無口なきみの声を聞かせて ~地味で冴えない転校生の正体が大人気メンズアイドルであることを俺だけが知っている~

槿 資紀

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第三十話

 それから一週間、久瀬は家に帰らなかった。休み時間のたびにアプリを開いて久瀬の位置情報を確認して、授業を受けている間も、気付けば、久瀬のことを思い浮かべて、視界がぼやけた。まったく勉強どころではなかった。

 土曜日、九時から六時間バイトに入って、シャワーを浴びて帰る支度をしながら、ほぼ無意識にアプリを開けば、久瀬がマンションに戻ってきているのが分かった。ドクドクと心臓が跳ねるのが分かり、スマホをきつく握りしめた。

 ちゃんと、話をしなければ。震える指で、何度もフリックをミスしながら、メッセージを打ち込む。『会って話がしたいんだけど、今日家に行って大丈夫?』と送信すれば、そう間もなく既読がついて、『わかった、待ってる』と返ってきた。瞬間、自分が息を止めていることに気付き、ぶは、と息を吐いた。

 何か買って行った方がいいものある?、とメッセージボックスに打ち込みながら、自動ドアをくぐる。すると、目の前に、嫌なくらい見覚えがある車が停車していることに気付き、地面に縫い付けられるみたいに立ち止まった。

 後部座席の窓が開く。サングラスをかけたイケメンが、突き放すみたいな声色で「乗って」と隣を指さした。俺の見間違いでなければ、その男は。

「……人違いだと思います」

「あのさ、こっちは、一時間を千円ちょっとで売れるようなパンピーとは時間の価値が違うわけ。いいから早く乗って、久瀬瑞葵のことで話がある」

 そう言われてしまっては、俺としても逃げるわけにはいかない。悪手だと分かってはいたが、大人しく車に乗り込んだ。車はすぐさま発進した。

 想像以上に感じが悪い。傲慢という言葉を人間にしたらこうなるんじゃないか、という雰囲気が、ひしひしと横から伝わってくる。ラヴィ全肯定の妹すら、たまに「女遊びの噂がな……」と苦言を呈するくらいなので、よほどであろう。

 そう、俺をほぼ強制的に車に乗せたのは、ラヴィのハヤトだった。きっと、久瀬を家に送り届けた帰りなのだろう。時間の価値がどうこうと言っておいて、実は暇なんじゃないのか。

「付き合ってんの、アイツと」

「……は?」

「は? じゃねえよ」

 舌打ちしながら、ハヤトは自分と俺の間の空白に何枚か写真を投げてよこした。俺と久瀬が並んでいるところを背後から盗撮したものだ。腕を組み合ったり、やけに密着していたり、なかには、人気がないところで手を繋いだときのものまで含まれている。

「そうだとして、何をおっしゃいたいんですか」

「別れて、今すぐ。二度とアイツに付き纏わないで」

 ああ、想定の範囲の中で思いつく限り最悪の言葉が降ってきたじゃないか。いっそ呆れるくらいだった。というか、これはプライバシーの侵害にあたるのでは? いっそ訴えようか。

「貴方と俺って初対面ですよね」

「あ?」

「初対面の人間に対してだいぶ踏み入った話題振るな、と思って。びっくりしました」

「ハッ、別にオマエと駄弁りたいわけじゃねぇのよ。オマエが口に出していいのは、分かりました、の一言だけ。わかる?」

「俺だって貴方と話なんかしたくありません。ご用件はそれだけですか。なら下ろしてもらっていいですか? 時間の無駄です」

「オマエがオレの求める言葉を吐けば、すぐにでも家に帰してやるけど」

 脅迫です。車に乗った俺が悪いけど、どう考えてもこれ脅迫です。訴えたら勝てます。というか、あんまりにも理不尽の権化すぎる。カケルを虐めていた、というのも頷ける話だ。

「これ以上、貴方の時間を割いてもらいたくありません。下ろしてください」

「ハァ……頭鈍い奴だな、オマエ。あのね? アイツは、ミズキは、アイドルなの。世間体が何より大事なわけ。今から復帰して再出発するって言うさ、大事な時期に入るのに、ただでさえ恋人の存在は邪魔なの。その上、相手が男? 同性愛? ありえない。ナンセンスだ。オマエの存在がこれからのアイツの芸能生活を台無しにするんだよ」

