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アネモネ

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「美陽、見て?綺麗なアネモネ」

 美月の目線の先、病院の花壇には、赤、白、青と色とりどりのアネモネが咲き誇っていた。

 その愛らしさに、一縷の救いを見出した美月であったが、肝心の美陽は車椅子の上で、空の向こうを眺めているばかりだった。

「美陽?」と不安そうに妹の名前を呼ぶ。
「あ、え?なに?」
「なにって…。アネモネ、綺麗だよ」
「あぁ、本当。そっか、春だもんね」

 何事もなかったかのように会話を続ける美陽だったが、美月は、そんな彼女の様子に顔を曇らせた。

 日が経つにつれて、美陽がぼうっとしている時間が増えた。

 単純に眠いのか、体力が尽きかけてしまっているのかは分からない。
 それを尋ねる勇気も、今の美月にはなかった。

 もしも、後者だったら…。いや、彼女が何と答えたとしても、無理をしているのではないかと、どのみち落ち着かないに決まっている。

 美月は、美陽が自分の問いかけに答えなくなる、そんないつかに想いを巡らせ、身震いする日々を重ねてきた。

 そして、それがいよいよ間近に迫って来ているような気がして、毎日、血の気の引くような恐怖に襲われているのだ。

 それを表に出さないよう、努めて明るい声で告げる。

「花、好きだったよね?」

「うん。特に春の花は好き」

 何となく、彼女がそう言う理由は想像できた。
 だって、春は…。

「だって、私たちの生まれた季節の花だから」美陽が、こちらの頭の中をトレースしたみたいに言う。

 満開の桜のような笑顔を美月に向けた彼女が、とても愛おしく思える。

 双子だから、不思議なテレパシーがある、とは言わないものの、自分を構築している遺伝子が丸々同じだというのは、並の関係ではない。

 そればかりか、小さい頃からべったりだった二人は、同じものを見て、聞いて、感じて、学んで生きてきた。

 少なからず、通じるものがあるほうが自然と言えるだろう。

 多少は明るい話題になった、と美月が安心したのも束の間、美陽が姉の想いを無視するような発言をこぼした。

「死ぬなら、春がいいなぁ…」

 冗談でも、言って良いことと悪いことがある。
 美月は車椅子の背もたれに力なくもたれかかり、見えもしない塀の向こうを眺めていた。

 美月は体を前のめりにして、どこか虚ろ気な瞳を、おそるおそる覗き込んだ。

「美陽…」

「あ、あぁ、ごめん。冗談だよ、冗談」

 はっと我に返った様子で答えた美陽は、誤魔化すように話題を素早く変える。

「ねぇ、美月、覚えてる?小さい頃に行った、大きな桜の木がある湖のこと」

「ええ、もちろん。今じゃダムになってるんですってね」

「えー、そうなのぉ?なんかショック」

 変わらずにはいられないものね、と口にしかけて、慌てて口をつぐむ。

 それを認めるのは、現状、最もつらいことだった。

 湖の周りをダムで囲い、水をコントロールするように。
 自分の心も、コンクリートで覆うことが出来ればいい。

 そう、美月は思った。

 何か喋っていないと、余計なことを考えてしまいそうで、恐ろしかった。しかし、無理やり口を開こうとしても、言葉は現れない。

 病院の中庭では、美月と美陽以外にも、何名かの患者と介護者がいた。看護師も数名いる。

 ほとんどが年老いた患者であったが、中には、美陽よりも幼い子どももいる。

 一人の女の子が、花壇のアネモネに手を伸ばし、車椅子から落ちかけていた。看護師は、それを慌てて止め、優しく叱りながらも、ハンドルを押して女児を花に近づけてやっていた。

「わぁ、きれぇ!」女の子がはしゃぐ。まだ、小学校低学年ぐらいだろうか。

 看護師は、女の子に対して慈悲深い笑みを向けていた。
 美しい一枚絵になるかもしれない光景だが、美月には、そしてきっと、美陽にも、全く違うものに見えていた。

 あの尊い優しさは、きっと少女に終わりが近いことを示している。
 儚い運命の元に生まれついた少女へ、せめてもの幸せを与えようとしている。

 二人には、そう見えた。
 だからだろう、彼女らはどちらからともなく視線を交わし、車椅子を押して少女に近付いた。

 少女よりも先に、看護師がこちらに気づく。一瞬だけ複雑そうな顔を浮かべた彼女は、慌てて美しい笑顔を繕う。

 ぺこり、と二人で頭を下げる。
 振り向いた少女に、美陽が声をかけた。

「こんにちは、お嬢ちゃん」

 柔らかいトーンだが、少女はきょとんとした顔だ。

 もう一度、小首を傾げて美陽が挨拶をした。それでも、少女にあまり変化はない。
 すると、少女はその丸々とした瞳を上に向けて、車椅子のハンドルを握っていた美月を見つめた。

「え」と声が漏れた。

「『え』、じゃないよ。美月、ちゃんと挨拶しなきゃ駄目じゃん」

「あ、うん…」情けない。もう二十歳なのに、双子とはいえ妹に叱られた。しかも、常識的なことで。「こ、こんにちは…」

 じっ、と二人を見ている。悪意も恐怖も感じられない、純な眼差しだが、逆にそれが不安を煽る。

 あまりに気まずい沈黙に、看護師が口を開きかけたそのとき、少女がようやく声を発した。

「おんなじだ!」

 爛々と目を輝かせ、口を大きく開けた少女が、指先を美月と美陽に向ける。その発言で、なぜ少女がきょとんとしていたのかが分かった。

 人を指差すのはいけない、と看護師が咎める。しかし、少女はまるで話を聞かず、「私、知ってるよ!コピーっていうんでしょ」と見当違いなことを言った。

 こればかりは看護師も、失礼な発言だと厳しく少女を叱った。だが、当の本人たちが気にしていない様子で笑うので、彼女は少し安心したように微笑んだ。

「すいません、失礼なことを…」

「いえいえ、気にしないでください。私たちは慣れてますから」元気よくそう告げた美陽が、くるりと美月を振り返って尋ねる。「ね、美月?」

 こくりと頷く。
 美陽の眩しい笑顔に、美月も口元を綻ばせ、答えた。

「ええ、もちろん。むしろ私は、美陽のコピーと思われて嬉しいわ」

 少女のほうを見ながら、少し体を折り曲げる。

「え」と美陽が低く呟く。「え?どうしたの?」

「いやぁ、ちょっと…」

「ちょっと、何?気になるじゃない」

「んー、美月、怒るか、いじけるかするから言いたくない」

「し、しないから。ほら、言ってちょうだい」

「ほんとぉ?」と美陽は目を細め、苦い顔つきになる。

 昔と変わらない表情に、苦悩の日々を忘れることが出来ていた二人だったが、少女のことも、看護師のことも同時に忘れてしまっていた。

 美陽は目線を美月から逸らしつつ、先ほどよりも明らかに言いづらそうに声をひそめ、低く告げる。

「『コピーと思われて嬉しい』って…。ちょっと、キモい」

「き、キモっ…」

 美陽の口から自分を否定するような、しかも、二人のつながりを無下にするような言葉が告げられ、美月はショックのあまり声を途切れさせた。

 それから、少しずつ何を言われたのか理解すると、頬を膨らませ、「うぅ」と唸りながら、自身の半身を睨みつける。

 迫力に欠け、今や失いつつある幼さを全面に出した行動と表情であったものの、じんわりと涙を浮かべた様子に、美陽が慌てて先刻の言葉を濁す。

「ち、違うんだよ?嫌とかじゃなくてね、うぅん、なんというか…。怖い?」
「うぅ、美陽…!」
「あ、ああ、えっと、違くてさ、んー…、そう、そう!重い!メンヘラ?ヤンデレ?みたいだよ」

 何のフォローにもなっていない言葉に、美月はがくりと肩を落とした。それから、ややあって、車椅子から少し離れると、近くのベンチに腰を下ろして、両手で顔を覆った。

 やばい、と思い美陽が声をかけるも、彼女は、「放っておいて!」と喚くばかりだ。

「やっぱり、いじけるじゃん…」美月のほうから、看護師のほうへと視線を移す。「ごめんなさい、美月、頭良いんだけど、ちょっと、その、ヤバい奴なの」

 苦笑いする看護師の後方から、「ヤバくない!」と怒りの声が聞こえる。

 美陽は美月を無視することを決めると、少女のほうに近づいた。まだ、車椅子を自分で動かすくらいの力ならある。

「私は、双葉美陽」すっと手を差し出す。握手を求めているのだろう。「お嬢ちゃんは?」

 それを指の隙間から見ていた美月は、自分とは似ても似つかぬコミュニケーション力に、やや後ろ向きな気持ちになった。

 名前通り、美陽は太陽の光を十分に浴びて育ったような快活な女性だった。表舞台で踊ることが大好きで、みんなの注目の的だった。

 対照的に、美月は月の光を浴びて生きてきたような女性だった。
 陰陰滅滅いんいんめつめつとしていて、舞台裏でこそこそと作業をしているほうが、落ち着くようなタイプの人間だ。

 どうして、私ではないのだろう。

 美陽の病気が発覚してから、ずっと美月が繰り返してきた問いだった。
 今でも時折、何かの間違いでは、と聞きたくなる。
 自分が薄命で、彼女が見送る側だったならば、どんなに納得出来たことだろう。

 美陽は、少女と自己紹介を済ませたようで、小さな手としっかりとした握手を交わしていた。どちらの手も、細く、白いのが印象的だ。

 それから、数分の間、彼女らは立ち話をしていた。いや、座り話か。まあ、そんなことは重要じゃない。

 やがて、看護師が軽く頭を下げて、少女の車椅子を押した。
 元気に、こちらにまで手を振る少女へ向けて、小さく美月は手を振り返した。

 本当に、どうして彼女たちなのだろうか。

 いや、死神も避けて通るか、と浅く美月は嗤う。

 私のように、じゅくじゅくと膿んだ魂の持ち主は。

 自分の座っていたベンチのほうへ、美陽が車椅子の車輪を回転させながら寄って来る。

香奈かなちゃんっていうんだって、あの子」

「…そう。人付き合いが上手ね、本当」

 ふ、と美陽が笑う。

「美月は相変わらず、人付き合いが苦手だね」

「しょうがないじゃない。初対面は緊張するの」

「意地張っちゃって。初対面じゃなくても、緊張してるくせに」

 ムッと、美陽の顔を睨みつけるも、彼女はからかうように口元を歪めるばかりだ。

 確かに、幼少の頃から美月は、美陽の後ろに隠れて過ごすような少女だった。口下手な一方で、依存的な傾向のある美月は、人付き合いの多くを投げ出して、美陽のそばから離れなかった。

 友人もほとんどいなかったし、必要に迫られるような人間関係については、その多くの場合で美陽の支えを必要とした。

 しかし、彼女がそうなった大きな原因は、美陽にあったと言っても差し支えないだろう。

 双葉美陽は、あまりにも眩しすぎた。
 人間的な魅力にあふれて、容姿にも恵まれていたほうだった。

 もちろん、容姿に関しては、双子の美月も劣らなかったし、スタイルに関しては彼女のほうが優れていた。しかしながら、なにぶん、人付き合いを拒み過ぎたのだ。

 彼女の儚げで、奥ゆかしくも、一途という魅力を知る者は、妹の美陽を除いてほとんど誰もいなかった。

 月が、太陽の光に遮られて見えなくなるように。
 美陽の存在が、美月の存在を覆い隠してしまっていたのだ。

 しかし、だからといって美陽がこの世を去れば、美月が輝けるわけではない。

 月は、陽光を失えば輝けない。
 虚無の夜闇だけが、月を包む。

 それを考えれば、美月が、美陽の死期が迫っているのを極端に恐れるのも頷ける。

 美陽が、美月の手をおもむろに握った。

 急にどうしたのか、と美月は怪訝に思ったが、彼女の瞳がシリアスな光に埋もれていたことで、不安になった。

「しっかりしてよ、お姉ちゃん」

 美陽がそう呼ぶときは、大抵ろくなことではない。

 いたずらを仕掛けて来るか、言いづらいことがあるか。

「私がいなくなったら、そういうのも一人でしなきゃいけないんだよ?」

「…っ」

 美陽がいなくなったら、なんて、想像したくもない。

 そんな日、来なくていい。
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