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二章
邂逅
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~現在~
■料亭・水鶴
古い香木の匂いが、やけに強く感じた。
牡丹の間――昔から、父が好んで使っている部屋だ。低い卓の上に積まれた、立派な釣書の数々。良家の娘たちの名が、整然と並んでいる。
……俺の見合い相手、ってわけか。
馬鹿らしい、と思った。
東堂が隅に控え、父は煙草をくゆらせながら、視線も上げずに言った。
「榊家は、お前しか残っていない。見合いをして、子を産める女を選べ」
淡々とした口調の奥に、圧力がある。まるで、もう決まっていることを告げるようだった。宏雅は、静かに笑ってみせた。
「……もう一人、いるだろ。血縁者が」
異母弟を指しての言葉だった。
あいつは、榊家とは距離を置き、幸せにやっている。榊財閥の助けを借りず、自分で掴み取った仕事も順調だと聞いた。
それをわざわざ口にするのは、ただ父を苛立たせたいだけだった。案の定、父は吐き捨てるように言った。
「毛色の違う者など、家を継げるわけがない」
冷たい言葉。
異母弟の母親――若くして亡くなった不倫相手を、父は特別視していた。それでも、その子を“毛色の違う者”と呼ぶ。宏雅は、ふと目を眇めた。
「……彼の母親こそが、あなたの本当に愛した人なのに?」
その瞬間、空気がぴしりと張りつめた。香木の匂いが、急に息苦しくなる。榊家本邸の冷えた雰囲気――その理由の一端が、確かにそこにあった。
「死んだ者を想い続けても、何もならない」
父の声は震えていた。
そして、まるで自分に言い聞かせるように――
「宏雅、お前は生きているんだ!」
机が鳴るほどの怒声。
あの父が、声を荒げるなんて、いつ以来だろう。
――そうだ。
この人も、かつて愛した人を失った。俺と同じように、世界の色を失って。だから、怒鳴ってでも「生きろ」と言いたいのかもしれない。
けれど。
……生きてる?俺が?
妻子を失ってから、呼吸の仕方すら分からなくなったのに。
朝が来ても、夜が来ても、味気ない。
仕事をして、人と笑っても、全部どこか遠い。
全てが、薄い膜の向こう……朧げになったみたいだ。
それを、生きているって言うのだろうか。
「聞いているのか!」
低い怒鳴り声が、また空気を裂いた。
宏雅は、ゆっくりと顔を上げた。息が震える。
「……俺は、生きてるけど、死んでるんだ……っ……」
悲痛な声が、勝手に出た。
気づけば、涙のような熱が喉を焼いていた。
次の瞬間。
――バシャッと冷たい水が、顔に叩きつけられた。氷の欠片が畳に散る。グラスが父の手から滑り落ち、カランと転がる音が牡丹の間に、乾いた余韻を残した。
「目を覚ませ」
叱責する声。
それでも俺は動けなかった。
冷たさが頬を伝い、手の甲に雫が落ちる。拭おうともしないまま、ただぼんやりと畳を見つめた。
……生きて、何になるんだ。
東堂が立ち上がり、静かに部屋を出ていく。襖が閉まる音がして、また静寂が戻る。冷えた空気の中、香炉から昇るうっすらとした煙だけが、ゆらゆらと揺れていた。
俺は、濡れたままの顔で、ただそれを見ていた。
廊下の向こうから、しっとりした女の声が聞こえた。よく通る、けれど決して大きくはない声。
「かしこまりました。おしぼりとタオル、すぐ持ってきておくれやす」
その柔らかい調子に、なぜか胸の奥がざわついた。
あの声、どこかで……。
……いや、そんなはずはない。
そう思いながらも、視線は自然と襖の方を向いていた。
やがて、すっと襖が開く。
白い襟元、整った所作。正座して一礼し、顔を上げたその女性――その瞬間、息が止まった。
葵、だった。
「先に車に行く」
父が、短く言い捨てて出て行く音を、ただ黙って感じていた。濡れた髪から滴る水が、ぽたりと畳に落ちて広がる。首筋に冷たいものが伝っていく。
そんな中で、ふと柔らかい声が降ってきた。
「……これ、使うてください」
その言葉に、思わず体が硬直した。
顔を上げる。
そこにいたのは、確かに、葵だった。
信じられないというより――夢の続きを見ているような、遠い感覚。
言葉が出なかった。
「宏雅様。こちら、一旦私がお預かりしておきます」
東堂の静かな声が響く……“宏雅様”。
もう葵の前では、俺も“ただの男”ではいられない。そう思い知らされる響きだった。
「ああ」
短く答えて、視線を逸らす。
逸らさなければ、心の底が見透かされそうだったから。彼女の瞳が、今にもあの頃の葵と重なりそうで、怖かった。
外に出ると風が少し冷たかった。濡れた髪が風に揺れ、首筋に触れる。
「乗っていかれますか?」
東堂が聞いてきた。
「いや、タクシーを呼ぶから」
そう言いながら、無意識に振り返った。
店の入り口。灯に照らされて立つ葵の姿が、一瞬見えた。懐かしい輪郭。けれど、彼女も昔とは違う姿。もう俺が、触れてはいけない世界の人だ。
「……お知り合いで?」
東堂が低く問う。
「昔」
それだけ答えて、背を向けた。
黒塗りの車が去った後も、料亭の灯りが、いつまでも背中を照らしていた。
