48 / 136
キッド
とろとろ溶けて甘くなれ(2)
しおりを挟むテリーがキッチンに入り、チョコレートを前に、包丁を構える。
(こうだっけ?)
すぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ!
「え」
キッドの目が、瞬き三回。
「テリー、お前包丁使えるの?」
「何言ってるの。貴族令嬢として、包丁の一つや二つ使いこなせないでどうするのよ」
(工場時代、あたしが何度、野菜のみじん切りをしたと思ってるのよ)
「チョコレートの一つや二つ。三つや四つ」
刻む程度、
「お茶の子さいさいよ!」
すぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ!
どんどん刻まれたチョコレートが山となって、まな板に積み上がっていく。
「ボウル!」
火にかけた鍋に入るボウルに振り向き、鍋を火から避難させて、まな板に乗っかったチョコレートをボウルに投入する。
「調味料!」
砂糖と生クリームを投入する。
「他!」
テリーがぽいぽいと材料を加えていく。それもキッドが驚いて目を見開き呆然とするまでに。
「溶けたわね!」
お湯で温まったボウルの中で溶けるチョコレートを見て、
「うらうらうらうらうらうらうらうらうら!!」
かき混ぜて、
「くるくるくるくるくるくるくるくるくる!!」
形を整えて、
「冷蔵庫!」
冷蔵庫に入れて、
「完成!!」
きらきら輝いたトリュフが出来上がる。テリーは満足そうに、きらきら輝く汗をハンカチで拭い、キッドとビリーはきょとーんとテーブルに並べられたトリュフを見つめてる。
「これでいい?」
テリーがふっと笑って、
「あたしは作ったわよ」
チョコレートを作ったわ!
「これで終わりよ!」
さあ!
「あたしは帰る!!」
(ようやく帰れる!! あたし、解放されるのよ!!)
そう思って足を一歩踏み出せば、
「よーし、テリーも一緒に食べようよ」
キッドが笑顔でお皿をひょいと持って、テリーの手を掴んで、歩き出す。
「え」
二階に歩き出す。
「ちょっと!」
テリーが引きずられながら、鼻歌を吹くキッドに連れていかれる。
「ま、待ってよ! せっかく多めに作ったのよ!」
振り向いて、やれやれと困った顔をするビリーに叫ぶ。
「ミスター・ビリー! 残すからあとで食べてもよくってよー!」
「だからさあ」
階段を上りながら、キッドが小さなその手の持ち主に冷たい目線を向けて、微笑む。
「なんでじいやにはそんなに好意的なわけ? 爺ちゃんっ子なのか? お前」
「あんたに食べさせるくらいなら、ミスター・ビリーの方が全然マシってことよ!」
その一言に、キッドの何かが、かちん、とキレた。
(この生意気令嬢め)
キッドが、にこりと微笑んだ。
(虐めてやる)
キッドが、にやりと微笑んだ。
「テリー、俺はお前と、お前が作ったチョコレートを食べたいだけだよ。だって初めて一緒に過ごすバレンタインなんだよ? 一緒に仲良く愛し合いながら食べようよ」
「五個くらい残してよ。ミスター・ビリーに食べさせるから」
「五個。わかったよ」
俺は婚約者だからね。
「お前の言うこと、聞いてあげる」
キッドが微笑むと、テリーがふんと鼻を鳴らして、目を逸らす。
「……それでいいのよ」
キッドはその強気な顔を見て、口角をあげる。
(虐めてやろう)
(泣かせてやろう)
これは子供のお遊びだ。
(お遊びなら許されるさ)
キッドが部屋の前で、立ち止まる。
「テリー、俺、両手塞がってるんだ。開けてくれる?」
「あたしの手を離せば?」
「俺が離したくないんだよ。だから、ね?」
「なんであたしが」
「チョコレート五個残すから、お願い」
「……ん」
テリーがむすっとして、扉を開けた。キッドが笑みをテリーに向ける。
「ありがとう。テリー」
「そうよ。普通は紳士がやるのよ。感謝しなさい」
「はいはい」
自分の部屋にテリーを入れて、自分も入ってお皿を机に置く。
「ベッドに座って」
「あんたの部屋ってなんでこんなに狭いわけ?」
「文句言うな」
扉を閉めて、ベッドに腰掛けたテリーに振り向く。
「さ、テリー、食べようよ。お前の愛が入った、気持ちが込められたチョコレートを」
「おえ……」
「なんか吐いた?」
「何も」
キッドが涼しい顔をして、絶対に思っている下心を見せないように、笑みでその内を隠して、お皿を持ち、テリーの隣に座る。ベッドがぎしっと、きしむ音を出した。
「ほら、テリー」
お皿を差し出せば、テリーが不思議そうな表情を浮かべる。それを見てキッドは微笑む。
「食べさせて?」
テリーの片目が痙攣した。
「自分で食べなさいよ」
「テリーに食べさせてほしいの」
「はっ! あんた赤ちゃんなの? ママがいないと何も出来ないわけ?」
「ああ、いいね。それ」
そのネタ、もらった。
「テリーは俺のママだ」
にこっと笑って、
「ママぁー!」
「うわあああああああああああああああ!!!」
チョコレートの皿をベッドの端に置いてから、その腰に抱き着けば、まだ子供のテリーは簡単にキッドの腕に閉じ込められる。
「やめろ! この! 木偶の坊! 顔だけイケメン! 最低野郎! くず! マザコン!」
「そうだよ。俺はマザコンなんだ」
テリーママに色々してもらわないと、生きていけないんだよ。
「というわけで、ほらほら、俺にチョコを食べさせないと。大きく育たなくなっちゃうよ」
「いいわよ! それで成長ストップしましょう! もうこれ以上! 大きくならなくていいわ!!」
「えー? これ以上、大きくならなくていいの?」
じゃあ、このまま、ずっと、ママに甘えることにしようっと!
