情熱のカフェ・アロマ~甘くほろ苦い恋とコーヒーの群像劇~

海野ことり

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本編

3.甘いココアとホロ苦い想い-②

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「ああ、顔色も良くなったな」
 志貴が理央の顔を見て安堵の表情を浮かべた。

「俺、そんなに顔色、悪かったですか?」
「自覚なかったのか? 青っちろい顔して、今にも倒れそうだったぜ」
 志貴の言葉に理央は胸を撫で下ろす。もし倒れていたら、志貴一人ではどうにもならなかっただろう。そんな騒ぎを起こしたら、もうここへは来られない。

「志貴さんって、意外とおせっかいですよね」
 ぽつりと呟いた言葉に、志貴は苦笑いを浮かべただけだった。
 テーブルに運ばれたカップから、ふんわりと甘い香りが立ち昇る。理央が驚いたように目を見張った。

「ココア?」
 カップを手に取って鼻先に近づけると、優しいチョコレートの香りが広がった。
「……チョコレートの香りって、これかぁ」
 理央が嬉しそうに呟いたその顔は、ふわりと紅潮していた。志貴は何か言いかけて、結局口を閉じた。理央があまりにも無邪気に喜ぶのを見て、ほんの少しだけ後ろめたくなったのかもしれない。

「……鼻の頭、ついてるぞ」
 志貴が身を乗り出し、親指で理央の鼻先をそっと拭った。その仕草に理央はドキドキして俯いた。
 ココアに夢中の理央は、志貴の背中にわずかに揺れる感情に気づかない。

「おいし……」
 素直な笑みを浮かべる理央の様子に、傍らにいた奏太は表情を和ませながらもどこか心配そうにしていた。
 そんな奏太の心配には気付かず、理央は最後までココアを飲み干す。
 そしてそろそろ腰を上げようとしていたとき、扉のベルが鳴った。

「志貴さん、差し入れ――って、奏太も理央もいるのか。ちょうど良かった、焼きカレーパンのリベンジだ。試食してみてよ」
 燕司が元気よく袋を差し出す。鼻息も荒く、どこか自信たっぷりだった。
 その勢いに押されるようにして、三人はまだ熱いカレーパンを受け取った。

「どう? どう?」
 せっかちに感想を求める燕司に、志貴が手を伸ばして頭を軽く小突いた。

「うるさい。ゆっくり食わせろ」
「乱暴だなあ。でも非力だから痛くないけどねっ」
 テンションが高い燕司をよそに、三人はそれぞれカレーパンをかじる。
 前回よりもさらに滑らかで、華やかな薫りが鼻を抜けていって鮮烈な印象を与えた。
 深みのある味わいに、理央は自然と言葉を漏らした。

「凄く美味しいです」
 “美味しい”の前に“凄く”がついた。そのひと言に燕司は満足げに頷くと、すぐさま真剣な表情に戻り、志貴の反応をうかがった。

「どうかな?」
「んー、これ、ピンクペッパーだな?」
「当たり。さすが、鼻はいいね」
「鼻“も”と言え。まあ、いいんじゃないか。食事としてこれ一個出されても十分満足できる。で、単価はいくら取るつもりだ?」
「……280円」
「260円にしとけ」
 その20円の違いが何なのか理央には分からなかったが、燕司は「分かった」と頷いた。

「俺も迷ってたんだ」
「迷って強気に出るとこが、お前らしいな」
「ほら、俺って攻めの人だから」
「お前は受けだろ?」
「それ、誰かに言わされてない!?」
 二人の軽妙なやり取りに理央の肩から力が抜け、思わず微笑んだ。

「じゃあ俺は帰りますね。えんちゃん、志貴さん、ご馳走様でした。あと奏太も……ありがとう。今度ご飯でも奢るから」
「うん、楽しみにしてる」
「……俺も、楽しみ」
 理央がぽつりと零すと、奏太がふっと微笑んだ。
 それを見て、勇気を出して良かった、と思いながら店を出た。
 その後ろ姿を三人が穏やかな目で見送った。
 理央が出ていった後、燕司がふと思い出したように言った。

「それでさ、あの人が帰ってきてるんだって?」
「ああ、昨日の夜、急にな」
 短いやり取りの裏にある不穏な気配を察して、奏太は椅子から腰を上げる。厄介事には近付かないに限る。

「燕司さん、ご馳走様でした。志貴さん、近いうちに廉さんと一緒に食事に行きましょう」
「ああ、分かった。言っとく」
 志貴が軽く手を振る。奏太はそれに小さく会釈して、カフェの扉を開けた。
 背後で微かに視界の端に映ったのは、燕司が志貴の腕を掴む姿だったような気がした。けれど、奏太は立ち止まらず、そのまま外へ出る。
 廉は尊敬すべき登山家であり、志貴も燕司も好ましい人たちだ。しかし、だからといって何でも知りたがっていいわけではない。彼らには彼らの領域がある。自分には、自分のそれがあるように。

「こういう考え方が、冷たいって言われるんだろうか」
 つい先日、同僚だと思っていた女性に告白され、断ったときにそう言われた。他人と距離を置きすぎて冷たい、と。

「近づくには、踏み込むには、それなりの覚悟が要る」
 拒絶される覚悟、そして相手にも踏み込まれる覚悟。それが持てないままでは、人と本当に近づくことなんてできない。

「“好き”っていう感情だけじゃ、俺は人に近づけない」
 つぶやきは、誰に聞かせるでもなく風に溶ける。
 口数の少ない奏太は、こうして心の中を声にする癖があった。
 昔は――短距離走の選手だった頃は、走ることで気持ちを消化していた。
 今はその言葉を聞いて欲しい、届けたい相手が一人いる。
 だが、まだその覚悟が固まりきっていない。勇気が足りない。

「次に会うときには──」
 もう少し、踏み込む努力を。近付く勇気を――。

「持てる自分でありたい」
 そう胸に誓いながら、奏太は深く呼吸をして、夕暮れの空を見上げた。


 人はそれぞれ、自分だけの言葉で、愛を伝えようとする。
 ある者はまっすぐに目を見つめ、またある者は、切々と声に出して。
 それは、ひとつとして同じもののない、求愛の作法なのかもしれない。
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