 適当に雇った探偵風情にまんまと写真撮られたくせして、当然のように付き纏ってくるパパラッチから逃げられると思ってるわけ? 嘲笑を露わに、ハヤトは吐き捨てた。

 息の詰まるような空間。何もかもが、俺を一斉に苛むようだった。溺れるような息苦しさを、ようやくこらえながら、ゆっくり息を吸う。

「ほんとうに、久瀬は、復帰するんですか」

「逆にさ、あそこまでのビジュと実績持ってるやつをいつまでも泳がせとくと思うわけ?」

「あなた方の事情はどうでもいい。久瀬が、復帰するって、そう言ったんですか」

「本人に聞いてみれば? 俺が言ってもオマエ信じないだろ、どうせ」

 面倒くさそうにため息をつき、肩をすくめるハヤト。その態度が逆に、自信を表しているかのようで、みるみる、抗おうという気力が削がれていった。

 だって、言い方は横柄で気に食わないが、言っていることは何も間違っていないのだ。もし、久瀬に、復帰の意思があるのなら、俺は久瀬の邪魔にしかならない。汚点でしかない。

 芸能人、それも、夢を振りまくアイドルにとって、同性愛の発覚は、致命的なまでのゴシップだろう。おおらかな世の中になったと言えど、抵抗感を覚える層は確実にいる。

 発覚した……否、疑惑が持ち上がっただけでも、常に「そういう」目が付き纏うのだ。それを一身に受けることになる久瀬の苦しみはいかほどか。

 俺のせいで、あることないことを騒ぎ立てられる。無闇に囃し立てられて、噂が付き纏って、時には、心無い言葉を浴びせかけられることもあるだろう。

 そうなってしまったら、とても、俺は、耐えられない。俺のちっぽけな価値観では量れないほどの苦しみが、久瀬に襲い掛かるなんて、考えるだけでも体が震えた。

「お話は、分かりました。久瀬と、話します」

「さっさとそう言っとけっての……」

 呆れたように、ため息交じりの声でそう言い放つハヤトがこれ以上なく憎たらしい。こんな奴が久瀬のメンバーかと思うと、それだけで虫酸が走った。

 それでも、久瀬の意思なら、俺は、受け入れるしかない。初めから、その覚悟だったのだ。

 俺の家までは調べていなかったか、学校の近くで俺を下ろし、車は走り去っていった。学校の近くということは、久瀬の家もすぐそばだ。

 ゆっくり、足取り重く歩いた。久瀬の家が近づけば近づくほど、足首に重りがつけられ、負荷がかかっていくようだった。

 呼び鈴を鳴らす。はい、という掠れた声がスピーカーから聞こえてきて、「俺、カイリ」と口をもつれさせながら返事した。最近は合鍵を持たされて、インターホンを使うこともなかったから、やりづらかった。

 玄関前にたどり着いて、もう一度インターホンを押した。まるで待ち構えていたように鍵が開き、久瀬が隙間から顔を覗かせる。うまく笑えているか、自信がなかった。

「カイリくん……僕、その……」

 うつむく久瀬の頭頂部。白い地毛の部分が大きくなっている。それだけのことで、ズキズキと胸が痛んだ。

「今日は、玄関先で。少し話したら、すぐ帰るから。ごめんな」

「え……」

 久瀬は呆気にとられたように顔を上げた。よく見たら、唇が乾燥してひび割れていた。思わず触れたくなって、片腕がビクリと震える。反射的に腕を押さえ、深呼吸した。

「まずは、今まで、本当にごめん。ずっと、嘘ついてた。怖くて、いつまでも言い出せなくて……傷つけて、ごめんなさい」

 できるだけ深く、頭を下げる。うん、と、ごくごく小さな声で、久瀬は言った。感情の感じられない声だった。耳の奥にジン、とこびりついて、また、ジワリと涙が込み上げた。

 瞬きを繰り返し、スンと鼻を思い切り啜ってから、顔を上げる。久瀬は俯いていた。

「こっちこそ、しばらく、連絡できなくて、ごめん……東京に行って、色々あって」

「……妹が、写真、見せてくれたよ。ひとつ、聞いていい?」

「……うん、いいよ」

「アイドル、復帰する?」

 ぐる、と、久瀬の喉が、低く唸った。追って、「する、かも」と、今にも消え入りそうな声で言った。ちぎれそうだった希望の糸が、プツ、と音を立てるのが分かった。

 俺は、ポケットに入れていた久瀬の家のカードキーを取り出し、久瀬に差し出した。手のひらが、笑ってしまうくらいに震えていた。

「カイリくん……?」

「返さないとなって」

「どう、いう……」

「別れよう、俺たち……」

 笑って終わりたいと思った。必死で、口をニッと動かしたけど、顎から、ポタポタと熱い水滴がしたたり落ちた。

 床に水玉を作れば作るほど、体温がなくなっていく心地がした。きっと、俺の心の半分が、ここで腐り落ちていくのだろうと思った。
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