。きみを悪いものから守ってくれるそうだ」
「うーん。それはありがたいんですが」
「……もしかして、気に入らないのか?」
オルドは誇らしげに胸を張っていたが、おれの顔を見ると急にしょんぼりとした顔になった。
嬉しくなかったわけじゃない。ただおれにはこんなもの似合わないと思ったから。悪いものから守ってくれるといってもオルドさんが来ない日は毎日嫌な客と会うことになるのだ。オルドさんがおれの為にしてくれたことを無為にしてしまうようで、素直に喜べなかった。
「ごめんなさい。嬉しいんですけど、おれなんかには似合わないかなって」
「うむむ…そういうものなのか。すまない、贈り物なんて家族以外にはしたことがなくてな」
オルドはしばらくうなると「よし!」と鼻息を荒くしておれの手を握り締めた。オルドさんはしょっちゅうおれの手を握って、そのたびにおれは少しどきどきとした。ひとの身体に触れるのは慣れっこなのに、オルドに触られたときだけ反応してしまうのは何故なのか、自分でも不思議だった。
「今度はきみに笑ってもらえるようなものを持ってくるよ!約束だ!」
オルドの気持ちが嬉しかったのに、オルドがくれた物ならきっと何でも嬉しいのに、素直に笑ってありがとうと言えない自分が嫌だった。いつかオルドから贈り物をもらったときに、笑って喜べるといいなと思った。
「ノアくん、今日は自信があるぞ!手作りの焼き菓子だ!」
オルドはおれに会いに来るたびにこうして土産を持ってくるのが習慣になっていた。それも、少しばかりセンスのずれたものを。
「手作りって…もしかして、オルドさんが作ったんですか?」
「うむ!妻から教えてもらったんだよ。料理は苦手だがこればっかりは得意でな」
「…ものすごい数があるんですけど、これおれが10人くらいいないと食べきれませんよ」
「ついつい作りすぎてしまって…でも、味は良いから!食べてみてくれ!」
焦ったようにせかすオルドに促されて、可愛らしい包み紙を丁寧にはがすと木の実がたっぷり詰まった茶色い生地が姿を表した。形は不恰好だが、良い匂いがした。
オルドさんのことだから作る際にもなにかしら致命的なやらかしをしてるんじゃないか、と思いつつ口にしてみると、予想外に美味しかった。
「あ、美味しい…です」
「だろう!そうだろう!息子もこれが好きだったんだ!」
ぱくぱくと自分でもお菓子を口にするオルドさんは昔を懐かしむような顔をしていた。寂しそうでもあったし、幸せそうにも見えた。
「息子さんが好きだったって、昔もオルドさんが作ってあげてたんですか?」
「いや、昔は妻が作ってくれてたよ。庭で、紅茶を煎れて三人でぼーっと過ごしたりしていた」
奥さんとの思い出を話すオルドの顔は優しくてほんの少しの寂しさを感じたが、それ以上に幸せな気分になった。
「じゃあ、息子さんにもこのお菓子あげたらどうですか?」
「うむむ、食べてくれるだろうか。妻に作ってもらったものに比べるとかなり味は落ちるし」
「充分美味しいから大丈夫ですって。というか、持って帰ってもらわないと困ります。夏場ですからすぐにだめになっちゃいますよ。この量」
「しかし贈り物を持って帰るのもな……そうだ、娼夫仲間の皆にあげるのはどうだ?」
この量をどう処理しようか、なんて考えていたらとんでもないことを言い出した。おれなんかがお菓子を分けたって誰も喜ぶわけがない。
「皆甘い物は嫌いだろから」そう誤魔化してどうにか断ろうとしたが、オルドは許してくれなかった。
「だめだったら捨てちゃっても構わないよ。皆、案外喜ぶかもしれないぞ?」
「じゃ、じゃあオルドさんも誰かにお菓子配ってくださいよ。そうしたらおれもやりますから」
「うっ!わ、分かった。今度園遊会に出なければならぬからそのときにでも、頑張ってみる」
「園遊会って良く知らないけど、お菓子を配るのって許されるんですか…?」
オルドもやれと言えば無理強いを諦めるかと思ったが、予想外にも粘ってきた。どうして自分も嫌な思いをしてまでおれにお菓子なんて配らせるのかあのときは分からなかった。
今思えば、オルドはおれが娼夫仲間と仲良くさせようとしたのだと思う。おれが皆から仲間はずれにされていることなんて知らないはずだけど、妙なところで勘の良いオルドは気付いたのかもしれない。
そしてオルドの狙いはちゃんと成功した。おれがお菓子をどうにか手渡すと、喜んでくれるやつもいた。「美味いなあこれ。ありがとな」そう言ってお礼を言ってくれた。無視する奴もいっぱいいたけど。
あれがきっかけで、娼夫仲間たちともちょっぴり仲良くなれたのだと思う。今ではおれが身体を洗うときは手伝ってくれたり、一緒に飯を食べてくれたりするようになったんだ。
オルドはおれに優しくしてくれるだけではなくて、おれの世界を広げようともしてくれたんだ。
おれは幸せになんてなれなくて、みんなおれが嫌いで、おれはずっと一人で、醜いものばかりを見て死んでいく。そう思い込んでいたおれの世界を変えようとしてくれたんだ。
おれに星が綺麗だと教えてくれたのもオルドだ。夏が終わる頃、窓辺から入る風が少しは涼しくなってきた日。オルドは奇妙な筒みたいなものを持ってやってきた。先端に硝子がはまって、円周には花や魚が刻まれていて、なんだか面白い形。
「オルドさん、何それ?」
「これはな、望遠鏡だ!小さいけれどとてもよく見えるんだぞ」
望遠鏡、と言われてもおれには何だか分からなかった。オルドが遠くをみる為のもの、星を観察するために使う道具だと言われてもさっぱりだった。星を見る?そんなものを見てなんの意味があるのか分からなかった。
「いいからやってみよう。楽しいぞ」
そう言われて、渋々ながらも窓辺にオルドと並んで天を仰いでみた。けれど見えたのはやはり真っ黒な空と不規則に並ぶ光だけ。そもそも空を見ることが殆どなかったけど、久しぶりにみた星とやらはおれに何の感慨も与えてはくれなかった。
「うん、やっぱりここの眺めは良いなぁ!星がよく見える」
でも、おれの隣で星を眺めるオルドの横顔はとても楽しそうで。何がなんだかさっぱりだった。虎人と鮫人では見える光景が違うものなのだろうかと一瞬本気で思った。
「ほら、これで見てみるといい」
手渡された望遠鏡とやらを覗き込んでみると、ただの光とは違う形のあるものが浮かんでいた。色もそれぞれ違うし、変な輪っかがかかっているようなもの、輪郭がぼやけているようなもの、様々な姿をした塊が望遠鏡を向ける先を変えるたびに姿を表した。
(星って、あんな形をしてたんだ)
初めて知った星の本当の姿。気付けばおれは夢中になって望遠鏡を動かしていた。なんであの星は赤く光るのか、あの輪はなんのためにあるのか、大きさがどれも違うのは何故なのか、いろいろなことを考えながら無数の星を追いかけた。形も、色も輝き方も違う星は客が見につけている宝石なんかよりずっときれいで、見ていて面白かった。
「どうかな、結構楽しいだろう?」
肩に手を置かれて我に帰った。隣を見れば夜空の光を受けて淡く輝く金色の瞳。薄闇の中でもはっきりと見える明るい毛皮。そして、おっかない顔からは、いつもの少し抜けたオルドからは想像できないほどに柔らかな微笑み。
おれは少しの間見惚れた。さっき星を綺麗だと思っていたくせに今度はオルドのほうがずっと綺麗だなんて思ってしまった。
「ノアくんは星座については知ってるか?」
ぼうっとしながら見つめいていると、オルドの突然な質問で我に帰った。夜空を見上げることすらしなかったおれだ。知るわけがないと首を横に振ると、オルドは鼻息を荒くし始めた。尻尾をゆらゆら揺らして楽しみでたまらないと言わんばかりに。
「じゃあ私が教えるよ!星座っていうのは星と星を結んで、いろんな形に見立てたものなんだ」
「星と星って…あんなにいっぱいあるのに見分けられるんですか?」
「ずーっと見ているとなんとなくわかるようになるよ。それでな、星座はいっぱいあるんだ。オオカミ座とか、時計座とか。白鰐座なんてものもあるんだよ。100個以上あるんじゃないかな」
「……なんでそんなに沢山の星座があるんですか?役に立つんですか?」
「うん。農業をするときには季節についてよくわかってないといけないからな。天文学という分野でも大事だ――でも」
そしてオルドはもう一度星空を見上げた。さっきまでの柔らかいおれを包み込んでくれそうな笑みとは違って、少し子どもっぽい笑い方だった。目をきらきらとさせて、夜空を宝の地図のように見つめていた。
「でも、星座がこんなにたくさんできたのは面白いからだと思う」
「面白い?面白いからってだけで星座がそんなにたくさんできたんですか?」
「ああ面白いぞ!例えばそうだな…あそこにひときわ大きく輝く星があるだろ?その東に白い星。そしてその間に星がたくさん集まって川みたいになっている」
「えーっと、あれかな?」
「うん。あの二つの星は――」
オルドはそうして星空についてたくさんのことを教えてくれた。どれもこれも面白い話ばかりだったし、オルドがずっと笑顔なのも嬉しかった。おれが質問すれば耳をぱたぱたさせながら話して、狭い窓枠の中でぴったり身体をくっつけながら一緒に星を見た。おれもオルドもガキみたいに目を輝かせながら。
オルドの匂いも毛皮の感触も心地良くて、まだ蒸し暑いはずの夏の日なのにあったかいオルドの身体も不快ではなくて、気付くと頭の中が風邪をひいたみたいに熱くなってた。顔までも真っ赤になっているんじゃないかというぐらいに暖かく。
「…オルドさんて星に詳しいんだな」
「ん?そうだな、妻が好きだったからな。この望遠鏡もな、妻にあげるつもりだったんだ」
「じゃっ、じゃあおれなんかが使ったら不味いんじゃ」
「良いんだよ。私は使ってもらって嬉しいし、妻もたぶんこうしてほしいと思うだろうから」
そしてオルドは奥さんとの思い出も語ってくれた。星を一緒に見に行ったこと、花も好きで、庭は奥さんが世話してた花でいっぱいだったこと、自分に無頓着なオルドをよく叱ったこと。
オルドは幸せそうだった。星の話をするときよりも、奥さんとの思い出を語っているときのほうが遥かに。
でもおれはちっとも嬉しくなかった。オルドの笑顔を見れば嬉しいはずなのに。さっき星を見ているときのオルドの優しい笑みを見てたときはあんなにも心が温かくなったのに。もやもやとした「何か」がおれの心を乱していた。
おれはオルドの話に耳を傾けながらも、ずっと自分の心に異変を感じていた。オルドが帰っても、星が消えて夜が明けた後もその「何か」は消えなかった。
オルドへの想いが変わり始めたのは、この日かもしれない。おれにとってのオルドは優しくて、少し変な友達。でも、オルドに友人以外の気持ちを抱き始めた。身体に触れたい、匂いも声ももっと感じていたい。そして、笑顔がもっと見たい。そう願うようになっていた。その気持ちがなんなのかはまだ気付いていないかったけど。
でも、同時におれの心に「何か」が生まれていた。
オルドがいない日は胸がざわついた。毎晩毎晩、窓の外を見てオルドを探した。突然おれに飽きて来なくなったらどうしようかと時々不安になった。そのくせ、オルドと話しているときも胸が苦しくなった。ロッソさんのときはこんなことは無かった。次に会えるのを楽しみに思うだけで。
オルドといるのは楽しいはずだ――実際話していると笑顔になる。なのに、同時に心が乱れた。自分の心の中にあるもやもやした「何か」
「何か」おれが一歩オルドに近づこうとするたびに足を引っ張った。オルドともっと仲良くなりたいと願うたびに囁くのだ。
(オルドさんは、いつか消えちゃうんだよ?)
オルドはいつまでもおれと一緒にいてくれるんじゃないか?おれがお願いをすれば、ずっとそばにいてくれるんじゃないか?そんな淡い希望を持つたびに「何か」が打ち砕く。
(オルドさんはおれの事なんて)
オルドを信じようとしても邪魔をする。
おれとオルドの間には何も無い。何の絆も無い。繋がりがあるなんて期待をするな。そばにいたいなんて願うな。オルドを信じるな。全部無駄なんだ。そう囁いて。
心の中でおれを縛り付けて、心地よい嫌悪と憐憫の海にいつまでも留まらせようとしていた。
一緒にいると楽しい、でも会えなくなったとしても諦めがつく関係。ぬるま湯のような怠惰な時間。オルドともっと仲良くなろうとすれば、全部消えるかもしれない。
ロッソさんのときのように、調子に乗って近づこうとしたおれに失望するかもしれない。
(嫌われたく、ないだろ?)