「マーマ?」
にこりと、首を傾げて、
「おっぱい飲ませて?」
「ひっ!!」
テリーの顔が、びぐっ! と引き攣る。
「だって、チョコレートを食べさせてもらえないと、成長が止まっちゃうから」
食べさせないんでしょ?
「じゃあ、テリーが」
「ママが」
「俺におっぱい飲ませて」
「育てないとさ」
「ね?」
にっこにこと。
にこにこにこにこと、
にこにこにこにこにこにこにこにこと。
下品な言葉も、
はしたない言葉も、
恥ずかしい言葉だなんて思わない。
「生きるために必要な事だから」
さあ、ママ?
「脱いで」
「わかった!!」
テリーが真っ青になって、頷く。
「やる! 食わせる! ほら、皿!!」
両手を差し出すのを見て、キッドが涼しく笑った。
「最初から、そう言えばいいんだよ」
「ううううう……!」
唸りながら睨んでくるテリーを見て、ぐふふ、と陰で笑う。
(この顔が面白いんだよ……)
誰もこんな顔を自分に向けたことはない。うっとりと自分に見惚れる顔は何度も見てきたが、
(睨まれて、唸られて、本気で嫌がられたのは、テリーが初めて)
「はい、お皿」
「ん」
テリーが受け取り、キッドを見上げる。
「ほら、口開けて」
「うん」
キッドの口が開かれる。
「あー」
ひょいと、テリーがキッドの口にチョコレートを放り込んだ。
「ん」
舌の上に溶けていくチョコレートの味に、キッドがぱっと目を見開く。
「甘い」
「でしょうね」
だって、
「砂糖も牛乳もいっぱい入れたもん」
甘くなって当然よ。
「お前、普段から料理とかするの?」
「しないわよ」
「お菓子作りはするわけ?」
「簡単なやつを作れるだけよ」
作り方さえ分かれば、誰にだって作れるようなものだけ。
「どう? 甘すぎない?」
「俺は好き」
「ふーん」
「何?」
キッドが微笑んだまま、首を傾げる。
「俺が食べれるかどうか、不安になったの?」
おや、こいつは可愛い。
しかし、テリーがキッドに向けてきた目は、呆れた目。
「は? 馬鹿じゃないの? 甘過ぎたらミスター・ビリーが食べれないかもしれないじゃない。あんたは毒味よ。毒味役」
ぱくりとテリーが自分が作ったチョコレートを口の中に入れ、舌の上で転がす。
(……ふん。我ながら美味だわ。素晴らしい)
一方、頬を緩ますテリーを見下ろしながら、キッドは微笑んでいた。
(可愛くない)
素直じゃない女の子は可愛くない。
(ここで照れ臭そうに、キッドが好きな味で良かった。の一言でもあれば可愛かったのに)
馬鹿って。人を馬鹿って。じいやの毒味役って。
(生意気のクソガキめ)
ちょっとこらしめてやろう。
「あっ! そうだ、テリー!」
キッドが満面の笑みで立ち上がる。
「サプライズボックスを見せてあげよう」
「ん?」
テリーがきょとんとチョコレートをまた食べる。
「何それ?」
「開けてみてびっくり。何が入っているかはお楽しみ」
「……変なもの入ってないでしょうね?」
「女の子が好きなものが入ってるよ」
テリー、分かってるくせに。
「俺、女の子には優しいんだよ」
ただし、
(お前以外の女の子には、ね)
キッドがベッドの下を覗き込み、手を伸ばし、埃が被った箱を引っ張り出した。テリーが顔をしかめる。
「汚い」
「中は大丈夫」
ぽんぽんと軽く叩き埃を払い、キッドがテリーに差し出す。
「はい、テリー」
「んん……」
テリーがチョコレートの乗った皿をベッドの端に置き、不審な表情で箱を受け取る。向かいに座るキッドがにやにやと微笑んでいるのを見て、テリーの眉間に皺が集まってきた。
「これ、開けるの?」
「そうだよ。テリーが開けるの」
「キッドが開けて」
「テリーが開けるの」
「あたしが?」
「見て驚くと思うよ」
目を輝かせると思うよ。
「女の子は、皆、好きなんだ」
「皆?」
「うん。開けてみて、皆、喜んでたよ」
(女の子に渡したことないけどね)
その箱は、男の子に渡してた。
(皆、驚いて、『やってくれたな! キッド!』って言って笑うから)
その箱は、女の子に渡すはずがない。
(だってそんなことしたら、嫌われちゃうじゃん)
ということは? じゃあ、テリーは? それじゃあ、彼女は? どんな反応するの?
