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二章
迷情(九)
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「……もう、お越しやそうですえ」
「見はりました?あの姿……堪忍して欲しいわぁ。あんなん反則や」
「タイ緩めはって、お入りになって……まあ、あの色気。胸が、きゅんとしたわ」
廊下は、まるで誰かの舞台を見終えた直後のような、甘やかな熱が漂っていた。中居たちは、皆ほんのりと頬を染め、夢見るような表情で言葉を交わしている。
――榊さん、来とったんや。
その事実が、葵の胸を一瞬で焼き払う。
けれど同時に、少し悔しい。
来ただけで、ここまで空気を変える男、ということが。
自分の魅力を知っているのに、知らん顔をする。それが逆に、女たちを翻弄する。残り香さえこれなのだから、本人が現れた時の破壊力なんて――葵自身が、誰よりも知っている。
「……あの姿?」
葵は、訝しげに眉を寄せた。
宏雅の姿など、見慣れている。少し着崩した姿。ネクタイを緩める仕草。シャツのボタンが二つ三つ外れて、昼の顔から夜の顔へ変わっていく、あの瞬間。
それを“色気”だと言われても、自分にはもう当たり前過ぎて……と、思っていた。
「大袈裟に騒ぎすぎやろ」
そう笑いながらも、胸の鼓動だけは、どうにも誤魔化せない。
――だって。
昨夜の今日で、榊さんが自分に会いに来てくれたのだ。
嬉しくないはずが、あるだろうか。
■楓の間
彼が通されたのは、池に月が映る時間帯が最も美しい、角の部屋。室内の静けさが深い分、期待が胸に満ちる。
「お待たせして」
襖を開けながら言った葵は、視線を上げる。
――その瞬間、息が止まった。
「……やあ」
深く、甘い声。
それは、彼が本気で会いに来た夜の声だ。宏雅は庭を見ていたらしく、肩越しに振り返った。
廊下で騒がれていた理由を、瞬時に悟らせる、その姿。
黒のタキシード。
星の煌めきを落とし込んだような、艶のある漆黒。ボウタイは、解いたばかりのように、ふわりと襟元に垂れ下がっていた。シャツは三つもボタンが外れ、そこから鎖骨と胸元の陰影が覗く。
控えめな灯りの中、その色気は息を呑むほど、際立っていた。
「こんな格好で悪い……着替える暇が無くてね」
そう言いながら、宏雅は片方の手でボウタイを軽く握って、無造作に胸ポケットへ押し込む。仕草ひとつひとつが、見ている者の胸をときめかせるほど、艶めいていた。
葵の視線に気づいた宏雅は、目を細めて微笑む。その笑みに、胸がじわりと熱を持つ。
スーツ姿に、色気なんてないと思っていた自分が、馬鹿みたいや。
これが、仕事先から駆けつけた男の熱。会いたいという衝動だけで、来てくれた男の姿だった。
そして、納得した。
彼の姿を見て、中居たちが騒ぎ出した理由を。
……確かに、反則だ。
「葵」
宏雅が、低く名を呼ぶ。
世界で一番、胸に落ちる声音で。
どきんと心臓が飛び跳ねる。
葵が、顔を上げた瞬間。
宏雅は、ほんの半歩で距離を詰めた。
何の前触れもなく。
けれど迷いもなく。
彼の腕が、葵の細い腰を抱き寄せた。
「……榊さん?」
驚きの声が漏れるより先に、熱を含んだ甘い声が耳元に落ちた。
「会えて嬉しい」
その瞬間、葵の背中に回された腕が、ゆっくり、しかし確かに力をこめる。タキシードの生地越しに伝わる体温が、あまりにも近くて息が止まりそうになる。
