この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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鼓動

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「くらくらする」

楽しそうに言う声がした。
ベッドに腰掛けた宏雅は、頬が赤くなり瞳の焦点も甘く揺れている。

「飲みすぎやわ」
呆れ声で言ったが、心は落ち着かなくて……。
何があったんやろ。いつもの彼と違う。この人が、こんな風にひどく酔うなんて、よっぽどのことがあったに違いない。

よその店の黒服から電話がかかってきたのは、一時間ほど前のことだった。

『……葵ママ。榊社長といるんですけど……迎えに来れますか?』
小声で困ったように、そう聞かれた。
『何言うてんの。まだうちは仕事中やし、同じ銀座やろ?うちの店に来るよう伝えといて』
苛立ちを隠しきれず、少し強い口調になった。電話を切ろうとした瞬間、黒服が困ったように言い淀む気配がした。その向こうで――。
『……葵?』
掠れたような声。少し呂律のまわらない、でも、どうしようもなく胸に触れる声だった。
『あのねえ、榊さん――』
そう言いかけた葵の耳に、静かに落ちてきた言葉。

『会いたい』

……その一言で、心が決まってしまった。
気づいたら、携帯だけを握りしめて、店を飛び出していた。
夜風が頬を撫でる。焦るように小走りで歩いて、そして人通りの少ない裏道。薄暗い街灯の下、階段に腰かけた彼が、葵を見て子供みたいな顔で笑った。その隣に立っていた黒服が、ほっとしたように頭を下げた。
葵は駆け寄り、何も言えずにただ見つめる。乱れた髪。緩んだネクタイ。どんなに取り繕っても、今夜の彼には隠せない痛みがあった。
『どうしたん?』その言葉は喉の奥で溶けて、声にならなかった。何も聞かずに、ただそっと手を差し伸べる。

『帰ろ……うちと一緒に』
指先が触れた瞬間、宏雅がその手をぎゅっと握りしめた。立ち上がると同時に、ふわりと抱きしめられる。
『来てくれたんだな』
嬉しそうに、けれど切なげに笑う。その笑顔が儚すぎて、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
『葵』
耳元で名前を呼ばれた。宏雅の声が、あまりにも優しくて。涙が出そうになって、葵は小さく笑った。
『そんな声で呼ばんといて……泣いてまうやないの』
彼の腕の中で、夜の銀座が静かに遠のいていった。そのまま、宏雅の体を支えるようにして歩いた。夜風が冷たくて、彼の体温だけが妙に熱く感じる。酔っているはずなのに、歩幅は崩れない。
不意に、葵の肩に顔を寄せるようにして、宏雅が笑った。

『葵の匂い、落ち着く』

『もう……何言うてはるん』
照れ隠しに笑ってみせても、胸の奥ではどうしようもなく切なかった。


「ほんまに……もう、よう飲みはりましたなぁ」

無防備な顔を見せるなんて、榊宏雅には似つかわしくない――それが胸を締めつけた。
「俺、飲みすぎて……役立たずだ。女も抱けない。ふふ」
自分の言葉に宏雅が笑う。
「ばかなこと言わはらへんの」
どうにか寝支度を整えて、水も飲ませたせいか、いつもの彼らしさが戻ってきた。
「うーん、押し倒されそう」
宏雅は、シャツのボタンをとめてくれる葵を、うっとりと見上げた。
「そないなわけ、あらへんで」
子供みたいな彼の顔つきに、可笑しくなる。
「ちゃんと寝や……倒れはったら困るんやから」
言葉にすると、思っていたよりも声が掠れていた。まるで、心の奥の不安まで滲むように。
「榊さん、泣き上戸やなくて良ぉおしたわ」
その瞬間だった。葵の手を宏雅が握った。大きくて温かい手。それだけで理性が溶かされていく。

「……男に泣かれたら、困るだろう?」

息が触れるほど近い距離で囁かれて、葵は思わず目を伏せた。

「そんなことあらへん……男も泣いてええんやで」
困ったように言いながらも、声が震える。どこかでわかっていた――この人に触れられるたび、心がほどけていくのを止められへんのやと。

「お前を、困らせる気は無いよ」

「うちは、ただ……放っとけへんだけ」
言いながら、自分でも驚くほど胸が詰まっていく。恋でも哀れみでもなく、もっと深くて危うい何か。今にも壊れそうな彼を、この手で抱きしめて守りたくなる衝動。
「葵」
呼ばれた声が、いつになく低い。彼の瞳に、静かな痛みと熱が混ざっていた。何かを求めるようで、同時に拒むような、複雑な眼差し。
「どうしたん?」
「……いや。なんでもない」
言葉とは裏腹に、掴んだ手が離れない。そのまま、葵の手を自分の頬に寄せるようにして、宏雅は目を閉じた。葵は、もう何も言えなかった。胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
「少しだけ……このままで」
「ええよ」
囁くように答えると、彼の腕が葵を引き寄せ、ゆっくりと包み込んだ。宏雅の長い睫毛が、震えているように見えた。

「……あかん人やな」

葵は小さく笑いながら、彼の肩に頬を寄せた。
彼の匂い、温もり、鼓動。
全部が愛おしくて、全部が哀しかった。



静かに眠る宏雅の横顔を見つめながら――葵は、どうしても聞けなかった。

どうしてあんなになるまで、飲んだんか。
誰といて、何を思っていたのか。

葵はそっと手を伸ばして、彼の髪を撫でた。柔らかく指に絡まってくる。

「……榊さん」
囁く声が震えてしまう。触れた指先に、彼の体温が優しく滲む。それだけで、涙がこぼれそうになる。ほんまは、これでええと思ってる。抱きしめてくれるだけで、もう十分や。

でも――「私を見て」と叫んでる自分もおる。

葵はそのまま、彼の胸に頬を寄せた。
夜の静寂に、宏雅の心臓の音だけが、確かに響いていた。
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