にぃいいいんまりと、キッドの笑みがどんどんいやらしくなってくる。
「皆が喜ぶもの……?」
テリーの好奇心が揺れ動く。
「なんだろ……」
好奇心からその箱の蓋を、ぱかりと、躊躇いなく開けると、中から、
――大量の蜘蛛が飛び出した。
「っ」
テリーが目を見開き、顔と体を強張らせ、悲鳴になってない声を上げる。
バネがくっついた黒い蜘蛛が揺れた後、飛び上がった小さな蜘蛛の玩具が天井からぼたぼたと落ちてくる。
「っ」
テリーが黙る。ぼたぼたと大量の蜘蛛が落ちてくる。
テリーが黙る。蜘蛛が大量に落ち終わる。
辺りを見渡せば、蜘蛛の玩具だらけ。目の前には、バネで揺れる蜘蛛。
「あっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!!!」
げらげらと、キッドがテリーに指を差して、笑った。
「あははははははは!!!!」
げらげらと、腹を抱えて笑った。
「どうだ! テリー! 面白いだろ!あはははははははははは!!!」
げらげらと笑う。キッドが笑う。楽しそうに笑う。げらげらと、涙さえ浮かべる。苦しくて、お腹を抱えて、げらげら、楽しくて、笑う。悪戯が成功して、楽しくて、嬉しくて、愉快で、俯いて、笑う笑う笑う。
悪戯、だいせいこーう!
ぱんぱかぱかぱかぱーーーん!
「あははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
キッドが爆笑する。
「お前が悪いんだぞ! お前が悪い子だから、お仕置きだよ! ばーか!!」
あはははははは!
「これからは俺に逆らわないことだな!」
良い子になれば、もっと優しくしてあげるよ! もっと愛でてあげるよ! でも、それは良い子になったらの話さ!
「生意気な罵詈雑言の不良娘! 我儘令嬢! ざまあーーみろーー!!」
はっはっはっはっはっはっ!
あーあ! 全く! 笑いが止まらないよ!! 愉快愉快! 実に爽やか爽快壮快最高な気分だ!
「くくくっ! もうこういうことされたくないなら、今後は俺の言うことをちゃんと聞くんだよ? 婚約者なんだから、俺達はもっと愛し合わないと! そうだな! じいやの前で耳かきでもしてもらおうかな! イチャイチャしてるところをそれなりに見せつければ、それっぽく見えるだろ? 楽しくやろうよ! テリー! こんな風に! 愉快に楽しく! 遊ぼうよ!」
あっははははははは!!
キッドが笑う。しかし、いつまで経ってもテリーの返事はない。
「ねえ!」
キッドの顔が上げられた。
「テリーってば!」
ぱっと顔を上げれば、
(あ?)
テリーが固まっていた。
(あ?)
テリーの目から、ほろりと、涙が溢れた。
(あ)
ぼろぼろと、涙を流すテリーがいて、
(あ……)
キッドの顔が引き攣る。
(あれ?)
テリーが泣いてる。
(あれ?)
無表情のまま泣いてる。
(あれ?)
眉を下げることもなく、呆然としたまま、無表情で涙だけ出している。
(あれ?)
体を震わせるテリーがいる。
(あれ?)
