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二章
待ち伏せ
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ビルの隙間を抜ける風が、酒の残り香をさらっていく。夜空は鈍い灰色で、どこか遠くに雨の匂いが混じっていた。
女の笑い声が遠のいていく。
背中越しに「またね」と軽く手を振られたが、頷くだけで返事はしなかった。
気づけば、足が勝手に動いていた。
……この道。
もう、来るまいと思っていたはず。
足を止めた場所の向こうに、見覚えのあるビルがあった。
葵の店。
窓辺の灯りは落ちていて、人の気配は見えない。
一瞬だけ、あの夜の光景が脳裏を過った。
恋愛と跡取りの板挟みで、息ができなくなるほど荒んだ夜。したたかに飲んだ。
泥酔した宏雅を、仕事中なのに葵が迎えに来てくれた。理由も聞かず、彼女の部屋へ連れ帰って、介抱してくれ……手酷く抱いた。彼女を困らせたことだろう。
店の入るビルの前まで来ると宏雅は、ガードレールに軽く寄りかかって、煙草を取り出す。
昔、ここで葵を待ち伏せした夜があった。
夜風の中、店に入るか迷っていたら、葵が出てきて、つれない態度を取るものだから……キスしてその気にさせて、一緒に帰った。
朝まで抱いた熱い夜。
『大きな猫みたいやなあ』
甘やかすように笑いながら、髪を梳いてくる白い指。
『榊さんが、これ以上美人になったら、困りますわ』
寝支度をする葵がふざけて、宏雅の鼻先にも乗せたクリームの、ひんやりとした感触。
目を瞑ると、何もかもが熱い渦のように、胸の奥底から湧き上がってきた。
……あの女の全てが、優しくて懐かしい。
*
店を出たすぐのところ。
背の高い人影があって……まさか、と思った。
煙草の香が、夜風に混じって流れてくる。
それだけで胸の奥がざわめいた。
外灯の下、コートの襟を立てて、ガードレールに腰掛けてはる姿。風が吹くたびに、短い髪が揺れて――あの人や。
「……榊さん?」
声をかけた瞬間、彼が顔を上げた。
少し驚いたように見開かれた目は、まばたきと共に静かな気配になる。
途方も無く、孤独を感じさせる色だった。
「どう、しはったんですか」
思わずそう言うてしもた。
宏雅は、少し間をおいてから、ぽつりと。
「……待ち伏せ」
心細い子供みたいな声。
昔みたいに柔らかく笑うでもなく、困ったように目を伏せた。
その言葉に、胸がきゅっとなる。
――おんなじや、あの夜と。
宏雅が煙草を吸いながら、待ってはったことがあった。
店に顔出してくれへんかったくせに。今夜こそ来はるか思て、待ってしもたのに。そう思ったら、惚れた分だけ悔しくて。
『一緒に帰るなんて、言うてませんけど』
と、つれなく返した。
彼が笑ったから、うちが『ひどい人や』と言うたら、甘く唇を重ねて黙らせはった。
……なんで、今、思い出すんやろ。
少し近づくと、宏雅は足元に視線を落としてしまった。そこに、煙草が何本も落ちているのが、葵の目に入る。やめたはずなのに。
……どのくらい、ここにいたんやろ。
こんな寒空の下で。
何を思っていたんやろ。
「煙草、減らさな……体に良うないよ」
できるだけ平静を装って言うた。
けれど、声が震えてしまう。
すると、ゆっくり宏雅が顔をあげた。
何か思い出したみたいに、面白そうに微笑んだ。懐かしい――大好きな笑顔。
「……良いんだよ。長生きするつもり無いから」
なんで、笑いながらそんなこと言えるんやろ。
目の奥がちくちくした。
最愛の人を亡くして、誰か支えてくれてたんやろか。誰も放っとかへんはず、こないな男前。
それなのに、目の前の宏雅の笑顔は、あまりにも儚かった。
“俺は、生きてるのに、死んでるんだ”
料亭で一波乱あった、あの日。
彼が放ったという言葉。
愛した妻子を亡くした彼。
頭から水をかけられても、微動だにせんかった宏雅の姿。ぽたりと髪先から畳に垂れた滴の音。
耐えきれずに、葵の目から涙が溢れた。
「……なに、馬鹿なこと言うてはるの」
両腕を伸ばして、彼を抱きかかえた。
葵は、宏雅の頭を抱いたまま、静かに息を吸い込む。夜の空気が冷たいのに、胸の奥だけが熱い。
「もう、そないなこと言わんといて……」
小さく囁くと、彼の肩がかすかに揺れた。ほんの一瞬、宏雅の指先が葵の背に触れる。躊躇うようなその仕草が、あまりにも優しくて、心が崩れそうになった。
顔を上げると、目の前に彼の瞳があった。何も言わんでも、互いの想いがそこにあった。
夜風が二人の髪を揺らす。外灯の下で、時が止まったみたいだった。
葵が震える両手で彼の頬を包んだら、氷のように冷たかった。
「葵」
宏雅の腕が、不意に葵を強く抱きしめた。そして、飢えたように――口づけられる。
唇が触れた瞬間。
すべての痛みも、寂しさも、溶けていった。
もう抗うことなんてできなかった。
誰にも見られへん夜の隅で、二人の影がひとつになっていく。
