この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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静かな噂

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美術商が開いた小さな展覧会。
経済界や文化人が集まり、絵画の前で語らい合う、上品な社交の場。

そんな穏やかな空間で、唐突に“あの名前”が耳に届いた。


「そういえば榊社長、また銀座で噂になってるそうですね」

声をかけてきたのは、取引先の常務。
人の話を肴にするような男ではないが、口調には少し興味が滲んでいた。藤原は、眉を上げるだけで返した。興味がない風を装うのは、もう慣れた所作だ。

「お相手、あの和装美人の“葵ママ”とか。派手な仲直りをしたそうで――」
「仲直り?」
「ええ、交差点でキスですよ。しかも榊社長の新車の助手席に乗せてたそうで……銀座のママたちの間じゃ、もう公然の秘密ですわ」

常務は軽い冗談のように笑い、ワイングラスを傾けた。
藤原は、視線を絵画に戻す。
描かれていたのは、夜明け前の街並み――まだ明るくも暗くもない、曖昧な色の時間。

「……あの方らしいです」

静かに呟くと、常務は羨ましそうに頷いた。
「妬み半分、羨望半分で……榊社長の話題で持ちきりらしいですよ。まぁ、あれだけの男ですから。放っておく女はいませんよ」
「そうでしょうね」
会話を終わらせるように、藤原は腕時計に目をやった。胸の奥には冷たい痛みが広がる。


困った方ですね、社長……。

菫と、ようやく心を通わせたと聞いたのは、ついこの前のことだ。
あれほど頑なで、誰の手も届かなかった彼が心許し、人を愛するようになった――。
その知らせを聞いたとき、藤原は心底安堵した。凍りついていた雪が、春の陽を浴びたように思えたから。

それなのに――また夜の街へ。
孤独を埋めるように、他の女を抱いている。まるでそれしか、心を確かめる術を知らないかのように。

――彼は、愛されることを信じられないのだ。

銀座という街は、メディアも踏み込まない。
誰も傷つかないように装って、覆い隠すのが上手い。だからこそ、宏雅はあの場所を選んだ。
菫の耳に届かない“安全な背徳”。


藤原はゆっくりと眼鏡を外し、眉間を押さえた。灯りが少し滲んで見えた。
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