きゃあ! と悲鳴をあげて怖がるテリーはいない。
キッド! と怒るテリーはいない。
ひたすら、静かに、固まって、ぼろぼろと、ぼろぼろと、黙って、涙をドレスに落とすテリーが、硬直して、そこに座っていた。
キッドも、思わず固まる。
テリーも、固まる。
その目は、パニックを通り過ぎて、真っ白になっていた。
(……あれ?)
キッドがそう思った時、ようやくテリーの口が開いた。
「……帰る」
「え」
「帰る」
鼻声のまま、テリーが箱をベッドに置く。そして、涙の雨を落としながら、立ち上がる。
「ばいばい」
「ちょ」
キッドがその手を掴む。
「テリ……」
ばちん、と、振り払われた。ぐすっ、と鼻をすする音が、聞こえる。
「帰る」
「待って」
「帰る……」
ドアノブを握ろうと伸ばした手を、掴む。
「テリー、待って」
「帰る!!」
テリーが怒鳴った。
「もう帰る!!」
「わかった、ごめん」
キッドが無理矢理、その手を引っ張り、抱きしめる。テリーを、腕の中に閉じ込める。
「ごめんって」
「帰る!!」
テリーがぽこぽこと、キッドの胸と肩を叩く。
「帰る! 帰る! 帰る!!」
「ごめんごめん、謝るから。ごめんってば」
「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!!」
「ごめんごめん、やりすぎた。ごめん、テリー、ごめん」
静かに、冷静な声で、キッドが謝ってくる。その言葉を聞く度に、テリーがキッドを叩いた。
「この! この! この!!」
その目は可哀想なくらい、涙でぼろぼろだ。
「バカバカバカバカバカ!!」
その顔は可哀想なくらい、恐怖でいっぱいだ。
「くたばれくたばれくたばれ!!」
その脳は可哀想なくらい、パニックになっている。
「……ひっ……」
しゃくりあげ、黙り、体を震わせて涙をこぼすテリーを、キッドが抱きしめ、背中を撫でる。 ぐすんと、ぐすりと、ぐすっと、ひくっと、肩が揺れる。しゃくりあげる。キッドの胸が濡れていく。
(あーあ……)
本気でやりすぎたらしい。
(つまんな……)
本気でテリーが泣いてしまった。
(苦い……)
本気で苦い。
(チョコレートは甘かったのに)
苦い。
胸が、口の中が、苦い。
「……テリー、ごめん。もうしないから泣き止んで」
「……泣いてない……」
(泣いてるじゃん)
出される声は鼻声だ。まだ胸の中では、ぐすりと鼻をすする音が聞こえる。
(あーあ……)
じいやに怒られる。
(どうしよ……)
テリーが泣いた。
(でも、元々はテリーが悪いんだ)
俺に生意気に暴言ばかり吐くから。
(これはお仕置きだ)
でも、テリーが泣いてる。
「……」
キッドが、はあ、とため息を漏らし、ぎゅううっと、きつく、優しく、テリーを抱きしめ直す。
「テリー、ごめん」
悪戯が過ぎた。
「ごめん」
頭を撫でれば、テリーの手が自分の背中にしがみついているのに気づいた。
(おっと、大胆だな)
震える手が、ぎゅっと自分の衣服の布を掴んでいる。
(小さな手)
まだ11歳の女の子。
(11歳にびっくり箱はやらかしたかな……)
今さら、少し、かなり、後悔する。
「テリー」
そっと屈んで、
「ごめん」
頭にキスをする。
「っ」
驚いたように、テリーが体を強張らせた。
「ごめん」
もう一度、頭にキスをする。
「テリーの可愛い反応が見たくて、意地悪しちゃったんだ。ごめんね。もうしないから許して?」
「……くそがっ……」
「はいはい」
また暴言を吐くテリーの頭にキスを落とせば、テリーの手にぎゅっと力がこめられた。
「……ぐすっ」
泣きながらキッドの背中にしがみつく。
キッドはそんなテリーを大切に抱きしめる。
(なんだろう)
キッドは不思議に思う。
(なんだろう)
変なの。
(テリーが泣いてるはずなのに)
(そうやっていつまでも泣いてたらいいのに、って思う自分がいる)
変なの。
(泣いてる女の子なんて嫌だよ)
こっちまで悲しくなるじゃん。
(でもさ)
テリー、
(テリーが、俺にしがみつくほどくっついてくる)
泣いてる時だけ。
(普段は嫌がるくせに)
泣いてる時だけ。
(素直にくっついてくる)
泣いてる時だけ。
(素直にキスされる)
頭にキスしても、抵抗してこない。
(素直)
泣いてるテリーは素直。
(面白くないと思ったけど)
俺が理由で泣くテリーは、なんか、
(テリーが本当に、俺のものになったみたい)
変なの。
(テリーが可愛く見えてきた)
変なの。
(テリーが愛しく見えてきた)
変なの。
(泣いてるから?)