どこへ向かうかも、考えてへんかった。
ただ――あの頃のように。
この人の腕の中に、帰りたかった。
女の笑い声が遠のいていく。
背中越しに「またね」と軽く手を振られたが、頷くだけで返事はしなかった。
気づけば、足が勝手に動いていた。
……この道。
もう、来るまいと思っていたはず。
足を止めた場所の向こうに、見覚えのあるビルがあった。
葵の店。
窓辺の灯りは落ちていて、人の気配は見えない。
一瞬だけ、あの夜の光景が脳裏を過った。
恋愛と跡取りの板挟みで、息ができなくなるほど荒んだ夜。したたかに飲んだ。
泥酔した宏雅を、仕事中なのに葵が迎えに来てくれた。理由も聞かず、彼女の部屋へ連れ帰って、介抱してくれ……手酷く抱いた。彼女を困らせたことだろう。
店の入るビルの前まで来ると宏雅は、ガードレールに軽く寄りかかって、煙草を取り出す。
昔、ここで葵を待ち伏せした夜があった。
夜風の中、店に入るか迷っていたら、葵が出てきて、つれない態度を取るものだから……キスしてその気にさせて、一緒に帰った。
朝まで抱いた熱い夜。
『大きな猫みたいやなあ』
甘やかすように笑いながら、髪を梳いてくる白い指。
『榊さんが、これ以上美人になったら、困りますわ』
寝支度をする葵がふざけて、宏雅の鼻先にも乗せたクリームの、ひんやりとした感触。
目を瞑ると、何もかもが熱い渦のように、胸の奥底から湧き上がってきた。
……あの女の全てが、優しくて懐かしい。
*
店を出たすぐのところ。
背の高い人影があって……まさか、と思った。
煙草の香が、夜風に混じって流れてくる。
それだけで胸の奥がざわめいた。
外灯の下、コートの襟を立てて、ガードレールに腰掛けてはる姿。風が吹くたびに、短い髪が揺れて――あの人や。
「……榊さん?」
声をかけた瞬間、彼が顔を上げた。
少し驚いたように見開かれた目は、まばたきと共に静かな気配になる。
途方も無く、孤独を感じさせる色だった。
「どう、しはったんですか」
思わずそう言うてしもた。
宏雅は、少し間をおいてから、ぽつりと。
「……待ち伏せ」
心細い子供みたいな声。
昔みたいに柔らかく笑うでもなく、困ったように目を伏せた。
その言葉に、胸がきゅっとなる。
――おんなじや、あの夜と。
宏雅が煙草を吸いながら、待ってはったことがあった。
店に顔出してくれへんかったくせに。今夜こそ来はるか思て、待ってしもたのに。そう思ったら、惚れた分だけ悔しくて。
『一緒に帰るなんて、言うてませんけど』
と、つれなく返した。
彼が笑ったから、うちが『ひどい人や』と言うたら、甘く唇を重ねて黙らせはった。
……なんで、今、思い出すんやろ。
少し近づくと、宏雅は足元に視線を落としてしまった。そこに、煙草が何本も落ちているのが、葵の目に入る。やめたはずなのに。
……どのくらい、ここにいたんやろ。
こんな寒空の下で。
何を思っていたんやろ。
「煙草、減らさな……体に良うないよ」
できるだけ平静を装って言うた。
けれど、声が震えてしまう。
すると、ゆっくり宏雅が顔をあげた。
何か思い出したみたいに、面白そうに微笑んだ。懐かしい――大好きな笑顔。
「……良いんだよ。長生きするつもり無いから」
なんで、笑いながらそんなこと言えるんやろ。
目の奥がちくちくした。
最愛の人を亡くして、誰か支えてくれてたんやろか。誰も放っとかへんはず、こないな男前。
それなのに、目の前の宏雅の笑顔は、あまりにも儚かった。
“俺は、生きてるのに、死んでるんだ”
料亭で一波乱あった、あの日。
彼が放ったという言葉。
愛した妻子を亡くした彼。
頭から水をかけられても、微動だにせんかった宏雅の姿。ぽたりと髪先から畳に垂れた滴の音。
耐えきれずに、葵の目から涙が溢れた。
「……なに、馬鹿なこと言うてはるの」
両腕を伸ばして、彼を抱きかかえた。
葵は、宏雅の頭を抱いたまま、静かに息を吸い込む。夜の空気が冷たいのに、胸の奥だけが熱い。
「もう、そないなこと言わんといて……」
小さく囁くと、彼の肩がかすかに揺れた。ほんの一瞬、宏雅の指先が葵の背に触れる。躊躇うようなその仕草が、あまりにも優しくて、心が崩れそうになった。
顔を上げると、目の前に彼の瞳があった。何も言わんでも、互いの想いがそこにあった。
夜風が二人の髪を揺らす。外灯の下で、時が止まったみたいだった。
葵が震える両手で彼の頬を包んだら、氷のように冷たかった。
「葵」
宏雅の腕が、不意に葵を強く抱きしめた。そして、飢えたように――口づけられる。
唇が触れた瞬間。
すべての痛みも、寂しさも、溶けていった。
もう抗うことなんてできなかった。
誰にも見られへん夜の隅で、二人の影がひとつになっていく。
どこへ向かうかも、考えてへんかった。
ただ――あの頃のように。
この人の腕の中に、帰りたかった。
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