まるで、帰る場所を思い出せとでも言うように。
■料亭・水鶴
古い香木の匂いが、やけに強く感じた。
牡丹の間――昔から、父が好んで使っている部屋だ。低い卓の上に積まれた、立派な釣書の数々。良家の娘たちの名が、整然と並んでいる。
……俺の見合い相手、ってわけか。
馬鹿らしい、と思った。
東堂が隅に控え、父は煙草をくゆらせながら、視線も上げずに言った。
「榊家は、お前しか残っていない。見合いをして、子を産める女を選べ」
淡々とした口調の奥に、圧力がある。まるで、もう決まっていることを告げるようだった。宏雅は、静かに笑ってみせた。
「……もう一人、いるだろ。血縁者が」
異母弟を指しての言葉だった。
あいつは、榊家とは距離を置き、幸せにやっている。榊財閥の助けを借りず、自分で掴み取った仕事も順調だと聞いた。
それをわざわざ口にするのは、ただ父を苛立たせたいだけだった。案の定、父は吐き捨てるように言った。
「毛色の違う者など、家を継げるわけがない」
冷たい言葉。
異母弟の母親――若くして亡くなった不倫相手を、父は特別視していた。それでも、その子を“毛色の違う者”と呼ぶ。宏雅は、ふと目を眇めた。
「……彼の母親こそが、あなたの本当に愛した人なのに?」
その瞬間、空気がぴしりと張りつめた。香木の匂いが、急に息苦しくなる。榊家本邸の冷えた雰囲気――その理由の一端が、確かにそこにあった。
「死んだ者を想い続けても、何もならない」
父の声は震えていた。
そして、まるで自分に言い聞かせるように――
「宏雅、お前は生きているんだ!」
机が鳴るほどの怒声。
あの父が、声を荒げるなんて、いつ以来だろう。
――そうだ。
この人も、かつて愛した人を失った。俺と同じように、世界の色を失って。だから、怒鳴ってでも「生きろ」と言いたいのかもしれない。
けれど。
……生きてる?俺が?
妻子を失ってから、呼吸の仕方すら分からなくなったのに。
朝が来ても、夜が来ても、味気ない。
仕事をして、人と笑っても、全部どこか遠い。
全てが、薄い膜の向こう……朧げになったみたいだ。
それを、生きているって言うのだろうか。
「聞いているのか!」
低い怒鳴り声が、また空気を裂いた。
宏雅は、ゆっくりと顔を上げた。息が震える。
「……俺は、生きてるけど、死んでるんだ……っ……」
悲痛な声が、勝手に出た。
気づけば、涙のような熱が喉を焼いていた。
次の瞬間。
――バシャッと冷たい水が、顔に叩きつけられた。氷の欠片が畳に散る。グラスが父の手から滑り落ち、カランと転がる音が牡丹の間に、乾いた余韻を残した。
「目を覚ませ」
叱責する声。
それでも俺は動けなかった。
冷たさが頬を伝い、手の甲に雫が落ちる。拭おうともしないまま、ただぼんやりと畳を見つめた。
……生きて、何になるんだ。
東堂が立ち上がり、静かに部屋を出ていく。襖が閉まる音がして、また静寂が戻る。冷えた空気の中、香炉から昇るうっすらとした煙だけが、ゆらゆらと揺れていた。
俺は、濡れたままの顔で、ただそれを見ていた。
廊下の向こうから、しっとりした女の声が聞こえた。よく通る、けれど決して大きくはない声。
「かしこまりました。おしぼりとタオル、すぐ持ってきておくれやす」
その柔らかい調子に、なぜか胸の奥がざわついた。
あの声、どこかで……。
……いや、そんなはずはない。
そう思いながらも、視線は自然と襖の方を向いていた。
やがて、すっと襖が開く。
白い襟元、整った所作。正座して一礼し、顔を上げたその女性――その瞬間、息が止まった。
葵、だった。
「先に車に行く」
父が、短く言い捨てて出て行く音を、ただ黙って感じていた。濡れた髪から滴る水が、ぽたりと畳に落ちて広がる。首筋に冷たいものが伝っていく。
そんな中で、ふと柔らかい声が降ってきた。
「……これ、使うてください」
その言葉に、思わず体が硬直した。
顔を上げる。
そこにいたのは、確かに、葵だった。
信じられないというより――夢の続きを見ているような、遠い感覚。
言葉が出なかった。
「宏雅様。こちら、一旦私がお預かりしておきます」
東堂の静かな声が響く……“宏雅様”。
もう葵の前では、俺も“ただの男”ではいられない。そう思い知らされる響きだった。
「ああ」
短く答えて、視線を逸らす。
逸らさなければ、心の底が見透かされそうだったから。彼女の瞳が、今にもあの頃の葵と重なりそうで、怖かった。
外に出ると風が少し冷たかった。濡れた髪が風に揺れ、首筋に触れる。
「乗っていかれますか?」
東堂が聞いてきた。
「いや、タクシーを呼ぶから」
そう言いながら、無意識に振り返った。
店の入り口。灯に照らされて立つ葵の姿が、一瞬見えた。懐かしい輪郭。けれど、彼女も昔とは違う姿。もう俺が、触れてはいけない世界の人だ。
「……お知り合いで?」
東堂が低く問う。
「昔」
それだけ答えて、背を向けた。
黒塗りの車が去った後も、料亭の灯りが、いつまでも背中を照らしていた。
まるで、帰る場所を思い出せとでも言うように。
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