それだけ?
(何だろ。この感覚)
いらいらしてた、むかむかしてた胸が、ぽかぽかしてくる。胸はきっと、鼻水と涙で濡れてるはずなのに、それすらもなぜか、許してしまいそうになる。
(何だろ。これ)
実に不思議な気持ちだ。
(興味深い)
「……帰る」
鼻が少し赤いテリーがキッドの胸から離れる。
(おっと)
「ちょっと待って」
止めると、潤んだ目で睨まれる。
「何よ。あたしは帰るわよ。……ぐすっ。……こんな酷い目に遭うと思わなかった」
「うん。だから謝罪させて?」
「いい。もう家に帰りたいの」
「そう言わずに」
しゃがんだと思えば、キッドがテリーの体を腕に抱えた。
「ふぎゃっ!」
テリーが思わず体を強張らせ、キッドを睨んだ。
「ちょっと! やめて!!」
「はいはい。蜘蛛は退けるよー」
足でベッドに乗っかる蜘蛛の玩具を払い、テリーを再び座らせる。蜘蛛は見せないように奥に座らせて、自分がテリーの視界の全てとなる。
「よいしょ」
テリーの靴を脱がせて、ぽいと投げる。
「ちょっと」
「ほら、くつろいで」
「言ってるでしょ! あたしは帰るの!」
「でもチョコレートはまだ残ってるよ?」
食べようよ。
「いらない!」
「食べさせてあげる」
皿を掴んで、ベッドの上の棚に置く。一つ、指で掴んで、テリーの口元に運ぶ。
「ほら、食べて」
甘いよ。
「あたしが作ったんだから、知ってるわよ! ふん!」
むすっとむくれながら、口を開けて、チョコレートを食べる。むきゅむきゅ食べる姿はいつものテリー。だけれど、潤んで赤い目はまだ治らない。
「テリー、ごめん」
「……最低」
「うん。最低だったね」
頭をぽんぽん撫でると、テリーがほっとしたように、少しだけ、表情を緩ませる。
(なんか、これじゃまるで)
飴と鞭。
(それでもいいや)
今は、テリーを甘やかせるのが何よりの優先だ。
「ねえ、俺にも食べさせて?」
「やだ」
「ねえ、お願い」
「……」
むすっと、頬を膨らませたまま、テリーがお皿に手を伸ばす。チョコレートを一つ掴み、キッドの口に放り込む。
「うん」
キッドがふわりと微笑む。
「甘くて美味しい」
テリーにその天使の笑顔を浮かべれば、見惚れまいと、テリーが鼻を鳴らしながら視線を逸らす。
「……お黙り」
あ、なんか。
(何だろう)
飴と鞭で表現したけど、
(表現するとすれば)
今の時間は飴だ。テリーが俺に飴を与えてる。
(だって)
空気がうっとり酔いしれてしまうくらい、甘い。
(俺としたことが……)
テリーに一泡吹かせるつもりが、
(俺が一泡吹いてしまった)
思わぬ打撃だ。
(ん?)
きょとんとする。今度はチョコレートを食べながら、テリーがうとうとしている。
(うん?)
泣き疲れたらしい。
(仕方ない奴だな)
「テリー」
耳元で、小さく、囁く。
「ちょっとお昼寝しない? 一緒に」
そうだね。
「添い寝してあげる」
「……眠くないけど」
(嘘つき)
「俺が眠いんだよ。一緒に寝ようよ」
「んん……」
テリーがうとうとしている。
「眠くない……」
「テリー、横になって」
「ん……」
テリーがドレスのまま横になる。暖かい布団を肩までかけてあげれば、テリーの呼吸が深いものになる。キッドも中に入り、テリーの寝顔を覗き込み、微笑む。
「これは甘すぎるかな?」
それでもいいや。
キッドの瞼が閉じた。
(こうなったら、とろとろになるまで、甘やかそう)
キッドの呼吸が深くなる。隣にいるテリーも深く呼吸を繰り返す。
甘い空気の中、向かい合って眠る二人がそこにいた。
――数時間後。
「ねえ、今、何時?」
「夜の19時」
「地面には」
「蜘蛛の玩具でいっぱい」
「チョコレートは」
「溶けて跡形もなし」
「キッドーーーーー!!」
「あははははははは!!」
いつものように、怒鳴り、笑う二人の姿があった。
とろとろ溶けて甘くなれ END
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
144
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる