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プロローグ
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「…妃殿下。きちんとお召し上がりください」
「ごめんなさい、もう入らないの。せっかく作っていただいているのに、本当にごめんなさい」
ふぅ、とため息を付くと、侍女長は王太子妃の食器を片付け始めた。申し訳程度に口をつけられたのはスープのみで、他のものはまったく口にしていない。
「体調がお悪いのでしたら医官の診察を受けてください、このままでは倒れてしまいます」
「大丈夫よ。私がいなくなったところで何も変わらないわ」
珍しく感情を顕にする王太子妃に目を向けた侍女長は、「妃殿下」と呼び掛けた。
「貴女様は、王太子妃殿下なのですよ。何も変わらないなど、」
「ごめんなさい、もう執務室に戻ります」
またいつもの無表情に戻ってしまった王太子妃は、椅子から立ち上がった拍子にフラリと身を揺らした。慌てて支えたそのカラダの予想以上の細さに侍女長はギクリとする。元々確かに細い方だった、だけどこれは、
「…ありがとうございます」
目を伏せたままフラフラとドアから出て行く王太子妃を見送った侍女長は、彼女とは反対側に向かい歩を進めた。
「王太子殿下にお取り次ぎを」
執務室の前に立つ近衛に声を掛けると、少しして「入れ」と声がした。
「失礼いたします、殿下」
「どうした?」
書類から顔を上げ侍女長を見る王太子に、
「妃殿下をこのままにされるおつもりですか」
その言葉にピクリ、と眉を動かしながらも顔を歪めることなく張り付けた笑顔を向けた王太子は、
「妃がどうかしたか?」
「もう2週間、まともにお食事をなさいません」
「…なんだと?」
立ち上がると同時にその恵まれた体躯から威圧が洩れ出し、訓練されている侍女長も思わず怯むほどになる。
「そんな報告は受けていないぞ。何があった、医官には診せたのか」
「妃殿下が頑なに拒否されておりまして」
「…いい。俺が行く」
そのまま大股でドアから出ていこうとする王太子を、しかし側近のひとりが止める。
「今までろくに会話もしていない貴方が行ってどうするつもりです?」
「…もういいだろ、もう十分じゃないのか」
「まだです。…」
そのあとは、ボソボソとした声で聞き取れず、しかし王太子はイヤそうに顔を歪めた。
「…ならおまえがなんとかしろ!」
「私は貴方の側近なんですよ。私が行くのだっておかしいでしょう」
「じゃあどうしろというんだ!」
側近は、チラリと侍女長を見るとスイッとドアに目を向けた。「出て行け」ということだろう、侍女長は一礼し執務室を後にした。
あんなに激昂する王太子殿下は久しぶりに見た。いつもは冷静沈着で、何事にも動じることなくただ黙々と国のために務めていらっしゃる。あんな大声を聞いたのは、いつ以来だろう?確か…
しかし、配下の侍女に声をかけられ侍女長の思考はそこで中断された。
そしてその夜、王太子妃が亡くなった。風呂場に服を着たまま倒れていた彼女の手首には、真っ赤な傷がパックリと口を開けていた。執務室の机には、遺書が残されていた。一通は、国王並びに王妃へ。一通は、王太子妃の実家の父母へ。一通は、妃殿下付きの侍女長をはじめとする自分を世話してくれた者たちへ。すべてに書かれていたのは、感謝の言葉と至らなかった自分への悔恨と、弱い心に打ち勝てず先立つ不幸を赦して欲しいという望みであり、夫である王太子には触れることも、遺書も残されていなかった。
彼女の亡骸を抱きしめて、王太子は慟哭した。そのあまりの痛々しさに周りも涙を誘われたが、その日から王太子の様子がおかしくなった。妃の亡骸から離れず、執務中でもなんでも、亡骸を抱いたまま過ごし、亡くなっているというのに朗らかな笑顔で嬉々として話し掛ける。相づちなど戻るわけもないのに、「セシリアは恥ずかしがりだからすぐには答えられないんだな」などと額に口づけたりする。
その鬼気迫る様子に周囲が危機感を覚えた頃、…妃殿下の死から一週間が経ったその日、ひとつの子爵家が取り潰しとなった。子爵夫妻は犯罪奴隷として南方の国に売られたが、その娘は同日、町のはずれで苦悶の表情を浮かべた遺体で発見された。顔にはかすり傷ひとつついていなかったが、首から下はめちゃくちゃにされていた。手の指はすべて切り落とされ、着ている質のよさそうなドレスは腹を中心に真っ赤に染め上げられていた。辛うじて残る裾から、元は白いドレスだったのだと判るほど、すべてが真っ赤だった。娘の隣で一緒に死んでいた男は、顔かたちが判らないほどぐちゃぐちゃに顔を潰されており、頭皮が剥がされ髪の毛一本探すことができなかった、ただその堂々と鍛え上げられた体躯から騎士ではないかとまことしやかな噂が流れた。
明らかに誰かに殺されたであろうその二人のカラダは、背中合わせに首の下から足首までまるで罪人のようにぎっちりと鎖で縛り上げられていた。実行者の隠すつもりのない憎悪を体現するようなその様子に人々は恐怖し、それからしばらくの間、街はひっそりとしていたという。特に夜間は、外に出る者はほぼいない日が続いた。
おぞましい一組の遺体が見つかったその翌日。妃殿下の亡骸と共に王太子が断崖から身を投げた。「セシリアに海を見せてやりたい」と妃殿下の亡骸を抱き上げて散策する王太子に、掛ける言葉すらなく見守る護衛の騎士たちを振り向き、「赦せよ」と短く告げた後、手を伸ばす暇も与えず吸い込まれるように海に消えた。振り向いたその顔は、実に晴れ晴れとしていたという。
ふたりの亡骸は、未だ見つかっていない。
「ごめんなさい、もう入らないの。せっかく作っていただいているのに、本当にごめんなさい」
ふぅ、とため息を付くと、侍女長は王太子妃の食器を片付け始めた。申し訳程度に口をつけられたのはスープのみで、他のものはまったく口にしていない。
「体調がお悪いのでしたら医官の診察を受けてください、このままでは倒れてしまいます」
「大丈夫よ。私がいなくなったところで何も変わらないわ」
珍しく感情を顕にする王太子妃に目を向けた侍女長は、「妃殿下」と呼び掛けた。
「貴女様は、王太子妃殿下なのですよ。何も変わらないなど、」
「ごめんなさい、もう執務室に戻ります」
またいつもの無表情に戻ってしまった王太子妃は、椅子から立ち上がった拍子にフラリと身を揺らした。慌てて支えたそのカラダの予想以上の細さに侍女長はギクリとする。元々確かに細い方だった、だけどこれは、
「…ありがとうございます」
目を伏せたままフラフラとドアから出て行く王太子妃を見送った侍女長は、彼女とは反対側に向かい歩を進めた。
「王太子殿下にお取り次ぎを」
執務室の前に立つ近衛に声を掛けると、少しして「入れ」と声がした。
「失礼いたします、殿下」
「どうした?」
書類から顔を上げ侍女長を見る王太子に、
「妃殿下をこのままにされるおつもりですか」
その言葉にピクリ、と眉を動かしながらも顔を歪めることなく張り付けた笑顔を向けた王太子は、
「妃がどうかしたか?」
「もう2週間、まともにお食事をなさいません」
「…なんだと?」
立ち上がると同時にその恵まれた体躯から威圧が洩れ出し、訓練されている侍女長も思わず怯むほどになる。
「そんな報告は受けていないぞ。何があった、医官には診せたのか」
「妃殿下が頑なに拒否されておりまして」
「…いい。俺が行く」
そのまま大股でドアから出ていこうとする王太子を、しかし側近のひとりが止める。
「今までろくに会話もしていない貴方が行ってどうするつもりです?」
「…もういいだろ、もう十分じゃないのか」
「まだです。…」
そのあとは、ボソボソとした声で聞き取れず、しかし王太子はイヤそうに顔を歪めた。
「…ならおまえがなんとかしろ!」
「私は貴方の側近なんですよ。私が行くのだっておかしいでしょう」
「じゃあどうしろというんだ!」
側近は、チラリと侍女長を見るとスイッとドアに目を向けた。「出て行け」ということだろう、侍女長は一礼し執務室を後にした。
あんなに激昂する王太子殿下は久しぶりに見た。いつもは冷静沈着で、何事にも動じることなくただ黙々と国のために務めていらっしゃる。あんな大声を聞いたのは、いつ以来だろう?確か…
しかし、配下の侍女に声をかけられ侍女長の思考はそこで中断された。
そしてその夜、王太子妃が亡くなった。風呂場に服を着たまま倒れていた彼女の手首には、真っ赤な傷がパックリと口を開けていた。執務室の机には、遺書が残されていた。一通は、国王並びに王妃へ。一通は、王太子妃の実家の父母へ。一通は、妃殿下付きの侍女長をはじめとする自分を世話してくれた者たちへ。すべてに書かれていたのは、感謝の言葉と至らなかった自分への悔恨と、弱い心に打ち勝てず先立つ不幸を赦して欲しいという望みであり、夫である王太子には触れることも、遺書も残されていなかった。
彼女の亡骸を抱きしめて、王太子は慟哭した。そのあまりの痛々しさに周りも涙を誘われたが、その日から王太子の様子がおかしくなった。妃の亡骸から離れず、執務中でもなんでも、亡骸を抱いたまま過ごし、亡くなっているというのに朗らかな笑顔で嬉々として話し掛ける。相づちなど戻るわけもないのに、「セシリアは恥ずかしがりだからすぐには答えられないんだな」などと額に口づけたりする。
その鬼気迫る様子に周囲が危機感を覚えた頃、…妃殿下の死から一週間が経ったその日、ひとつの子爵家が取り潰しとなった。子爵夫妻は犯罪奴隷として南方の国に売られたが、その娘は同日、町のはずれで苦悶の表情を浮かべた遺体で発見された。顔にはかすり傷ひとつついていなかったが、首から下はめちゃくちゃにされていた。手の指はすべて切り落とされ、着ている質のよさそうなドレスは腹を中心に真っ赤に染め上げられていた。辛うじて残る裾から、元は白いドレスだったのだと判るほど、すべてが真っ赤だった。娘の隣で一緒に死んでいた男は、顔かたちが判らないほどぐちゃぐちゃに顔を潰されており、頭皮が剥がされ髪の毛一本探すことができなかった、ただその堂々と鍛え上げられた体躯から騎士ではないかとまことしやかな噂が流れた。
明らかに誰かに殺されたであろうその二人のカラダは、背中合わせに首の下から足首までまるで罪人のようにぎっちりと鎖で縛り上げられていた。実行者の隠すつもりのない憎悪を体現するようなその様子に人々は恐怖し、それからしばらくの間、街はひっそりとしていたという。特に夜間は、外に出る者はほぼいない日が続いた。
おぞましい一組の遺体が見つかったその翌日。妃殿下の亡骸と共に王太子が断崖から身を投げた。「セシリアに海を見せてやりたい」と妃殿下の亡骸を抱き上げて散策する王太子に、掛ける言葉すらなく見守る護衛の騎士たちを振り向き、「赦せよ」と短く告げた後、手を伸ばす暇も与えず吸い込まれるように海に消えた。振り向いたその顔は、実に晴れ晴れとしていたという。
ふたりの亡骸は、未だ見つかっていない。
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