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序章~エロ作家の副業~
遭遇編
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■ ■ ■
犬飼夏海、二十二歳。
美術系の短大を出て、グラフィック系の会社でアルバイトをしている。
ゆくゆくはイラストレーターとして身を立てていきたいと思っているため、自分の時間を柔軟に取りたくて正社員の道を選ばなかったそうだ。
埼玉の実家暮らしということもあり、経済的に困ることはないのだろう。
心霊スポットである廃ビルへ行くことになったのは、彼氏の悪ノリだった。
「ヤだぁ、ほんとになんか出たらどうすんのぉ」
夏海はそう言って尻込みしたのだが、二歳上の彼氏・伸吾は「いいだろ、行ってみようぜ」と車を走らせた。
たまたま近場でデートし、夕食を共にした後、伸吾が思いつきで決行した突発的肝試しであった。
そこは少し市街地を外れ山林のようになったところへ建てられた――正確には建てられようとした――某企業の分社ビルだったが、建設中のある晩、女が侵入して自殺。
それから頻繁に霊が出たりして、作業員の中には発狂する者が続発し建設は取りやめられたとの噂である。
時期はバブルの頃とされている。
街灯もない林の中に乗り入れ、目的地へ近づいていく。
やがて敷地の始まりを示すフェンスが見えてきた。
「ねえ~やめようよぉ」
夏海は再度そう言ったのだが、イキっていた伸吾は聞かなかった。
しかし車のエンジンを切り、灯りがなくなると辺りの不気味さは相当なもので、心なしか伸吾は震えているようだったと夏海は語る。
月明かりがぼんやりと建物の薄汚れた外壁を照らし出した。
樹木の影が風に揺れる様子は、異形の怪物が蠢いているようにも見えた。
不思議なもので、そのおぞましくも幻想的な光景に、夏海は絵心を刺激されたという。
資料として写真に撮ろうとしたが、暗過ぎてスマホのカメラでは撮影が不可能だった。
ならば、肉眼を通し記憶に刻みつけておくしかない。
夜の廃ビルなど初めて見るし、今後も足を運ぶことなんてまずないと思った夏海は、
「入ってみよっか」
半ばワクワクして先導し始めたのだった。
伸吾は走って追って来たが、強がりたいのか夏海の前に進み出た。
スマホのライトをつけ、正面玄関から屋内へと入った。
がらんどうのエントランスには、ぼろぼろに朽ち果てたビニールシートの断片らしきものが散乱しており、元の色がブルーだったかどうかすら判別出来ない。
「ホームレスとか住み着いてんじゃねコレ」
「足元、気をつけろよ。コンクリの破片とかごろごろしてんぞ」
「コレって時代的にアスベストとか使ってるよな、ぜってー。ヤベーな」
伸吾は気を紛らすためか、現実的な危険を強調してやたらと喋った。
屋内に反響した声がわん、わぁん……とこだまのように聞こえた。
「おい、夏海、いるよな?」
伸吾が何度も後ろを振り返って確認するのが可笑しかった。
「いるに決まってんでしょ~」
夏海は自身もスマホのライトを点け、異様な雰囲気の建物内を見回していた。
非日常的な空間。
薄気味悪さもあったが、なにやら終末感を漂わせた廃墟のたたずまいというものを、
――コレ好きかも。
と、自らの手で絵にすることを考えワクワクしている夏海であった。
だが、そんな浮かれ気分はすぐさま霧消することとなった。
玄関からまっすぐ廊下を進み、二十メートルほど奥に入っていた。
右手に、上階へと続く階段が見えてきた。
禍々しい空気が階段のほうから吹きつけてくるようで、夏海は息を吞んだ。
霊感はないのだが、そちらへあまり近寄りたくない――という気がした。
「三階から飛び降りたんだっけ?」
ここでの自殺者女性に関するネット情報を思い返し、夏海は言った。
「うわっ、ちょ夏海……いきなり話しかけんな――」
振り向いた伸吾の表情が凍りついた。
その顔を見て、夏海も心臓が止まりそうになった。
伸吾の視線は、夏海の肩越しの空間に据えられていたのだ。
「え、ヤだ……ちょっと、伸吾? 冗談やめてよ」
自分の後ろになにかいるのか。
夏海の背中を冷たい汗が流れ、どきんどきんと鼓動の音が耳奥に響いた。
「いやっ……ごめんっ、勘違いだと思う。マジでごめん、なんもなかった」
伸吾は目をしばたたかせ、改めて夏海の背後に視線をやる。
実際になにかを目撃したのだが、再び目を凝らしたら消えていた――そんな現象に戸惑っている態度と見えた。
夏海は伸吾と顔を合わせ、無理に笑おうとしたが、頬が引きつって笑顔など作れなかった。
呼吸を整え、夏海は「戻ろう」と言おうとした。
おそらく伸吾も同じことを言うつもりだったのであろう、口を開きかけた。
そのときである。
『ううぅ、う゛……』
すすり泣きなのか呻きなのか、弱々しい女の声が階段のほうから聞こえたのだ。
見合わせていた顔が、戦慄で硬直した。
金縛りにあったように動けなくなる夏海だった。
伸吾はさっきの体勢のままこちら向きになっている。
だが夏海は、行く手にある階段のほうを向いていた。
見つめる焦点は伸吾に合わせていたが、視野の端には階段が入っている。
自分の持つスマホの照明が僅かに差す階段で、動くものが見える。
――降りて来る……。
ゆっくりと、それは上の階から降りて来ていた。
丈の長い白いものを着た誰か。いや、なにかと言ったほうがいいものが。
「う、あああああぁぁっ!!」
迫りくる気配に耐え難くなったのだろう。
まず伸吾が絶叫し、走り出した。
その声を聞いて夏海も金縛りが解け、
「ちょっ! 待って!」
全力で逃げていく伸吾の背中を追って、駆け出した。
金縛りの余韻であるかどうか定かでないが、脚がもつれがちになる。
転びはしなかったが、伸吾には追いつけない。
「ひいいいいいっ、うああ、わああああああぁぁっ!!」
伸吾は夏海を顧みることなく、自分だけ車に飛び乗ってエンジンをかけた。
「待ってぇ! 伸吾っ!」
叫ぶ夏海へ、車のヘッドライトが浴びせられた。
目眩ましを喰らったようなものだ。瞬時に腕で遮り、立ち止まってしまう夏海。
未舗装の道、砂埃を盛大にまき上げて切り返す車に、危うく夏海は轢かれそうだった。
「伸吾おおおおおぉぉぉぉっ!!」
ブレーキランプを光らせることもなく走り去っていく伸吾の車を、夏海は猛ダッシュで追いかけた。
だが、見る見るうちに引き離されていく。
それでもあのビルから離れなくては――と、夏海は走った。
あまり運動をしているほうではないので、すぐに息が切れたが、とにかく力のある限り逃げなくては。
そう思って脚を動かしていた。
歩いているのと変わらない速度になっていたかもしれない。
無我夢中で逃げ、気がつくと夏海は電灯のある市街地まで辿り着いていたのだった。
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犬飼夏海、二十二歳。
美術系の短大を出て、グラフィック系の会社でアルバイトをしている。
ゆくゆくはイラストレーターとして身を立てていきたいと思っているため、自分の時間を柔軟に取りたくて正社員の道を選ばなかったそうだ。
埼玉の実家暮らしということもあり、経済的に困ることはないのだろう。
心霊スポットである廃ビルへ行くことになったのは、彼氏の悪ノリだった。
「ヤだぁ、ほんとになんか出たらどうすんのぉ」
夏海はそう言って尻込みしたのだが、二歳上の彼氏・伸吾は「いいだろ、行ってみようぜ」と車を走らせた。
たまたま近場でデートし、夕食を共にした後、伸吾が思いつきで決行した突発的肝試しであった。
そこは少し市街地を外れ山林のようになったところへ建てられた――正確には建てられようとした――某企業の分社ビルだったが、建設中のある晩、女が侵入して自殺。
それから頻繁に霊が出たりして、作業員の中には発狂する者が続発し建設は取りやめられたとの噂である。
時期はバブルの頃とされている。
街灯もない林の中に乗り入れ、目的地へ近づいていく。
やがて敷地の始まりを示すフェンスが見えてきた。
「ねえ~やめようよぉ」
夏海は再度そう言ったのだが、イキっていた伸吾は聞かなかった。
しかし車のエンジンを切り、灯りがなくなると辺りの不気味さは相当なもので、心なしか伸吾は震えているようだったと夏海は語る。
月明かりがぼんやりと建物の薄汚れた外壁を照らし出した。
樹木の影が風に揺れる様子は、異形の怪物が蠢いているようにも見えた。
不思議なもので、そのおぞましくも幻想的な光景に、夏海は絵心を刺激されたという。
資料として写真に撮ろうとしたが、暗過ぎてスマホのカメラでは撮影が不可能だった。
ならば、肉眼を通し記憶に刻みつけておくしかない。
夜の廃ビルなど初めて見るし、今後も足を運ぶことなんてまずないと思った夏海は、
「入ってみよっか」
半ばワクワクして先導し始めたのだった。
伸吾は走って追って来たが、強がりたいのか夏海の前に進み出た。
スマホのライトをつけ、正面玄関から屋内へと入った。
がらんどうのエントランスには、ぼろぼろに朽ち果てたビニールシートの断片らしきものが散乱しており、元の色がブルーだったかどうかすら判別出来ない。
「ホームレスとか住み着いてんじゃねコレ」
「足元、気をつけろよ。コンクリの破片とかごろごろしてんぞ」
「コレって時代的にアスベストとか使ってるよな、ぜってー。ヤベーな」
伸吾は気を紛らすためか、現実的な危険を強調してやたらと喋った。
屋内に反響した声がわん、わぁん……とこだまのように聞こえた。
「おい、夏海、いるよな?」
伸吾が何度も後ろを振り返って確認するのが可笑しかった。
「いるに決まってんでしょ~」
夏海は自身もスマホのライトを点け、異様な雰囲気の建物内を見回していた。
非日常的な空間。
薄気味悪さもあったが、なにやら終末感を漂わせた廃墟のたたずまいというものを、
――コレ好きかも。
と、自らの手で絵にすることを考えワクワクしている夏海であった。
だが、そんな浮かれ気分はすぐさま霧消することとなった。
玄関からまっすぐ廊下を進み、二十メートルほど奥に入っていた。
右手に、上階へと続く階段が見えてきた。
禍々しい空気が階段のほうから吹きつけてくるようで、夏海は息を吞んだ。
霊感はないのだが、そちらへあまり近寄りたくない――という気がした。
「三階から飛び降りたんだっけ?」
ここでの自殺者女性に関するネット情報を思い返し、夏海は言った。
「うわっ、ちょ夏海……いきなり話しかけんな――」
振り向いた伸吾の表情が凍りついた。
その顔を見て、夏海も心臓が止まりそうになった。
伸吾の視線は、夏海の肩越しの空間に据えられていたのだ。
「え、ヤだ……ちょっと、伸吾? 冗談やめてよ」
自分の後ろになにかいるのか。
夏海の背中を冷たい汗が流れ、どきんどきんと鼓動の音が耳奥に響いた。
「いやっ……ごめんっ、勘違いだと思う。マジでごめん、なんもなかった」
伸吾は目をしばたたかせ、改めて夏海の背後に視線をやる。
実際になにかを目撃したのだが、再び目を凝らしたら消えていた――そんな現象に戸惑っている態度と見えた。
夏海は伸吾と顔を合わせ、無理に笑おうとしたが、頬が引きつって笑顔など作れなかった。
呼吸を整え、夏海は「戻ろう」と言おうとした。
おそらく伸吾も同じことを言うつもりだったのであろう、口を開きかけた。
そのときである。
『ううぅ、う゛……』
すすり泣きなのか呻きなのか、弱々しい女の声が階段のほうから聞こえたのだ。
見合わせていた顔が、戦慄で硬直した。
金縛りにあったように動けなくなる夏海だった。
伸吾はさっきの体勢のままこちら向きになっている。
だが夏海は、行く手にある階段のほうを向いていた。
見つめる焦点は伸吾に合わせていたが、視野の端には階段が入っている。
自分の持つスマホの照明が僅かに差す階段で、動くものが見える。
――降りて来る……。
ゆっくりと、それは上の階から降りて来ていた。
丈の長い白いものを着た誰か。いや、なにかと言ったほうがいいものが。
「う、あああああぁぁっ!!」
迫りくる気配に耐え難くなったのだろう。
まず伸吾が絶叫し、走り出した。
その声を聞いて夏海も金縛りが解け、
「ちょっ! 待って!」
全力で逃げていく伸吾の背中を追って、駆け出した。
金縛りの余韻であるかどうか定かでないが、脚がもつれがちになる。
転びはしなかったが、伸吾には追いつけない。
「ひいいいいいっ、うああ、わああああああぁぁっ!!」
伸吾は夏海を顧みることなく、自分だけ車に飛び乗ってエンジンをかけた。
「待ってぇ! 伸吾っ!」
叫ぶ夏海へ、車のヘッドライトが浴びせられた。
目眩ましを喰らったようなものだ。瞬時に腕で遮り、立ち止まってしまう夏海。
未舗装の道、砂埃を盛大にまき上げて切り返す車に、危うく夏海は轢かれそうだった。
「伸吾おおおおおぉぉぉぉっ!!」
ブレーキランプを光らせることもなく走り去っていく伸吾の車を、夏海は猛ダッシュで追いかけた。
だが、見る見るうちに引き離されていく。
それでもあのビルから離れなくては――と、夏海は走った。
あまり運動をしているほうではないので、すぐに息が切れたが、とにかく力のある限り逃げなくては。
そう思って脚を動かしていた。
歩いているのと変わらない速度になっていたかもしれない。
無我夢中で逃げ、気がつくと夏海は電灯のある市街地まで辿り着いていたのだった。
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