「何か」に囁かれればおれは何もできなくなった。薄っぺらい笑みを貼り付けて、どうでも良い相槌を打つだけしかできない娼夫になった。何も頑張らないで、ひたすらに傷つかないように振舞う事以外、何も。
あの日にもらった望遠鏡を取り出すと、そっと表面を撫でる。あの日オルドにもらってからずっと使い続けてきた。そして、あの日オルドにもらったあの感情は今でもおれの心の中で燻っている。
燻っている、なんて表現は間違っているか。おれの心の中でずっと燃え続けているんだ。この気持ちはずっと消えることが無かった。むしろどんどん大きくなっていった。オルドに出会うたびに、オルドに贈り物をされる度にだ。ロッソさんに綺麗な宝石や細工物をもらったときはただ嬉しいだけだった。なのにオルドに奇天烈でセンスの欠片もないものをもらうと、喜びと一緒に胸に痛くて汚くて暗い「何か」が生まれた。
夏が終わる頃からはオルドが変わったからか、友人がたくさんできたみたいだ。
オルドはおれに会うたびにお土産と一緒に友人の話をした。新しくできた友人はどんなきっかけで出会ったのか。どうやって仲良くなったのか。いつもどんなことを話すのか。どこに遊びにいったのか。そして「ノアくんのおかげでまた友人が増えたんだ!」そんな感謝の言葉と一緒に。
「おれは、何もしていないけど」
「そんなことはない!ノアくんが以前お菓子を配れと言ってただろう?あれがきっかけで仲良くなったんだよ!園遊会に小さい子が来ていたから分けてあげたら、その子の父親が――」
オルドは尻尾をぶんぶん振りながら、実に楽しそうに話していた。でもおれの心にはちくちくする「何か」があった。
「――そのひとに海釣りに行こうと誘われてな。釣りも楽しかったんだが、良い物を手に入れたんだ!」
「……なんです、これ?」
「むっノアくんは知らなかったのか!では教えようこれは」
「いや貝殻は知ってるよ。どうしてこんなもん持ってきたんだ」
オルドがもってきたのは様々な色や形をした貝殻だ。特に珍しい形をしていたり高値で売れそうだったりはしない、普通のものばかり。
海なんて見たとが無いおれでさえもそれくらいは分かる。海で子どもが拾ってきましたよという感じだ。女の子ならばこれで貝殻のネックレスでも作るんじゃないだろうか。
可愛らしくて良いと思う。でもおれに持ってきた理由が分からなかった。いや、分かってはいた。オルドというひとをおれは大体理解してきていた。
(ばかだよな、このひと)
オルドは本気でおれが喜ぶと思ったのだろう。ずっとここに閉じ込められていているおれに少しでも外の世界を感じて欲しいと、純粋におれのことを考えてくれたのだ。その気持ちだけで幸せだった。
でもおれはその気持ちを言葉に出せなかった。いつか素直にありがとうって伝えよう、そう思っていたのに。オルドにはありがとう、嬉しいと何故か伝えられなかった。それどころか露骨に嫌な顔をして、オルドの気持ちを迷惑だと言わんばかりに振舞おうとしていた。自分でも理由が分からないけれど、オルドを拒もうとしている「何か」がおれにそうさせていた。
「ほ、ほら。ノアくんへの土産に……」
「オルドさん、おれって貝殻もらって喜びそうなやつに見えるか?」
「……駄目だったかな?」
「駄目」
落ち込むオルドを見ると心が痛んだが、おれは迷惑そうな「フリ」をしてオルドに説教を続けた。
こうして怒るのはオルドの為だ。オルドが自分以外の誰かに贈り物をするときに恥を書いたらかわいそうだから、こうして怒っているんだ。素直にありがとうと言えないのは、言わない理由はそれだけだ。そう自分を納得させようとした。
「いいか。こういうものって相手が喜ぶか考えなきゃいけないんだよ」
「むむむ、私も喜ぶと思って持ってきたんだが。いっつも」
「そ、それは分かってるけど。ちょっとずれてるんだよ。変に捻らないで宝石とか細工物とか、いっそ金貨でもくれてやりゃいいんだって」
「そんなものでいいのか?私にはとてもそうは思えないのだが」
「いいんだよ。娼夫なんか金をやってりゃそれで」
「いや、そうではなくて」
オルドは顎の下の毛を撫でながら、じっとおれを見つめてきた。
その金色の瞳で見つめられると心の中まで見透かされるようで、目を逸らした。おれはオルドと出会ってからどれだけの時間を重ねても、あのきれいな瞳をまっすぐ受け入れられなかった。
「ノアくんは、それで嬉しいのか?」
おれは答えられなかった。オルドの顔を見ることすら無理で。「当たり前じゃないですか!稼いでこんなところから出てやるんですから!」そうおどけながら答えようとしてもできなかった。
何もできないままに、オルドからもらった貝殻をずっと握り締めていた。
蒸し暑い毎日が終わって、もうすぐ秋のお祭りだというある日、オルドはいつもより興奮した様子で駆け込んできた。そればかりか、ほんの少しアルコールの匂いまでさせていた。オルドはめったに酒を飲まないひとだったので珍しいなと思ったが、理由はすぐに分かった。それほどまでに嬉しいことがあったのだ。
「ノアくん!レースだ!レースに出るぞ!やった!」
「オルドさん、分かんねえってそれじゃ」
「そっそうか!すまない、興奮してしまって」
オルドが言いたいのは冬至祭当日に行われる騎馬レースのことだった。王都の周辺にでっかいレース会場を作って、そこでレースを行うというもの。誰が優勝するかで賭け事も行われ、貴族や王族までもが来賓としてやってくる。年に一度の大きなイベンド。
「で、それにオルドさんが出るのか。すごいじゃん」
「うむ、以前新しくできた友人…豹人の彼のことを話しただろう?彼が騎手として参加してはどうかと誘ってくれたんだ」
「騎手に選ばれるのってメーヨなことなんだろ?前でかい声で自慢してた客がいるから知ってる」
「うん、陛下もご覧になられるし、大変栄誉なことではある。でもそれより嬉しいことがあってな」
何ですか、と聞く気にもならなかった。オルドにとって剣を奉げた陛下とやらより大事な存在なんて二つしかないのだから。死んだ奥さんと、そして
「ウィルがな、レースを見に来てくれるんだよ!騎手になると話したら私のことを凄いと言ってくれて!あんなに目をきらきらせて私を見てくれて、あぁ!」
オルドは感極まったように目を瞑っていた。いつもよりべらべらと喋って、興奮した様子。酒のせいだろう。元々弱いのか余程飲んだのかは分からないが、微妙に呂律も回っていなかった。
それでも普段は真面目なオルドだし、妙なことはやらかさないだろう――なんて勘違いをしていた。この大男は抜けているが、酔うと更に頭が緩む虎だったんだ。
「なんだ、すっかり仲良くなってるんだな。2ヶ月前にはおれに泣きついてたくせに」
「うん。以前よりもすらすらと言葉が出るようになったし、話題もたくさん思いつくようになったんだ。友人とこんな話をしたとか。友人に聞いた面白い話を教えてもらったり。やっぱりいろんなひとと話すようにしたおかげだ――つまり!」
「わっ!?ちょちょちょ、オルドさん!?」
「きみのおかげだ!ありがとうノアくん!」
オルドはいきなりおれを抱きしめてきた。抱きしめたままグリグリと、おれに頬ずりをしてくる。おれの身体は鮫肌に覆われているからそんな風にしたら痛いだろうに、全くお構いなしだ。
「ちょっオルドさん!?酔ってるのか!?」
「ううん、私は酔ってなんかいないぞぉ。だいじょうぶだ」
おれの方はは全く大丈夫じゃなかった。おれに回された手はあくまでそっと、花でも抓むぐらいの力であるにも関わらず身動きが取れなくなってしまった。
心臓がばくばくと鳴って、まともに呼吸ができなくなる。やかましいくらいに自分の鼓動が聞こえて、全身がどんどん熱くなっていった。
目の前にあるオルドの首下に鼻先が埋まると、汗の入り混じったオルドの匂い。お日様をいっぱい吸っているからだろうか、フカフカの草のベッドみたいに落ち着くもの。クスリでも精液でもないまともな世界に生きるひとの匂い。
それを荒くなった呼吸に任せて吸うと頭がぼんやりとして、どんどん思考力が奪われていった。
(なんだ、すげぇあったかい)
オルドの肉体は今までに感じたことがないほどに暖かだった。このまま身を任せてしまいたいと思わせるほど。思えば抱きしめてもらったことなんてロッソさん以来で。
ロッソさんに触れてもらったときの感触や熱を思い出して、おれの脳はどんどん駄目になっていった。
このままこうしていたい。太い腕に抱きしめられたまま、身を任せて眠ってしまいたい。ふかふかの毛皮を毛布にして、このまま目を瞑ってしまいたいと全身の力が抜けて。
駄目だ、こんなの、こんな事しちゃ)
オルドはただの友人で、こうして抱きしめあうなんておかしい。それにオルドは酔ってまともに頭が働いていない。オルドは純粋に、ただ感謝と喜びの気持ちだけで抱きしめてくれているのに、おれの方は醜くて浅ましい欲望が疼き始めている。固い筋肉を意識してしまう。鮫肌に覆われたはずの皮膚が毛皮でくすぐられただけで蕩けていくみたいだ。
そればかりではなく、おれの下半身へと血が通って少しずつ固くなっていた。オルドの匂いと熱を感じるたびにびくびくと震えて。もう少しオルドに近づけばズボンを押し上げているそれは触れてしまいそうだった。
(おれ、どうしちゃったんだ)
身体を売るのが仕事のくせに抱き合っているだけで発情した。それがひたすらに惨めで不可解だった。でも、おれにはこの異常を深く考える余裕なんてなくって。とにかくオルドから離れないとって焦ってばかりだった。
こんなのオルドへの裏切りだ。身体を離していつもみたいに、ただの友達に戻らないと。おれの欲情がばれてしまう前に。そう決意してオルドの手を振りほどこうとした。
「やっぱり、きみの鱗はきれいだな」
オルドがそう囁いた瞬間におれの両手は力を失ってしまった。手を振りほどこうとした手はそのまま腕に添えられるだけで終わる。
オルドの腕は背中に回され、もう片方はおれのひれのあたりをくすぐっていた。ロッソさんと違って不器用で、どこか遠慮したような手つき。
「いやじゃなかったら、もう少しこうしてても良いだろうか?」
「い、いやじゃない」
「そうかぁ。ふふふ、ありがとう」
嫌じゃないけど、離して欲しかった。鼻を近づけないで欲しかった。おれの鱗を綺麗だなんて言わないで欲しかった。そんなに優しくおれの鱗を触らないで欲しかった。客に抱かれたばかりの汗と精液臭い身体を嗅がれるのは嫌だったし、ざらざらしている肌なんかに触れてオルドが傷つかないかと怖かった。
けれど、あまりの心地よさに拒むことなんてできやしなかった。そろそろとオルドの背中に手を回し、凸凹とした筋肉を確かめる。オルドもゆっくりとおれの背中を撫でてくれていて、それが嬉しくて顔をこすりつけてしまう。駄目だという気持ちはどんどん消えていった。
「ノアくんを抱きしめていると落ち着くよ。とても暖かい」
「おれも、落ち着くけど、でも」
「嬉しいよ。誰かを抱きしめるなんて何年ぶりだろう」
オルドもおれの顔に鼻面を擦りつけて来た。鼻が傷ついちゃうぞ、と言おうとしたけどあまりに眠くてむにゃむにゃと口を動かすだけで終わる。
心臓は落ち着いた音色でとくんとくんと鳴り、くっつけあっているオルドの肉体からも同じリズムで鼓動を感じ。幸せすぎて、ずっとこのままでいたくなった。
「誰かを抱きしめていると落ち着くんだ。子どもっぽいだろうか」
「い、いや別にいいとおもうけど」
抱きしめられると落ち着く、というのならば分かるけれど抱きしめて落ち着くというのは少し不思議だった。でもオルドの声は本当に嬉しそうで、おれの背中をゆっくりと同じ調子で撫で続けていたから、本当に落ち着いているのだろうなと思った。
おれはそれが嬉しくて、尻尾をゆらゆらと揺らして。オルドの役に立てたのだと、馬鹿みたいにはしゃいでいた。
「今度は、ずっと抱きしめていたいなぁ」
でもオルドがぽつりと呟いた瞬間におれの身体がぴくりと震えた。
「今度」その言葉の意味はおれでも分かったんだ。おれを抱きしめる手はやけに優しくて、そっと壊さないように扱うのも、オルドが今考えているのは、おれじゃなくて今も愛している奥さんの事で―――
「ずっと、ずっと……」
「…オルド?」
おれにはそれを確かめる勇気なんて無かったけど、幸いなことにオルドはいつの間にか眠りについていた。おれに肩にことんと頭を乗せて。
「どうしたってんだよ、おれ」
オルドのいびきで消されそうなささやき。
何もかもが分からなかった。オルドに抱きしめられただけで発情してしまう理由も。友人でしかないオルドがこんなに触れていたくなる理由も。オルドが奥さんを想っていると分かって、こんなにも苦しくて寂しくなる理由も。
オルドへの想いの正体も、おれをこんなにも苦しめる「何か」の正体も何も、このときのおれは理解していなかった。
オルドへの想いはこの日から急激に変わっていった。本当は、とっくに出来上がっていた気持ちにおれが気づき始めただけなのかもしれない。
「何か」はおれの心の中で蠢いていて、日毎に大きくなっているようだった。でも必死に抑えつけたよ。この「何か」に屈したらオルドを永遠に失ってしまう気がしたから。
そしてオルドと過ごす時間も増えていった。いつもは話すだけで帰ったオルドが泊まっていくようになったんだ。といってもすることは変わらない。セックスなんかしないで話をして、星をみる。それだけ。
寝るときは同じベッドを使ったけど、オルドはおれの手を握ることさえしなかったよ。あの日おれに抱きついていたことを覚えているのかどうかなんて分からなかった。おれには聞く勇気なんてあるわけがない。
ただすぐそばで寝ているオルドが気になって全く眠れなかった。つい顔に触れようとして必死に止めて、匂いを嗅いで昂ぶってしまう自分を抑えようとして一人で苦しんでいた。
「うぃーっく!ノアくん、来たぞー!」
「うっわ酒臭え!何杯飲んで来たんだよ!」
「自分でも分からないなー。友人の誕生会だってたらふく飲んできてしまったー」
浴びるぐらいに酒を飲んでやってくることもあった。酒なんて全く飲まないひとだと思い込んでたので意外だったけど、本当のオルドは誰かと酒を飲んだり食事をするのが好きなひとだったのかもしれない。
おれはそんなオルドが嫌いじゃなかった。友人と楽しくやっているオルドを見るだけで幸せだったし、酔った姿を見せてくえるのはおれを信頼してくれている気がして。
「ふふふ、これはお土産だ!今度一緒に遊ぼう!」
「何だこれカード?どうすんだよこれ…遊び方なんて知らないぞ」
これはなー、こうやって並べ、並べてぇ敵とこっちの数字の合計おぉ……ぐぅ」
「オルド?あーしょうがねえなぁ全く」
酔った日のオルドはいっつもすぐ寝てしまう。お土産をおれに渡した後はふらふらとしだして最後には座ったまま船を漕ぎ出してしまう。そんなとき、おれはいっつもオルドをベッドにそっと寝かせてやった。ブーツも脱がせて、窮屈なボタンも外して、毛布をかけてやった。
「ごめん、オルド」
そして酔っ払ったオルドにはいつもぴったりと寄り添い眠った。素面のオルドには決してできないことだった。
太い腕を枕代わりにして、ぶ厚い胸に顔を押し付けて、ふさふさな毛皮で身体を温めた。少し汗臭い体臭をたっぷりと吸い込むととても落ち着けた。
「何でだろうな」
オルドとこうして寝ると落ち着けるのが自分でも不思議だった。オルドと話しているときよりもずっと心が安らいだのだ。「何か」が暴れることも無かった。オルドに抱きしめられたときはあんなにも激しく拒絶したくせに、眠っているオルドにくっ付くときはただ幸せな気分になるだけ。
おれはオルドの肉体だけが好きなのだろうか、と不安になったけど違った。それならば寝ているオルドを前にそばにいるだけなんて耐えられないだろう。
オルドの笑顔が好きなのに、笑顔で話すオルドを見ると心がざわつく。矛盾する想いを抱えながらいつも眠っていた。
「ノアくん、この本は面白いぞ。読んでみないか?」
変わったのはお土産も。星に関する本や、きれいな挿絵がいっぱい描かれた幻想的な話の載った本、世界を旅する冒険者の手記。おれが興味を持ちそうなもの本をいろいろ持ってきてくれた。
最初はいらないと断ったんだ。そもそもおれは読み書きもできなかったからな。自分の馬鹿さをオルドに教えるのは辛かった。
「大丈夫だ。それなら私が教えるから」
でもオルドは譲らなかった。わざわざ羊皮紙とペンまで大量に持ち込んでおれに読み書きを教えようとした。おれが読み書きなんて覚えられるわけないし、覚えたところで便器であるおれがそんなもの覚えたところで役になんて立たない。嫌がったけどオルドは許してくれなくて。
「ここから出たとき役に立つだろう?」
おれがここから出るのなんていつになるか分からない。出たとしてもこんな身体の奴が読み書きなんてできたって大して変わらないだろう。
無意味なことだとしか思えなかったけど、オルドが一生懸命に教えてくれるから仕方なく覚えた。まあ、おれが文字を一つ覚えるたびにはしゃいでくれるオルドを見るのは悪く無い気分だった。
「ノアくん、いいかな?」
おれに触れる回数が増えたのもこの頃だ。すぐに手を握ったり頭を撫でるひとだったけど、スキンシップの頻度もやり方もこの頃から変わっていったように思う。
窓辺で星を眺めるときは、おれの肩を抱きたがった。おれは娼夫なんだからオルドの好きにすればいいのに、いっつもおれに断ってから。
「ん。まあいいけど」
たくましい肩に体を預けながら、ぶっきらぼうに答えた。
オルドに自分を求められて本当は嬉しかったけど、いっつも面倒くさそうにしてオルドの隣に並んだ。おれが喜べばオルドだって嫌じゃないだろうに、どうしてこんな態度をとってしまうのか自分でも分からなかった。そしてオルドがおれなんかに触れたがる理由も。
オルドが来る前には客の精液に塗れ、汚物を食わされていたんだ。服で隠している部分は痣だらけだ。そんな奴に触れていると知ったら、オルドはどうするだろうか。
でもオルドに聞けるわけがなかった。オルドがそれを知った上でおれに優しくしてくれるなら幸せなことだ。でも、もしも知らなかったら。おれが愚かな質問をしたせいで知ってしまったら。こうして優しく肩を抱いてくれる腕を、汚いものに触ったときのように振り払われたら。
そう考えたとたんに心の中の「何か」がおれの口を塞いでしまった。いつも、何も言えないままにオルドの腕に身体を任せていた。
「昨日はウィルと一緒に遠乗りに行ったんだ。一緒に出かけるなんて何年ぶりかな」
オルドがウィルと過ごす時間も増えていって、土産話はウィルと過ごした時間についてのものが多くなった。
来年はウィルも騎士になるからと、叙勲式に贈るマントについての相談もされた。騎士の家ではどこも叙勲式にマントをプレゼントするらしい。貴族サマは家族を大事にするんだなとちょっとだけ羨ましかった。
「どんな柄にするか悩んだんだが…赤字に虎の顔をのっけたのと、肉球のマークをはじっこにつけたのとどっちがいいかな?」
ウィルには心底同情したなぁ。オルドのセンスはおそろしくおかしかったから。派手過ぎて奇抜すぎて、大道芸人用の衣装としか思えないものばかり考えてきた。
「うむむ…駄目か。こういうものにはうとくてな」
「オルドさんのセンスがだめなのは知ってたけど、もっと真面目なさあ」
「ならば他の候補を出そう!10個以上考えてきたからな!」
そう言ってオルドが大量のマントを出してきたときは頭を抱えた。オルドのセンスが少しおかしいのは知っていたが、間違いだった。オルドは美的感覚というものが致命的に狂っていたんだ。
「これは2番目に気に入ったものだ。私達の種族らしい金と黒の縞々。実際の毛皮のようにふかふかにしてある。冬の行軍でも使えるぞ」
「こちらは少し変化球で黒地に星を幾つも散りばめたものだ。星は赤青緑に金と実に華やかだろう。真ん中には月と太陽を配置してる」
「作ったはいいが少々地味だったのがこれだ。シンプルに真っ白な生地に青い花柄。もっと派手にするべきだったな」
「これは友人が考えたやつだな。紫と桃色に銀製の飾りを付けてある。騎士用としては少々怪しげにも思えるが、まあ若者ならこのくらいは許されるだろう」
オルドの狂ったセンスに呆れて、そしてウィルが羨ましくなった。オルドが本当にウィルを愛しているんだと分かって。ウィルに喜んでもらおうと頭を使って、笑顔でウィルにはどんなものが似合うかなと話すオルドを見ているとなんだか幸せな気分になって。「何か」も一緒に心の中で暴れた。ウィルの話なんか聞きたくないと耳を塞ぎたくなった。
(なんで、なんでこんな気持になるんだろう)
オルドがおれ以外の誰かと仲良くするのが嫌だった。オルドが笑顔になる度に暗くて汚い「何か」が暴れた。嫉妬心なんかじゃない。
おれなんかが嫉妬するなんて傲慢にもほどがあるけれど、オルドと好きなときに会えて好きなだけ話せる奴らを羨ましいとは感じてはいた。オルドに構ってもらえるウィルが妬ましかった。でもこの「何か」は嫉妬心とは違うものだった。
ロッソさんが奥さんや他の娼夫の話をしたときには嫉妬した。心の中で炎が燃えるような感覚。でも「何か」は全くの逆で、心の中がどんどん冷たく暗い海に沈んでいくような。
「冬至祭の日に、星を見に行かないかと誘われたんだ」
幸いなことにオルドにはおれの醜い心はばれていないようだった。いっつも友人と遊んだ話、友人と今度はどこに行くかを楽しそうに話してくれた。王都近くの湖に釣りに行った話、賭場に友人皆で行ってぼろ負けした話、いろいろだ。どの話にも耳を塞ぎたい気分で聞いていたが、ある日オルドが何気なく呟いた一言にずきりとこれまでにないほど胸が痛んだ。
「夜が一番長い、特別な日だからな。友人皆で飲み食いしながら一晩中星を眺めてみないかと言われてな」
「へーいいじゃん!楽しんでこいよ!」
「ん……実は悩んでいて」
「何悩んでんだよ。そうだ!ウィルも誘ってやれよ!きっと喜ぶぞぉ!」
思い悩んでいるオルドの背中をバシバシと叩いてやったけど、本当は行かないで欲しかった。星をおれ以外のひとと見ないでくれと身勝手な思いを伝えたかった。でも「何か」が赦してはくれなかった。
奥さんとは昔いっぱい星を見ていたのかもしれないけど、今は、奥さんが死んじゃった今はおれとだけの特別な行為にして欲しい。おれの心を埋める自分勝手で醜い欲望。
(嫌だ。行かないでくれよ)
ウィルと仲直りをして、友人もたくさんできた。オルドとおれには一緒にいる理由なんてもう殆ど残っていないと分かっていた。
だから、一緒に星を見るという行為を繋がりにしたかったのだろう。他の誰かと星を見たらそれも断たれてしまう気がして。
でも言えなかった。そればかりか、何故か渋り続けるオルドに「必ず行けよ!行かなかったら絶対後悔するからな!」と発破をかけた。
オルドに行って欲しくないと願う自分の心に嘘を吐き、醜い欲望を塞がれて、笑顔でオルドを送り出してしまった。
おれはオルドを送り出すときはいつも笑っていた。オルドと離れたくないなんて間違った、思い上がった欲望を見せないように、薄っぺらい笑顔のまま。
オルドが新しい一面を見せるたびにオルドへの不思議な想いは強くなり、風が冷たくなるごとにオルドのくれるぬくもりを求める気持ちが強くなった。
オルドのことを愛してしまっていた。でもおれは、決してそれを表に出さないように塞いでいた。
オルドとの関係がいつ終わってもいいように。突然に侮蔑の視線を投げられても大丈夫なように。おれの「使い方」を知ったオルドに唾を吐きかけられても、壊れないように。
いつ終わっても大丈夫なように、傷つかないように。醜い自分の心が暴れないようにと自分を檻に閉じ込めて守ろうとしていた。
でもある日、その檻は壊されてしまった。
「愛している。ノア」
オルドさんがおれを愛してると言ってくれたんだ。おれを守っている檻をぶち壊して、おれを抱きしめてくれた。
(こいつを信じるな)
おれは最初、拒もうとしたんだ。「何か」はオルドの愛を全力で否定しようとしていた。オルドがおれを愛する理由なんて何も無い。絶対に裏切られる。愛なんて見えないものを信じるな。思いつく限りの理由を挙げて、オルドの手を振りほどけとおれに命令した。
(こんな奴、愛していないんだ)
「何か」はオルドへの愛も否定しようとした。オルドを愛してしまったと認めれば、もう取り返しが付かないと分かっていたからだろう。「何か」が、おれ自身が。
オルドへの愛から必死に目を背けてきた。認めたらオルドに依存しきってしまうから。愛してしまったら、必ずオルドに愛されたいと願ってしまうから、信じてしまうから。オルドの愛も、おれ自身の愛も否定しようとした。
でも、おれはオルドを受け入れてしまったんだ。間違っているのに。おれが愛してもらえるはずもないのに。おれが愛を信じられるはずもないのに。おれはオルドの背中へと腕を伸ばして、抱きしめかえしてしまったんだ。
おれの最大の過ち。愚かな自分を殺してやりたくなる。けれどこうも思う。おれが過去に戻ってやり直しても、おれはオルドを抱きしめかえしてしまうと。それほどまでにオルドが囁く愛の言葉は甘美で魅力的で、オルドへの愛を認めると心地よかったんだ。
もしかしたら本当に愛し合って、普通の恋人になれるんじゃないかと勘違いさせるほどに。
オルドの愛ならば心に巣食う「何か」すら消し去ってくれるかもしれない。消し去って、普通の恋人になれるんじゃないかと思わせてくれた。
でも、「何か」は消えてなんかくれなかった。
消えるどころか「何か」はおれの心の中で大きくなって、おれを苦しめ続けた。
オルドが愛を囁いてくれると「何か」が暴れまわった。オルドに愛を囁こうとすれば「何か」がおれの口を塞いだ。
オルドがいない時でさえ「何か」は落ち着いてくれなかった。オルドが二度とおれに会いに来てくれないかもしれないと怯えさせ、本当はおれ以外に愛しているひとがいるかもしれないと不安を煽った。オルドの愛を受け入れてから、「何か」は肥大化し続けて、醜く巨大な腫瘍となっておれの心を完全に支配した。
(オルドは、本当はおれなんか愛していないんじゃ?)
オルドへの愛が大きくなるほどにオルドへの疑念が強くなり、オルドの何もかもが信じられなくなって、オルドといるのが苦痛でしかなくなった。
後悔は無意味な行為だ。それでも悔やみ続けてしまう。おれがあのときオルドを拒んでいれば、「何か」に従っていれば。初めて会ったときにオルドの手を振り払っていれば。信じることもできないのに、オルドを愛したりしなければ――
「う、あぁ……」
その時、微かな呻き声でおれの思考が中断された。後悔と自己憐憫の海から、現実へと引き戻される。ああいけない。こんな事をしている場合じゃなかった。
「待たせちゃってごめんな、オルド」
オルドに笑いかけると、おれは宝箱をそっと閉じる。たくさんの宝物が詰まった箱。きっともう開くことはないだろう。詰まっているのは過去の心地よい思い出だ。もう2度とおれが手に入れることのできない、綺麗な時間。おれが自分で、台無しにしてしまった物。
オルドはおれを弱くした。駄目にした。醜くした。
名前も知らない男と寝るのが嫌でたまらなくなったし、殴られると辛くて泣いてしまうようになった。
オルドがいないとき、一人で寝るのが寂しくなった。一緒にいるときは別れの時間が来るのが怖かった。どうしようもなく情けない奴になってしまった。オルドはおれが失ってしまったものを少しずつ取り戻させてくれたんだ。
「おれも変われるんじゃないかって信じたかったんだ」
オルドの笑顔をみると、自分でも変われるんじゃないかって微かな希望が生まれた。おれの大好きな優しい微笑み。
オルドが笑うとおれもうれしい。オルドの笑顔を見ると、本当に心が暖かくなるんだ。自分の顔が怖いのを気にしているけど、オルドの笑顔はどれもかわいい。普段が格好良くて頼もしいから尚更そう思うのかもしれない。
この部屋に来た時に見せる、おれを照らしてくれそうな太陽みたいな笑顔は好きだし、おれが褒めた時にする照れくさそうな笑顔も好きだ。
家族や友達の話をする時のにこにこした笑顔を見ると、おれも釣られて笑ってしまう。
おれが落ち込んだり寂しそうな時、客に酷い目に合わされて無理に笑ってる時にしてくれる優しい微笑みが大好きだ。
――でも、今転がるオルドにあの笑顔は無い。
「わたしは、わたしはぁ…あ"ぁぁあ」
ベッドの上でぶつぶつと呟いていた。目は濁りきって知性どころか心があるかも怪しい。薬を使って苦痛を上回る快感を与えても、理性を引き剥がしても薬の効き目が切れれば誤魔化せなくなる。
薬の効き目が弱まればもともとあった誇りや知性が蘇る。快感で覆い尽くせなくなった自我は堕落した自分に苦しめられる。便器である事の快楽を知ったはずなのに、それを否定したい。これまでの調教で弱ってきた自我は耐え切れなくてぐちゃぐちゃになってしまったんだ。
「うぁ、あぁぁあぁぁ、やめて、やめて」
「大丈夫大丈夫。もうひどいことはしないからさ、な?」
おれは優しく声を掛けると、オルドの額にキスをしてあげた。オルドがまともなときならばこうして素直にはなれない。でも今のオルドは何をされても分からないし、怒ることもできない。まともな、いつもの優しいオルドよりもこうして壊れたオルドの方がおれはずっと素直になれるんだ。
「オルド、ちょっとだけおれとお話しようか」
「あぁあぁ…私は、わたしが、あんな…」
「すぐ終わるからさ。な、頼むよ」
本当のオルドと話せる時間はこれで最後。何も考えられない、呻くことしかできないオルドであってもおれの愛するひとには変わりない。だから、もうちょっだけ話していたい。
「オルド、おれは狂ってるわけじゃないんだよ」
おれはオルドを愛してる。
薬漬けにして、罵って、犯して、精神までも弄くりまわしてヒトとしての尊厳を貶める。そうして終わったら記憶を消して、もとの恋人に戻る。
陵辱した。全裸で土下座させておれへの忠誠を誓わせた。少しでも反抗したら射精をさせないで地獄の苦しみと快感を味あわせた。
ちんぽのしゃぶらせ方を一から教えた。喉が性器に変わるまで一晩中舐めさせた。歯を立てたら胃液をぶちまけるまで口淫をさせた。
ケツ穴が性器に変わるまで弄繰り回した。乳首だけで精液をぶちまけられるようにした。ちんぽを弄って射精するなと暗示をかけた。
淫らな言葉を復唱させ脳に叩き込んだ。精液を口に一晩中溜めさせたまま下から突き上げた。おれのスリットにちんぽを突っ込ませながら尻尾でケツマンコを掘削した。
最底辺の娼婦でもしないようなおねだりをさせた。誰かが大通りから見上げればばれてしまうように、窓辺で自慰をさせた。恥辱と屈辱で欲情するように精神を少しずつ変えた。
おれがされて嫌だった事は全てやらせた。
「でもおれは、オルドを嫌ってなんかいない。憎んでもいない」
乱れた体毛を指で梳いてやる。月の光を受けると綺麗に輝くはずの毛皮。でも今はあらゆる体液で汚染されてみるかげもない。それでもおれは絡まって、へたった毛を少しずつ整えていく。綺麗な毛皮に戻ればオルドも元に戻るのではないか、そんな愚かな期待をして。
戻ってしまったら全てお終いだ。おれはオルドに嫌悪され、二度と会うことも敵わないだろう。なのに、今すぐ目覚めておれから逃げ出してくれないかとほんの少しの希望を抱いてしまう。おれはやめられないんだ。オルドへの愛情よりも醜い心の方が遥かに大きいから。
「おれは結局、最後まで自分一人では何もできないんだ。何も決められない。誰かが手を差し伸べてくれるのを待ってるだけ」
オルドに救ってもらった時もそうだったな。おれは自分からは何もしないで、オルドの方から愛を与えてくれるのを待っていただけだ。恐怖を言い訳にして自分からは何もしようとしない。愛するひとの為に何かを与えようとしない。傷だらけの肉体なんかよりも、この浅ましい心の方がずっと醜い。
愛してもらうことだけじゃない。愛するひとを壊すことすら自分一人ではできなかった。全部あいつのおかげなんだ。
「オルドにも話しておくよ。おれがどうしてオルドを裏切ったのか」
オルドの肉体にぴったりと寄り添う。そうして、虚ろな目をした虎の顔をおれの胸へと抱き寄せる。そうするとオルドの体温をはっきりと感じられる。このぬくもりに一度おれは救われた。救われた気でいた。
「でもな、幸せになれるかもなんて考えていたおれの前にあいつが現れたんだ」
ちらりと部屋の隅に転がった酒瓶を見る。あの酒を贈った男は祝杯のつもりだったのだろう。おれの願いが今日こそ叶うのだと、予感していたのだと思う。
「『あいつ』のことは、オルドの方が良く知ってるんじゃないか?あの猪だよ。オルドの部下だって言ってたな。オルドに復讐してやりたくって、こんな事をしたんだってさ」
オルドはずっとおれのそばにいると言ってくれたけど、まあ無理だよな。おれは娼夫でオルドは客なんだから。ずっと一緒になんていられない。ああ、責めてるわけじゃないんだ。
おれなんかでも買うにはそれなりの金が必要。オルドだって忙しい。毎日会うなんて無理だなんて良くわかってたんだ。おれを身請けするのも簡単じゃないってことも、ちゃんとわかってたんだぞ。おれは馬鹿だけど、それくらいは分かってた。
オルドが、おれを身請けしようと準備してくれていることもな。おれを身請けするならばおれがこれから稼ぐ金、奴隷商人から買いつける際に支払った金、衣装代、食費、それに加えてあの強欲なオーナーのことだから更に毟り取ろうとするに決まっている。オルドは結構な金持ちみたいだけど、すぐに金を用意するのは無理だろう。
それに、娼夫といきなり暮らすなんて周囲のひとはなかなか認めてくれないよな。オルドの友達が良いやつらだってのは分かってるよ。ウィルだってきっと優しいやつなんだろうな。
でもそれとこれとは別だろ?オルドは偉い騎士団長様でさ、きっと威厳や正しさが求められるひとだもんな。男娼を身請けして一緒に暮らすなんて、なかなか認めてくれない。 ウィルだっておれを受け入れられないだろうな。どんなに優しい奴だって、父親が自分と同じくらいの男娼を「彼が私の恋人だ、今日から一緒に暮らそう」なんて言って連れてきたら到底受け入れられないだろうよ。それが正しい。普通なんだ。
でもオルドはその普通を変えようとしてくれたんだよな。ウィルを必ず説得する、すぐに迎えに来るっておれに約束してくれた。もう少しだけ待ってくれって。結局半年以上もかかっちゃったけど、その理由はおれが出来る限り先延ばしにしようと小細工をしてたからだしな。
おれはそれを信じて、信じたくって待っていたよ。オルドの笑顔を思い浮かべておれを壊してしまいそうな「何か」をどうにか抑え付けていた。
「おまえを苦しめる『それ』を、心の中にある邪魔な物を、おれが消してやるよ」
あいつがやってきたのはそんなある日のことだった。オルドの部下で、騎士団の副団長で、おれとオルドを引き合わせた男。おれをずっと犯してきたあの猪がやってきたんだ。
目を覚ますとオルドの匂い。きれいな毛皮とぶあつい胸板。
オルドに抱きついて眠ってしまったから、あんな夢を見たんだろうか。それとも、今日が最後だからだろうか。あの情けなくて、抜けていて、そして優しいこの虎といるのは今日で終わりになる。だから思い出を確かめていたのかもしれない。人生の終わりに走馬灯を見るみたいに。
ぴょん、とベッドから降りるとチェストから小さな箱を取り出す。
中に入っているのは統一性が無く、ごちゃ混ぜで、わけがわからないもの。
貝殻。ペンに紙。星空に関する本。可愛い魚の絵が描かれたお菓子の包み紙。異国の人形。望遠鏡。その他にもガラクタなのか価値があるのかわからないものがいっぱい。
おれにとってはかけがえのない宝物。オルドがおれにくれた贈り物たち。オルドと出会ってから1年の間にこんなにもたくさんの思い出をもらったんだ。
「騎士団長!?オルドさん、そんなすげぇ人だったの!?」
「あれ、言ってなかっただろうか」
「聞いてないです!娼館に通ってるとか、ばれたらとんでもない事になるんじゃ…」
「平気だと思うがなぁ。私の部下は連日のように花街に来てるらしいし…」
オルドはあれからちょくちょくおれの所へ来るようになった。「本当は毎日来たいんだが」と言っていたがおれを毎日買っていたらさすがに貴族様でも金がもたないだろう。
何より、おれも忙しかった。客が途切れる日は無く、オルドがおれを独占するなんて許されなかった。だから自然と二人で約束ができるようになった。週に一度。どんなに忙しくても週に一度だけは必ず会う。それが約束。
「ノアくん!今日息子おはようって言ったら返事をしてくれたんだ!」
オルドは来るたびに息子の話をした。おれと出会ってから、毎日息子に話しかけるようになったらしい。最初は変わらず無視されるだけだったけれど、少しずつ反応も変わっていったみたいだ。
「良かったじゃないですかオルドさん。一歩前進ですね」
「ああ!ノアくんのアドバイスのおかげだよ」
「おれは何も言ってないですけど。最初は挨拶から始めてみたらってだけで」
「そんなことはないぞ!ノアくんがいなかったらきっと何を話せばいいかずっと分からないままだった――ということで、これをお礼に持ってきてみたんだ」
オルドが懐から取り出したのは木彫りの人形だった。虎獣人を模したもののようで、なかなか精巧に作られているものだ。
丸々とした身体でにっこりと微笑んだ虎の人形。小さい子にあげればきっと喜ぶのだろう。でもおれに渡した意図が読めなかった。
「えーと、オルドさんこれは?」
「かわいいだろう!昨日市で売っていたから買ってみたんだ!」
「そうですね、まあかわいいはかわいいんですけど」
「かわいいだけじゃなくて魔よけにもなるんだぞ。きみを悪いものから守ってくれるそうだ」
「うーん。それはありがたいんですが」
「……もしかして、気に入らないのか?」
オルドは誇らしげに胸を張っていたが、おれの顔を見ると急にしょんぼりとした顔になった。
嬉しくなかったわけじゃない。ただおれにはこんなもの似合わないと思ったから。悪いものから守ってくれるといってもオルドさんが来ない日は毎日嫌な客と会うことになるのだ。オルドさんがおれの為にしてくれたことを無為にしてしまうようで、素直に喜べなかった。
「ごめんなさい。嬉しいんですけど、おれなんかには似合わないかなって」
「うむむ…そういうものなのか。すまない、贈り物なんて家族以外にはしたことがなくてな」
オルドはしばらくうなると「よし!」と鼻息を荒くしておれの手を握り締めた。オルドさんはしょっちゅうおれの手を握って、そのたびにおれは少しどきどきとした。ひとの身体に触れるのは慣れっこなのに、オルドに触られたときだけ反応してしまうのは何故なのか、自分でも不思議だった。
「今度はきみに笑ってもらえるようなものを持ってくるよ!約束だ!」
オルドの気持ちが嬉しかったのに、オルドがくれた物ならきっと何でも嬉しいのに、素直に笑ってありがとうと言えない自分が嫌だった。いつかオルドから贈り物をもらったときに、笑って喜べるといいなと思った。
「ノアくん、今日は自信があるぞ!手作りの焼き菓子だ!」
オルドはおれに会いに来るたびにこうして土産を持ってくるのが習慣になっていた。それも、少しばかりセンスのずれたものを。
「手作りって…もしかして、オルドさんが作ったんですか?」
「うむ!妻から教えてもらったんだよ。料理は苦手だがこればっかりは得意でな」
「…ものすごい数があるんですけど、これおれが10人くらいいないと食べきれませんよ」
「ついつい作りすぎてしまって…でも、味は良いから!食べてみてくれ!」
焦ったようにせかすオルドに促されて、可愛らしい包み紙を丁寧にはがすと木の実がたっぷり詰まった茶色い生地が姿を表した。形は不恰好だが、良い匂いがした。
オルドさんのことだから作る際にもなにかしら致命的なやらかしをしてるんじゃないか、と思いつつ口にしてみると、予想外に美味しかった。
「あ、美味しい…です」
「だろう!そうだろう!息子もこれが好きだったんだ!」
ぱくぱくと自分でもお菓子を口にするオルドさんは昔を懐かしむような顔をしていた。寂しそうでもあったし、幸せそうにも見えた。
「息子さんが好きだったって、昔もオルドさんが作ってあげてたんですか?」
「いや、昔は妻が作ってくれてたよ。庭で、紅茶を煎れて三人でぼーっと過ごしたりしていた」
奥さんとの思い出を話すオルドの顔は優しくてほんの少しの寂しさを感じたが、それ以上に幸せな気分になった。
「じゃあ、息子さんにもこのお菓子あげたらどうですか?」
「うむむ、食べてくれるだろうか。妻に作ってもらったものに比べるとかなり味は落ちるし」
「充分美味しいから大丈夫ですって。というか、持って帰ってもらわないと困ります。夏場ですからすぐにだめになっちゃいますよ。この量」
「しかし贈り物を持って帰るのもな……そうだ、娼夫仲間の皆にあげるのはどうだ?」
この量をどう処理しようか、なんて考えていたらとんでもないことを言い出した。おれなんかがお菓子を分けたって誰も喜ぶわけがない。
「皆甘い物は嫌いだろから」そう誤魔化してどうにか断ろうとしたが、オルドは許してくれなかった。
「だめだったら捨てちゃっても構わないよ。皆、案外喜ぶかもしれないぞ?」
「じゃ、じゃあオルドさんも誰かにお菓子配ってくださいよ。そうしたらおれもやりますから」
「うっ!わ、分かった。今度園遊会に出なければならぬからそのときにでも、頑張ってみる」
「園遊会って良く知らないけど、お菓子を配るのって許されるんですか…?」
オルドもやれと言えば無理強いを諦めるかと思ったが、予想外にも粘ってきた。どうして自分も嫌な思いをしてまでおれにお菓子なんて配らせるのかあのときは分からなかった。
今思えば、オルドはおれが娼夫仲間と仲良くさせようとしたのだと思う。おれが皆から仲間はずれにされていることなんて知らないはずだけど、妙なところで勘の良いオルドは気付いたのかもしれない。
そしてオルドの狙いはちゃんと成功した。おれがお菓子をどうにか手渡すと、喜んでくれるやつもいた。「美味いなあこれ。ありがとな」そう言ってお礼を言ってくれた。無視する奴もいっぱいいたけど。
あれがきっかけで、娼夫仲間たちともちょっぴり仲良くなれたのだと思う。今ではおれが身体を洗うときは手伝ってくれたり、一緒に飯を食べてくれたりするようになったんだ。
オルドはおれに優しくしてくれるだけではなくて、おれの世界を広げようともしてくれたんだ。
おれは幸せになんてなれなくて、みんなおれが嫌いで、おれはずっと一人で、醜いものばかりを見て死んでいく。そう思い込んでいたおれの世界を変えようとしてくれたんだ。
おれに星が綺麗だと教えてくれたのもオルドだ。夏が終わる頃、窓辺から入る風が少しは涼しくなってきた日。オルドは奇妙な筒みたいなものを持ってやってきた。先端に硝子がはまって、円周には花や魚が刻まれていて、なんだか面白い形。
「オルドさん、何それ?」
「これはな、望遠鏡だ!小さいけれどとてもよく見えるんだぞ」
望遠鏡、と言われてもおれには何だか分からなかった。オルドが遠くをみる為のもの、星を観察するために使う道具だと言われてもさっぱりだった。星を見る?そんなものを見てなんの意味があるのか分からなかった。
「いいからやってみよう。楽しいぞ」
そう言われて、渋々ながらも窓辺にオルドと並んで天を仰いでみた。けれど見えたのはやはり真っ黒な空と不規則に並ぶ光だけ。そもそも空を見ることが殆どなかったけど、久しぶりにみた星とやらはおれに何の感慨も与えてはくれなかった。
「うん、やっぱりここの眺めは良いなぁ!星がよく見える」
でも、おれの隣で星を眺めるオルドの横顔はとても楽しそうで。何がなんだかさっぱりだった。虎人と鮫人では見える光景が違うものなのだろうかと一瞬本気で思った。
「ほら、これで見てみるといい」
手渡された望遠鏡とやらを覗き込んでみると、ただの光とは違う形のあるものが浮かんでいた。色もそれぞれ違うし、変な輪っかがかかっているようなもの、輪郭がぼやけているようなもの、様々な姿をした塊が望遠鏡を向ける先を変えるたびに姿を表した。
(星って、あんな形をしてたんだ)
初めて知った星の本当の姿。気付けばおれは夢中になって望遠鏡を動かしていた。なんであの星は赤く光るのか、あの輪はなんのためにあるのか、大きさがどれも違うのは何故なのか、いろいろなことを考えながら無数の星を追いかけた。形も、色も輝き方も違う星は客が見につけている宝石なんかよりずっときれいで、見ていて面白かった。
「どうかな、結構楽しいだろう?」
肩に手を置かれて我に帰った。隣を見れば夜空の光を受けて淡く輝く金色の瞳。薄闇の中でもはっきりと見える明るい毛皮。そして、おっかない顔からは、いつもの少し抜けたオルドからは想像できないほどに柔らかな微笑み。
おれは少しの間見惚れた。さっき星を綺麗だと思っていたくせに今度はオルドのほうがずっと綺麗だなんて思ってしまった。
「ノアくんは星座については知ってるか?」
ぼうっとしながら見つめいていると、オルドの突然な質問で我に帰った。夜空を見上げることすらしなかったおれだ。知るわけがないと首を横に振ると、オルドは鼻息を荒くし始めた。尻尾をゆらゆら揺らして楽しみでたまらないと言わんばかりに。
「じゃあ私が教えるよ!星座っていうのは星と星を結んで、いろんな形に見立てたものなんだ」
「星と星って…あんなにいっぱいあるのに見分けられるんですか?」
「ずーっと見ているとなんとなくわかるようになるよ。それでな、星座はいっぱいあるんだ。オオカミ座とか、時計座とか。白鰐座なんてものもあるんだよ。100個以上あるんじゃないかな」
「……なんでそんなに沢山の星座があるんですか?役に立つんですか?」
「うん。農業をするときには季節についてよくわかってないといけないからな。天文学という分野でも大事だ――でも」
そしてオルドはもう一度星空を見上げた。さっきまでの柔らかいおれを包み込んでくれそうな笑みとは違って、少し子どもっぽい笑い方だった。目をきらきらとさせて、夜空を宝の地図のように見つめていた。
「でも、星座がこんなにたくさんできたのは面白いからだと思う」
「面白い?面白いからってだけで星座がそんなにたくさんできたんですか?」
「ああ面白いぞ!例えばそうだな…あそこにひときわ大きく輝く星があるだろ?その東に白い星。そしてその間に星がたくさん集まって川みたいになっている」
「えーっと、あれかな?」
「うん。あの二つの星は――」
オルドはそうして星空についてたくさんのことを教えてくれた。どれもこれも面白い話ばかりだったし、オルドがずっと笑顔なのも嬉しかった。おれが質問すれば耳をぱたぱたさせながら話して、狭い窓枠の中でぴったり身体をくっつけながら一緒に星を見た。おれもオルドもガキみたいに目を輝かせながら。
オルドの匂いも毛皮の感触も心地良くて、まだ蒸し暑いはずの夏の日なのにあったかいオルドの身体も不快ではなくて、気付くと頭の中が風邪をひいたみたいに熱くなってた。顔までも真っ赤になっているんじゃないかというぐらいに暖かく。
「…オルドさんて星に詳しいんだな」
「ん?そうだな、妻が好きだったからな。この望遠鏡もな、妻にあげるつもりだったんだ」
「じゃっ、じゃあおれなんかが使ったら不味いんじゃ」
「良いんだよ。私は使ってもらって嬉しいし、妻もたぶんこうしてほしいと思うだろうから」
そしてオルドは奥さんとの思い出も語ってくれた。星を一緒に見に行ったこと、花も好きで、庭は奥さんが世話してた花でいっぱいだったこと、自分に無頓着なオルドをよく叱ったこと。
オルドは幸せそうだった。星の話をするときよりも、奥さんとの思い出を語っているときのほうが遥かに。
でもおれはちっとも嬉しくなかった。オルドの笑顔を見れば嬉しいはずなのに。さっき星を見ているときのオルドの優しい笑みを見てたときはあんなにも心が温かくなったのに。もやもやとした「何か」がおれの心を乱していた。
おれはオルドの話に耳を傾けながらも、ずっと自分の心に異変を感じていた。オルドが帰っても、星が消えて夜が明けた後もその「何か」は消えなかった。
オルドへの想いが変わり始めたのは、この日かもしれない。おれにとってのオルドは優しくて、少し変な友達。でも、オルドに友人以外の気持ちを抱き始めた。身体に触れたい、匂いも声ももっと感じていたい。そして、笑顔がもっと見たい。そう願うようになっていた。その気持ちがなんなのかはまだ気付いていないかったけど。
でも、同時におれの心に「何か」が生まれていた。
オルドがいない日は胸がざわついた。毎晩毎晩、窓の外を見てオルドを探した。突然おれに飽きて来なくなったらどうしようかと時々不安になった。そのくせ、オルドと話しているときも胸が苦しくなった。ロッソさんのときはこんなことは無かった。次に会えるのを楽しみに思うだけで。
オルドといるのは楽しいはずだ――実際話していると笑顔になる。なのに、同時に心が乱れた。自分の心の中にあるもやもやした「何か」
「何か」おれが一歩オルドに近づこうとするたびに足を引っ張った。オルドともっと仲良くなりたいと願うたびに囁くのだ。
(オルドさんは、いつか消えちゃうんだよ?)
オルドはいつまでもおれと一緒にいてくれるんじゃないか?おれがお願いをすれば、ずっとそばにいてくれるんじゃないか?そんな淡い希望を持つたびに「何か」が打ち砕く。
(オルドさんはおれの事なんて)
オルドを信じようとしても邪魔をする。
おれとオルドの間には何も無い。何の絆も無い。繋がりがあるなんて期待をするな。そばにいたいなんて願うな。オルドを信じるな。全部無駄なんだ。そう囁いて。
心の中でおれを縛り付けて、心地よい嫌悪と憐憫の海にいつまでも留まらせようとしていた。
一緒にいると楽しい、でも会えなくなったとしても諦めがつく関係。ぬるま湯のような怠惰な時間。オルドともっと仲良くなろうとすれば、全部消えるかもしれない。
ロッソさんのときのように、調子に乗って近づこうとしたおれに失望するかもしれない。
(嫌われたく、ないだろ?)
「何か」に囁かれればおれは何もできなくなった。薄っぺらい笑みを貼り付けて、どうでも良い相槌を打つだけしかできない娼夫になった。何も頑張らないで、ひたすらに傷つかないように振舞う事以外、何も。
あの日にもらった望遠鏡を取り出すと、そっと表面を撫でる。あの日オルドにもらってからずっと使い続けてきた。そして、あの日オルドにもらったあの感情は今でもおれの心の中で燻っている。
燻っている、なんて表現は間違っているか。おれの心の中でずっと燃え続けているんだ。この気持ちはずっと消えることが無かった。むしろどんどん大きくなっていった。オルドに出会うたびに、オルドに贈り物をされる度にだ。ロッソさんに綺麗な宝石や細工物をもらったときはただ嬉しいだけだった。なのにオルドに奇天烈でセンスの欠片もないものをもらうと、喜びと一緒に胸に痛くて汚くて暗い「何か」が生まれた。
夏が終わる頃からはオルドが変わったからか、友人がたくさんできたみたいだ。
オルドはおれに会うたびにお土産と一緒に友人の話をした。新しくできた友人はどんなきっかけで出会ったのか。どうやって仲良くなったのか。いつもどんなことを話すのか。どこに遊びにいったのか。そして「ノアくんのおかげでまた友人が増えたんだ!」そんな感謝の言葉と一緒に。
「おれは、何もしていないけど」
「そんなことはない!ノアくんが以前お菓子を配れと言ってただろう?あれがきっかけで仲良くなったんだよ!園遊会に小さい子が来ていたから分けてあげたら、その子の父親が――」
オルドは尻尾をぶんぶん振りながら、実に楽しそうに話していた。でもおれの心にはちくちくする「何か」があった。
「――そのひとに海釣りに行こうと誘われてな。釣りも楽しかったんだが、良い物を手に入れたんだ!」
「……なんです、これ?」
「むっノアくんは知らなかったのか!では教えようこれは」
「いや貝殻は知ってるよ。どうしてこんなもん持ってきたんだ」
オルドがもってきたのは様々な色や形をした貝殻だ。特に珍しい形をしていたり高値で売れそうだったりはしない、普通のものばかり。
海なんて見たとが無いおれでさえもそれくらいは分かる。海で子どもが拾ってきましたよという感じだ。女の子ならばこれで貝殻のネックレスでも作るんじゃないだろうか。
可愛らしくて良いと思う。でもおれに持ってきた理由が分からなかった。いや、分かってはいた。オルドというひとをおれは大体理解してきていた。
(ばかだよな、このひと)
オルドは本気でおれが喜ぶと思ったのだろう。ずっとここに閉じ込められていているおれに少しでも外の世界を感じて欲しいと、純粋におれのことを考えてくれたのだ。その気持ちだけで幸せだった。
でもおれはその気持ちを言葉に出せなかった。いつか素直にありがとうって伝えよう、そう思っていたのに。オルドにはありがとう、嬉しいと何故か伝えられなかった。それどころか露骨に嫌な顔をして、オルドの気持ちを迷惑だと言わんばかりに振舞おうとしていた。自分でも理由が分からないけれど、オルドを拒もうとしている「何か」がおれにそうさせていた。
「ほ、ほら。ノアくんへの土産に……」
「オルドさん、おれって貝殻もらって喜びそうなやつに見えるか?」
「……駄目だったかな?」
「駄目」
落ち込むオルドを見ると心が痛んだが、おれは迷惑そうな「フリ」をしてオルドに説教を続けた。
こうして怒るのはオルドの為だ。オルドが自分以外の誰かに贈り物をするときに恥を書いたらかわいそうだから、こうして怒っているんだ。素直にありがとうと言えないのは、言わない理由はそれだけだ。そう自分を納得させようとした。
「いいか。こういうものって相手が喜ぶか考えなきゃいけないんだよ」
「むむむ、私も喜ぶと思って持ってきたんだが。いっつも」
「そ、それは分かってるけど。ちょっとずれてるんだよ。変に捻らないで宝石とか細工物とか、いっそ金貨でもくれてやりゃいいんだって」
「そんなものでいいのか?私にはとてもそうは思えないのだが」
「いいんだよ。娼夫なんか金をやってりゃそれで」
「いや、そうではなくて」
オルドは顎の下の毛を撫でながら、じっとおれを見つめてきた。
その金色の瞳で見つめられると心の中まで見透かされるようで、目を逸らした。おれはオルドと出会ってからどれだけの時間を重ねても、あのきれいな瞳をまっすぐ受け入れられなかった。
「ノアくんは、それで嬉しいのか?」
おれは答えられなかった。オルドの顔を見ることすら無理で。「当たり前じゃないですか!稼いでこんなところから出てやるんですから!」そうおどけながら答えようとしてもできなかった。
何もできないままに、オルドからもらった貝殻をずっと握り締めていた。
蒸し暑い毎日が終わって、もうすぐ秋のお祭りだというある日、オルドはいつもより興奮した様子で駆け込んできた。そればかりか、ほんの少しアルコールの匂いまでさせていた。オルドはめったに酒を飲まないひとだったので珍しいなと思ったが、理由はすぐに分かった。それほどまでに嬉しいことがあったのだ。
「ノアくん!レースだ!レースに出るぞ!やった!」
「オルドさん、分かんねえってそれじゃ」
「そっそうか!すまない、興奮してしまって」
オルドが言いたいのは冬至祭当日に行われる騎馬レースのことだった。王都の周辺にでっかいレース会場を作って、そこでレースを行うというもの。誰が優勝するかで賭け事も行われ、貴族や王族までもが来賓としてやってくる。年に一度の大きなイベンド。
「で、それにオルドさんが出るのか。すごいじゃん」
「うむ、以前新しくできた友人…豹人の彼のことを話しただろう?彼が騎手として参加してはどうかと誘ってくれたんだ」
「騎手に選ばれるのってメーヨなことなんだろ?前でかい声で自慢してた客がいるから知ってる」
「うん、陛下もご覧になられるし、大変栄誉なことではある。でもそれより嬉しいことがあってな」
何ですか、と聞く気にもならなかった。オルドにとって剣を奉げた陛下とやらより大事な存在なんて二つしかないのだから。死んだ奥さんと、そして
「ウィルがな、レースを見に来てくれるんだよ!騎手になると話したら私のことを凄いと言ってくれて!あんなに目をきらきらせて私を見てくれて、あぁ!」
オルドは感極まったように目を瞑っていた。いつもよりべらべらと喋って、興奮した様子。酒のせいだろう。元々弱いのか余程飲んだのかは分からないが、微妙に呂律も回っていなかった。
それでも普段は真面目なオルドだし、妙なことはやらかさないだろう――なんて勘違いをしていた。この大男は抜けているが、酔うと更に頭が緩む虎だったんだ。
「なんだ、すっかり仲良くなってるんだな。2ヶ月前にはおれに泣きついてたくせに」
「うん。以前よりもすらすらと言葉が出るようになったし、話題もたくさん思いつくようになったんだ。友人とこんな話をしたとか。友人に聞いた面白い話を教えてもらったり。やっぱりいろんなひとと話すようにしたおかげだ――つまり!」
「わっ!?ちょちょちょ、オルドさん!?」
「きみのおかげだ!ありがとうノアくん!」
オルドはいきなりおれを抱きしめてきた。抱きしめたままグリグリと、おれに頬ずりをしてくる。おれの身体は鮫肌に覆われているからそんな風にしたら痛いだろうに、全くお構いなしだ。
「ちょっオルドさん!?酔ってるのか!?」
「ううん、私は酔ってなんかいないぞぉ。だいじょうぶだ」
おれの方はは全く大丈夫じゃなかった。おれに回された手はあくまでそっと、花でも抓むぐらいの力であるにも関わらず身動きが取れなくなってしまった。
心臓がばくばくと鳴って、まともに呼吸ができなくなる。やかましいくらいに自分の鼓動が聞こえて、全身がどんどん熱くなっていった。
目の前にあるオルドの首下に鼻先が埋まると、汗の入り混じったオルドの匂い。お日様をいっぱい吸っているからだろうか、フカフカの草のベッドみたいに落ち着くもの。クスリでも精液でもないまともな世界に生きるひとの匂い。
それを荒くなった呼吸に任せて吸うと頭がぼんやりとして、どんどん思考力が奪われていった。
(なんだ、すげぇあったかい)
オルドの肉体は今までに感じたことがないほどに暖かだった。このまま身を任せてしまいたいと思わせるほど。思えば抱きしめてもらったことなんてロッソさん以来で。
ロッソさんに触れてもらったときの感触や熱を思い出して、おれの脳はどんどん駄目になっていった。
このままこうしていたい。太い腕に抱きしめられたまま、身を任せて眠ってしまいたい。ふかふかの毛皮を毛布にして、このまま目を瞑ってしまいたいと全身の力が抜けて。
駄目だ、こんなの、こんな事しちゃ)
オルドはただの友人で、こうして抱きしめあうなんておかしい。それにオルドは酔ってまともに頭が働いていない。オルドは純粋に、ただ感謝と喜びの気持ちだけで抱きしめてくれているのに、おれの方は醜くて浅ましい欲望が疼き始めている。固い筋肉を意識してしまう。鮫肌に覆われたはずの皮膚が毛皮でくすぐられただけで蕩けていくみたいだ。
そればかりではなく、おれの下半身へと血が通って少しずつ固くなっていた。オルドの匂いと熱を感じるたびにびくびくと震えて。もう少しオルドに近づけばズボンを押し上げているそれは触れてしまいそうだった。
(おれ、どうしちゃったんだ)
身体を売るのが仕事のくせに抱き合っているだけで発情した。それがひたすらに惨めで不可解だった。でも、おれにはこの異常を深く考える余裕なんてなくって。とにかくオルドから離れないとって焦ってばかりだった。
こんなのオルドへの裏切りだ。身体を離していつもみたいに、ただの友達に戻らないと。おれの欲情がばれてしまう前に。そう決意してオルドの手を振りほどこうとした。
「やっぱり、きみの鱗はきれいだな」
オルドがそう囁いた瞬間におれの両手は力を失ってしまった。手を振りほどこうとした手はそのまま腕に添えられるだけで終わる。
オルドの腕は背中に回され、もう片方はおれのひれのあたりをくすぐっていた。ロッソさんと違って不器用で、どこか遠慮したような手つき。
「いやじゃなかったら、もう少しこうしてても良いだろうか?」
「い、いやじゃない」
「そうかぁ。ふふふ、ありがとう」
嫌じゃないけど、離して欲しかった。鼻を近づけないで欲しかった。おれの鱗を綺麗だなんて言わないで欲しかった。そんなに優しくおれの鱗を触らないで欲しかった。客に抱かれたばかりの汗と精液臭い身体を嗅がれるのは嫌だったし、ざらざらしている肌なんかに触れてオルドが傷つかないかと怖かった。
けれど、あまりの心地よさに拒むことなんてできやしなかった。そろそろとオルドの背中に手を回し、凸凹とした筋肉を確かめる。オルドもゆっくりとおれの背中を撫でてくれていて、それが嬉しくて顔をこすりつけてしまう。駄目だという気持ちはどんどん消えていった。
「ノアくんを抱きしめていると落ち着くよ。とても暖かい」
「おれも、落ち着くけど、でも」
「嬉しいよ。誰かを抱きしめるなんて何年ぶりだろう」
オルドもおれの顔に鼻面を擦りつけて来た。鼻が傷ついちゃうぞ、と言おうとしたけどあまりに眠くてむにゃむにゃと口を動かすだけで終わる。
心臓は落ち着いた音色でとくんとくんと鳴り、くっつけあっているオルドの肉体からも同じリズムで鼓動を感じ。幸せすぎて、ずっとこのままでいたくなった。
「誰かを抱きしめていると落ち着くんだ。子どもっぽいだろうか」
「い、いや別にいいとおもうけど」
抱きしめられると落ち着く、というのならば分かるけれど抱きしめて落ち着くというのは少し不思議だった。でもオルドの声は本当に嬉しそうで、おれの背中をゆっくりと同じ調子で撫で続けていたから、本当に落ち着いているのだろうなと思った。
おれはそれが嬉しくて、尻尾をゆらゆらと揺らして。オルドの役に立てたのだと、馬鹿みたいにはしゃいでいた。
「今度は、ずっと抱きしめていたいなぁ」
でもオルドがぽつりと呟いた瞬間におれの身体がぴくりと震えた。
「今度」その言葉の意味はおれでも分かったんだ。おれを抱きしめる手はやけに優しくて、そっと壊さないように扱うのも、オルドが今考えているのは、おれじゃなくて今も愛している奥さんの事で―――
「ずっと、ずっと……」
「…オルド?」
おれにはそれを確かめる勇気なんて無かったけど、幸いなことにオルドはいつの間にか眠りについていた。おれに肩にことんと頭を乗せて。
「どうしたってんだよ、おれ」
オルドのいびきで消されそうなささやき。
何もかもが分からなかった。オルドに抱きしめられただけで発情してしまう理由も。友人でしかないオルドがこんなに触れていたくなる理由も。オルドが奥さんを想っていると分かって、こんなにも苦しくて寂しくなる理由も。
オルドへの想いの正体も、おれをこんなにも苦しめる「何か」の正体も何も、このときのおれは理解していなかった。
オルドへの想いはこの日から急激に変わっていった。本当は、とっくに出来上がっていた気持ちにおれが気づき始めただけなのかもしれない。
「何か」はおれの心の中で蠢いていて、日毎に大きくなっているようだった。でも必死に抑えつけたよ。この「何か」に屈したらオルドを永遠に失ってしまう気がしたから。
そしてオルドと過ごす時間も増えていった。いつもは話すだけで帰ったオルドが泊まっていくようになったんだ。といってもすることは変わらない。セックスなんかしないで話をして、星をみる。それだけ。
寝るときは同じベッドを使ったけど、オルドはおれの手を握ることさえしなかったよ。あの日おれに抱きついていたことを覚えているのかどうかなんて分からなかった。おれには聞く勇気なんてあるわけがない。
ただすぐそばで寝ているオルドが気になって全く眠れなかった。つい顔に触れようとして必死に止めて、匂いを嗅いで昂ぶってしまう自分を抑えようとして一人で苦しんでいた。
「うぃーっく!ノアくん、来たぞー!」
「うっわ酒臭え!何杯飲んで来たんだよ!」
「自分でも分からないなー。友人の誕生会だってたらふく飲んできてしまったー」
浴びるぐらいに酒を飲んでやってくることもあった。酒なんて全く飲まないひとだと思い込んでたので意外だったけど、本当のオルドは誰かと酒を飲んだり食事をするのが好きなひとだったのかもしれない。
おれはそんなオルドが嫌いじゃなかった。友人と楽しくやっているオルドを見るだけで幸せだったし、酔った姿を見せてくえるのはおれを信頼してくれている気がして。
「ふふふ、これはお土産だ!今度一緒に遊ぼう!」
「何だこれカード?どうすんだよこれ…遊び方なんて知らないぞ」
これはなー、こうやって並べ、並べてぇ敵とこっちの数字の合計おぉ……ぐぅ」
「オルド?あーしょうがねえなぁ全く」
酔った日のオルドはいっつもすぐ寝てしまう。お土産をおれに渡した後はふらふらとしだして最後には座ったまま船を漕ぎ出してしまう。そんなとき、おれはいっつもオルドをベッドにそっと寝かせてやった。ブーツも脱がせて、窮屈なボタンも外して、毛布をかけてやった。
「ごめん、オルド」
そして酔っ払ったオルドにはいつもぴったりと寄り添い眠った。素面のオルドには決してできないことだった。
太い腕を枕代わりにして、ぶ厚い胸に顔を押し付けて、ふさふさな毛皮で身体を温めた。少し汗臭い体臭をたっぷりと吸い込むととても落ち着けた。
「何でだろうな」
オルドとこうして寝ると落ち着けるのが自分でも不思議だった。オルドと話しているときよりもずっと心が安らいだのだ。「何か」が暴れることも無かった。オルドに抱きしめられたときはあんなにも激しく拒絶したくせに、眠っているオルドにくっ付くときはただ幸せな気分になるだけ。
おれはオルドの肉体だけが好きなのだろうか、と不安になったけど違った。それならば寝ているオルドを前にそばにいるだけなんて耐えられないだろう。
オルドの笑顔が好きなのに、笑顔で話すオルドを見ると心がざわつく。矛盾する想いを抱えながらいつも眠っていた。
「ノアくん、この本は面白いぞ。読んでみないか?」
変わったのはお土産も。星に関する本や、きれいな挿絵がいっぱい描かれた幻想的な話の載った本、世界を旅する冒険者の手記。おれが興味を持ちそうなもの本をいろいろ持ってきてくれた。
最初はいらないと断ったんだ。そもそもおれは読み書きもできなかったからな。自分の馬鹿さをオルドに教えるのは辛かった。
「大丈夫だ。それなら私が教えるから」
でもオルドは譲らなかった。わざわざ羊皮紙とペンまで大量に持ち込んでおれに読み書きを教えようとした。おれが読み書きなんて覚えられるわけないし、覚えたところで便器であるおれがそんなもの覚えたところで役になんて立たない。嫌がったけどオルドは許してくれなくて。
「ここから出たとき役に立つだろう?」
おれがここから出るのなんていつになるか分からない。出たとしてもこんな身体の奴が読み書きなんてできたって大して変わらないだろう。
無意味なことだとしか思えなかったけど、オルドが一生懸命に教えてくれるから仕方なく覚えた。まあ、おれが文字を一つ覚えるたびにはしゃいでくれるオルドを見るのは悪く無い気分だった。
「ノアくん、いいかな?」
おれに触れる回数が増えたのもこの頃だ。すぐに手を握ったり頭を撫でるひとだったけど、スキンシップの頻度もやり方もこの頃から変わっていったように思う。
窓辺で星を眺めるときは、おれの肩を抱きたがった。おれは娼夫なんだからオルドの好きにすればいいのに、いっつもおれに断ってから。
「ん。まあいいけど」
たくましい肩に体を預けながら、ぶっきらぼうに答えた。
オルドに自分を求められて本当は嬉しかったけど、いっつも面倒くさそうにしてオルドの隣に並んだ。おれが喜べばオルドだって嫌じゃないだろうに、どうしてこんな態度をとってしまうのか自分でも分からなかった。そしてオルドがおれなんかに触れたがる理由も。
オルドが来る前には客の精液に塗れ、汚物を食わされていたんだ。服で隠している部分は痣だらけだ。そんな奴に触れていると知ったら、オルドはどうするだろうか。
でもオルドに聞けるわけがなかった。オルドがそれを知った上でおれに優しくしてくれるなら幸せなことだ。でも、もしも知らなかったら。おれが愚かな質問をしたせいで知ってしまったら。こうして優しく肩を抱いてくれる腕を、汚いものに触ったときのように振り払われたら。
そう考えたとたんに心の中の「何か」がおれの口を塞いでしまった。いつも、何も言えないままにオルドの腕に身体を任せていた。
「昨日はウィルと一緒に遠乗りに行ったんだ。一緒に出かけるなんて何年ぶりかな」
オルドがウィルと過ごす時間も増えていって、土産話はウィルと過ごした時間についてのものが多くなった。
来年はウィルも騎士になるからと、叙勲式に贈るマントについての相談もされた。騎士の家ではどこも叙勲式にマントをプレゼントするらしい。貴族サマは家族を大事にするんだなとちょっとだけ羨ましかった。
「どんな柄にするか悩んだんだが…赤字に虎の顔をのっけたのと、肉球のマークをはじっこにつけたのとどっちがいいかな?」
ウィルには心底同情したなぁ。オルドのセンスはおそろしくおかしかったから。派手過ぎて奇抜すぎて、大道芸人用の衣装としか思えないものばかり考えてきた。
「うむむ…駄目か。こういうものにはうとくてな」
「オルドさんのセンスがだめなのは知ってたけど、もっと真面目なさあ」
「ならば他の候補を出そう!10個以上考えてきたからな!」
そう言ってオルドが大量のマントを出してきたときは頭を抱えた。オルドのセンスが少しおかしいのは知っていたが、間違いだった。オルドは美的感覚というものが致命的に狂っていたんだ。
「これは2番目に気に入ったものだ。私達の種族らしい金と黒の縞々。実際の毛皮のようにふかふかにしてある。冬の行軍でも使えるぞ」
「こちらは少し変化球で黒地に星を幾つも散りばめたものだ。星は赤青緑に金と実に華やかだろう。真ん中には月と太陽を配置してる」
「作ったはいいが少々地味だったのがこれだ。シンプルに真っ白な生地に青い花柄。もっと派手にするべきだったな」
「これは友人が考えたやつだな。紫と桃色に銀製の飾りを付けてある。騎士用としては少々怪しげにも思えるが、まあ若者ならこのくらいは許されるだろう」
オルドの狂ったセンスに呆れて、そしてウィルが羨ましくなった。オルドが本当にウィルを愛しているんだと分かって。ウィルに喜んでもらおうと頭を使って、笑顔でウィルにはどんなものが似合うかなと話すオルドを見ているとなんだか幸せな気分になって。「何か」も一緒に心の中で暴れた。ウィルの話なんか聞きたくないと耳を塞ぎたくなった。
(なんで、なんでこんな気持になるんだろう)
オルドがおれ以外の誰かと仲良くするのが嫌だった。オルドが笑顔になる度に暗くて汚い「何か」が暴れた。嫉妬心なんかじゃない。
おれなんかが嫉妬するなんて傲慢にもほどがあるけれど、オルドと好きなときに会えて好きなだけ話せる奴らを羨ましいとは感じてはいた。オルドに構ってもらえるウィルが妬ましかった。でもこの「何か」は嫉妬心とは違うものだった。
ロッソさんが奥さんや他の娼夫の話をしたときには嫉妬した。心の中で炎が燃えるような感覚。でも「何か」は全くの逆で、心の中がどんどん冷たく暗い海に沈んでいくような。
「冬至祭の日に、星を見に行かないかと誘われたんだ」
幸いなことにオルドにはおれの醜い心はばれていないようだった。いっつも友人と遊んだ話、友人と今度はどこに行くかを楽しそうに話してくれた。王都近くの湖に釣りに行った話、賭場に友人皆で行ってぼろ負けした話、いろいろだ。どの話にも耳を塞ぎたい気分で聞いていたが、ある日オルドが何気なく呟いた一言にずきりとこれまでにないほど胸が痛んだ。
「夜が一番長い、特別な日だからな。友人皆で飲み食いしながら一晩中星を眺めてみないかと言われてな」
「へーいいじゃん!楽しんでこいよ!」
「ん……実は悩んでいて」
「何悩んでんだよ。そうだ!ウィルも誘ってやれよ!きっと喜ぶぞぉ!」
思い悩んでいるオルドの背中をバシバシと叩いてやったけど、本当は行かないで欲しかった。星をおれ以外のひとと見ないでくれと身勝手な思いを伝えたかった。でも「何か」が赦してはくれなかった。
奥さんとは昔いっぱい星を見ていたのかもしれないけど、今は、奥さんが死んじゃった今はおれとだけの特別な行為にして欲しい。おれの心を埋める自分勝手で醜い欲望。
(嫌だ。行かないでくれよ)
ウィルと仲直りをして、友人もたくさんできた。オルドとおれには一緒にいる理由なんてもう殆ど残っていないと分かっていた。
だから、一緒に星を見るという行為を繋がりにしたかったのだろう。他の誰かと星を見たらそれも断たれてしまう気がして。
でも言えなかった。そればかりか、何故か渋り続けるオルドに「必ず行けよ!行かなかったら絶対後悔するからな!」と発破をかけた。
オルドに行って欲しくないと願う自分の心に嘘を吐き、醜い欲望を塞がれて、笑顔でオルドを送り出してしまった。
おれはオルドを送り出すときはいつも笑っていた。オルドと離れたくないなんて間違った、思い上がった欲望を見せないように、薄っぺらい笑顔のまま。
オルドが新しい一面を見せるたびにオルドへの不思議な想いは強くなり、風が冷たくなるごとにオルドのくれるぬくもりを求める気持ちが強くなった。
オルドのことを愛してしまっていた。でもおれは、決してそれを表に出さないように塞いでいた。
オルドとの関係がいつ終わってもいいように。突然に侮蔑の視線を投げられても大丈夫なように。おれの「使い方」を知ったオルドに唾を吐きかけられても、壊れないように。
いつ終わっても大丈夫なように、傷つかないように。醜い自分の心が暴れないようにと自分を檻に閉じ込めて守ろうとしていた。
でもある日、その檻は壊されてしまった。
「愛している。ノア」
オルドさんがおれを愛してると言ってくれたんだ。おれを守っている檻をぶち壊して、おれを抱きしめてくれた。
(こいつを信じるな)
おれは最初、拒もうとしたんだ。「何か」はオルドの愛を全力で否定しようとしていた。オルドがおれを愛する理由なんて何も無い。絶対に裏切られる。愛なんて見えないものを信じるな。思いつく限りの理由を挙げて、オルドの手を振りほどけとおれに命令した。
(こんな奴、愛していないんだ)
「何か」はオルドへの愛も否定しようとした。オルドを愛してしまったと認めれば、もう取り返しが付かないと分かっていたからだろう。「何か」が、おれ自身が。
オルドへの愛から必死に目を背けてきた。認めたらオルドに依存しきってしまうから。愛してしまったら、必ずオルドに愛されたいと願ってしまうから、信じてしまうから。オルドの愛も、おれ自身の愛も否定しようとした。
でも、おれはオルドを受け入れてしまったんだ。間違っているのに。おれが愛してもらえるはずもないのに。おれが愛を信じられるはずもないのに。おれはオルドの背中へと腕を伸ばして、抱きしめかえしてしまったんだ。
おれの最大の過ち。愚かな自分を殺してやりたくなる。けれどこうも思う。おれが過去に戻ってやり直しても、おれはオルドを抱きしめかえしてしまうと。それほどまでにオルドが囁く愛の言葉は甘美で魅力的で、オルドへの愛を認めると心地よかったんだ。
もしかしたら本当に愛し合って、普通の恋人になれるんじゃないかと勘違いさせるほどに。
オルドの愛ならば心に巣食う「何か」すら消し去ってくれるかもしれない。消し去って、普通の恋人になれるんじゃないかと思わせてくれた。
でも、「何か」は消えてなんかくれなかった。
消えるどころか「何か」はおれの心の中で大きくなって、おれを苦しめ続けた。
オルドが愛を囁いてくれると「何か」が暴れまわった。オルドに愛を囁こうとすれば「何か」がおれの口を塞いだ。
オルドがいない時でさえ「何か」は落ち着いてくれなかった。オルドが二度とおれに会いに来てくれないかもしれないと怯えさせ、本当はおれ以外に愛しているひとがいるかもしれないと不安を煽った。オルドの愛を受け入れてから、「何か」は肥大化し続けて、醜く巨大な腫瘍となっておれの心を完全に支配した。
(オルドは、本当はおれなんか愛していないんじゃ?)
オルドへの愛が大きくなるほどにオルドへの疑念が強くなり、オルドの何もかもが信じられなくなって、オルドといるのが苦痛でしかなくなった。
後悔は無意味な行為だ。それでも悔やみ続けてしまう。おれがあのときオルドを拒んでいれば、「何か」に従っていれば。初めて会ったときにオルドの手を振り払っていれば。信じることもできないのに、オルドを愛したりしなければ――
「う、あぁ……」
その時、微かな呻き声でおれの思考が中断された。後悔と自己憐憫の海から、現実へと引き戻される。ああいけない。こんな事をしている場合じゃなかった。
「待たせちゃってごめんな、オルド」
オルドに笑いかけると、おれは宝箱をそっと閉じる。たくさんの宝物が詰まった箱。きっともう開くことはないだろう。詰まっているのは過去の心地よい思い出だ。もう2度とおれが手に入れることのできない、綺麗な時間。おれが自分で、台無しにしてしまった物。
オルドはおれを弱くした。駄目にした。醜くした。
名前も知らない男と寝るのが嫌でたまらなくなったし、殴られると辛くて泣いてしまうようになった。
オルドがいないとき、一人で寝るのが寂しくなった。一緒にいるときは別れの時間が来るのが怖かった。どうしようもなく情けない奴になってしまった。オルドはおれが失ってしまったものを少しずつ取り戻させてくれたんだ。
「おれも変われるんじゃないかって信じたかったんだ」
オルドの笑顔をみると、自分でも変われるんじゃないかって微かな希望が生まれた。おれの大好きな優しい微笑み。
オルドが笑うとおれもうれしい。オルドの笑顔を見ると、本当に心が暖かくなるんだ。自分の顔が怖いのを気にしているけど、オルドの笑顔はどれもかわいい。普段が格好良くて頼もしいから尚更そう思うのかもしれない。
この部屋に来た時に見せる、おれを照らしてくれそうな太陽みたいな笑顔は好きだし、おれが褒めた時にする照れくさそうな笑顔も好きだ。
家族や友達の話をする時のにこにこした笑顔を見ると、おれも釣られて笑ってしまう。
おれが落ち込んだり寂しそうな時、客に酷い目に合わされて無理に笑ってる時にしてくれる優しい微笑みが大好きだ。
――でも、今転がるオルドにあの笑顔は無い。
「わたしは、わたしはぁ…あ"ぁぁあ」
ベッドの上でぶつぶつと呟いていた。目は濁りきって知性どころか心があるかも怪しい。薬を使って苦痛を上回る快感を与えても、理性を引き剥がしても薬の効き目が切れれば誤魔化せなくなる。
薬の効き目が弱まればもともとあった誇りや知性が蘇る。快感で覆い尽くせなくなった自我は堕落した自分に苦しめられる。便器である事の快楽を知ったはずなのに、それを否定したい。これまでの調教で弱ってきた自我は耐え切れなくてぐちゃぐちゃになってしまったんだ。
「うぁ、あぁぁあぁぁ、やめて、やめて」
「大丈夫大丈夫。もうひどいことはしないからさ、な?」
おれは優しく声を掛けると、オルドの額にキスをしてあげた。オルドがまともなときならばこうして素直にはなれない。でも今のオルドは何をされても分からないし、怒ることもできない。まともな、いつもの優しいオルドよりもこうして壊れたオルドの方がおれはずっと素直になれるんだ。
「オルド、ちょっとだけおれとお話しようか」
「あぁあぁ…私は、わたしが、あんな…」
「すぐ終わるからさ。な、頼むよ」
本当のオルドと話せる時間はこれで最後。何も考えられない、呻くことしかできないオルドであってもおれの愛するひとには変わりない。だから、もうちょっだけ話していたい。
「オルド、おれは狂ってるわけじゃないんだよ」
おれはオルドを愛してる。
薬漬けにして、罵って、犯して、精神までも弄くりまわしてヒトとしての尊厳を貶める。そうして終わったら記憶を消して、もとの恋人に戻る。
陵辱した。全裸で土下座させておれへの忠誠を誓わせた。少しでも反抗したら射精をさせないで地獄の苦しみと快感を味あわせた。
ちんぽのしゃぶらせ方を一から教えた。喉が性器に変わるまで一晩中舐めさせた。歯を立てたら胃液をぶちまけるまで口淫をさせた。
ケツ穴が性器に変わるまで弄繰り回した。乳首だけで精液をぶちまけられるようにした。ちんぽを弄って射精するなと暗示をかけた。
淫らな言葉を復唱させ脳に叩き込んだ。精液を口に一晩中溜めさせたまま下から突き上げた。おれのスリットにちんぽを突っ込ませながら尻尾でケツマンコを掘削した。
最底辺の娼婦でもしないようなおねだりをさせた。誰かが大通りから見上げればばれてしまうように、窓辺で自慰をさせた。恥辱と屈辱で欲情するように精神を少しずつ変えた。
おれがされて嫌だった事は全てやらせた。
「でもおれは、オルドを嫌ってなんかいない。憎んでもいない」
乱れた体毛を指で梳いてやる。月の光を受けると綺麗に輝くはずの毛皮。でも今はあらゆる体液で汚染されてみるかげもない。それでもおれは絡まって、へたった毛を少しずつ整えていく。綺麗な毛皮に戻ればオルドも元に戻るのではないか、そんな愚かな期待をして。
戻ってしまったら全てお終いだ。おれはオルドに嫌悪され、二度と会うことも敵わないだろう。なのに、今すぐ目覚めておれから逃げ出してくれないかとほんの少しの希望を抱いてしまう。おれはやめられないんだ。オルドへの愛情よりも醜い心の方が遥かに大きいから。
「おれは結局、最後まで自分一人では何もできないんだ。何も決められない。誰かが手を差し伸べてくれるのを待ってるだけ」
オルドに救ってもらった時もそうだったな。おれは自分からは何もしないで、オルドの方から愛を与えてくれるのを待っていただけだ。恐怖を言い訳にして自分からは何もしようとしない。愛するひとの為に何かを与えようとしない。傷だらけの肉体なんかよりも、この浅ましい心の方がずっと醜い。
愛してもらうことだけじゃない。愛するひとを壊すことすら自分一人ではできなかった。全部あいつのおかげなんだ。
「オルドにも話しておくよ。おれがどうしてオルドを裏切ったのか」
オルドの肉体にぴったりと寄り添う。そうして、虚ろな目をした虎の顔をおれの胸へと抱き寄せる。そうするとオルドの体温をはっきりと感じられる。このぬくもりに一度おれは救われた。救われた気でいた。
「でもな、幸せになれるかもなんて考えていたおれの前にあいつが現れたんだ」
ちらりと部屋の隅に転がった酒瓶を見る。あの酒を贈った男は祝杯のつもりだったのだろう。おれの願いが今日こそ叶うのだと、予感していたのだと思う。
「『あいつ』のことは、オルドの方が良く知ってるんじゃないか?あの猪だよ。オルドの部下だって言ってたな。オルドに復讐してやりたくって、こんな事をしたんだってさ」
オルドはずっとおれのそばにいると言ってくれたけど、まあ無理だよな。おれは娼夫でオルドは客なんだから。ずっと一緒になんていられない。ああ、責めてるわけじゃないんだ。
おれなんかでも買うにはそれなりの金が必要。オルドだって忙しい。毎日会うなんて無理だなんて良くわかってたんだ。おれを身請けするのも簡単じゃないってことも、ちゃんとわかってたんだぞ。おれは馬鹿だけど、それくらいは分かってた。
オルドが、おれを身請けしようと準備してくれていることもな。おれを身請けするならばおれがこれから稼ぐ金、奴隷商人から買いつける際に支払った金、衣装代、食費、それに加えてあの強欲なオーナーのことだから更に毟り取ろうとするに決まっている。オルドは結構な金持ちみたいだけど、すぐに金を用意するのは無理だろう。
それに、娼夫といきなり暮らすなんて周囲のひとはなかなか認めてくれないよな。オルドの友達が良いやつらだってのは分かってるよ。ウィルだってきっと優しいやつなんだろうな。
でもそれとこれとは別だろ?オルドは偉い騎士団長様でさ、きっと威厳や正しさが求められるひとだもんな。男娼を身請けして一緒に暮らすなんて、なかなか認めてくれない。 ウィルだっておれを受け入れられないだろうな。どんなに優しい奴だって、父親が自分と同じくらいの男娼を「彼が私の恋人だ、今日から一緒に暮らそう」なんて言って連れてきたら到底受け入れられないだろうよ。それが正しい。普通なんだ。
でもオルドはその普通を変えようとしてくれたんだよな。ウィルを必ず説得する、すぐに迎えに来るっておれに約束してくれた。もう少しだけ待ってくれって。結局半年以上もかかっちゃったけど、その理由はおれが出来る限り先延ばしにしようと小細工をしてたからだしな。
おれはそれを信じて、信じたくって待っていたよ。オルドの笑顔を思い浮かべておれを壊してしまいそうな「何か」をどうにか抑え付けていた。
「おまえを苦しめる『それ』を、心の中にある邪魔な物を、おれが消してやるよ」
あいつがやってきたのはそんなある日のことだった。オルドの部下で、騎士団の副団長で、おれとオルドを引き合わせた男。おれをずっと犯してきたあの猪がやってきたんだ。
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