続けざまに、頬に触れる指が優しく滑り、ためらいなく唇を重ねてくる。
情が溢れる口づけ。
「っ……困ります、榊さん」
葵は小声で、しかし必死に抗議する。
「ここ、仕事場やから……」
宏雅は、彼女の額にも軽く唇を寄せ、小さな笑みを零した。
「わかってるよ。だから……これ以上は、しない」
本当かどうか、怪しい。
葵の頬が赤く染まるのを見てから、満足そうに宏雅は腕を緩めた。
「見はりました?あの姿……堪忍して欲しいわぁ。あんなん反則や」
「タイ緩めはって、お入りになって……まあ、あの色気。胸が、きゅんとしたわ」
廊下は、まるで誰かの舞台を見終えた直後のような、甘やかな熱が漂っていた。中居たちは、皆ほんのりと頬を染め、夢見るような表情で言葉を交わしている。
――榊さん、来とったんや。
その事実が、葵の胸を一瞬で焼き払う。
けれど同時に、少し悔しい。
来ただけで、ここまで空気を変える男、ということが。
自分の魅力を知っているのに、知らん顔をする。それが逆に、女たちを翻弄する。残り香さえこれなのだから、本人が現れた時の破壊力なんて――葵自身が、誰よりも知っている。
「……あの姿?」
葵は、訝しげに眉を寄せた。
宏雅の姿など、見慣れている。少し着崩した姿。ネクタイを緩める仕草。シャツのボタンが二つ三つ外れて、昼の顔から夜の顔へ変わっていく、あの瞬間。
それを“色気”だと言われても、自分にはもう当たり前過ぎて……と、思っていた。
「大袈裟に騒ぎすぎやろ」
そう笑いながらも、胸の鼓動だけは、どうにも誤魔化せない。
――だって。
昨夜の今日で、榊さんが自分に会いに来てくれたのだ。
嬉しくないはずが、あるだろうか。
■楓の間
彼が通されたのは、池に月が映る時間帯が最も美しい、角の部屋。室内の静けさが深い分、期待が胸に満ちる。
「お待たせして」
襖を開けながら言った葵は、視線を上げる。
――その瞬間、息が止まった。
「……やあ」
深く、甘い声。
それは、彼が本気で会いに来た夜の声だ。宏雅は庭を見ていたらしく、肩越しに振り返った。
廊下で騒がれていた理由を、瞬時に悟らせる、その姿。
黒のタキシード。
星の煌めきを落とし込んだような、艶のある漆黒。ボウタイは、解いたばかりのように、ふわりと襟元に垂れ下がっていた。シャツは三つもボタンが外れ、そこから鎖骨と胸元の陰影が覗く。
控えめな灯りの中、その色気は息を呑むほど、際立っていた。
「こんな格好で悪い……着替える暇が無くてね」
そう言いながら、宏雅は片方の手でボウタイを軽く握って、無造作に胸ポケットへ押し込む。仕草ひとつひとつが、見ている者の胸をときめかせるほど、艶めいていた。
葵の視線に気づいた宏雅は、目を細めて微笑む。その笑みに、胸がじわりと熱を持つ。
スーツ姿に、色気なんてないと思っていた自分が、馬鹿みたいや。
これが、仕事先から駆けつけた男の熱。会いたいという衝動だけで、来てくれた男の姿だった。
そして、納得した。
彼の姿を見て、中居たちが騒ぎ出した理由を。
……確かに、反則だ。
「葵」
宏雅が、低く名を呼ぶ。
世界で一番、胸に落ちる声音で。
どきんと心臓が飛び跳ねる。
葵が、顔を上げた瞬間。
宏雅は、ほんの半歩で距離を詰めた。
何の前触れもなく。
けれど迷いもなく。
彼の腕が、葵の細い腰を抱き寄せた。
「……榊さん?」
驚きの声が漏れるより先に、熱を含んだ甘い声が耳元に落ちた。
「会えて嬉しい」
その瞬間、葵の背中に回された腕が、ゆっくり、しかし確かに力をこめる。タキシードの生地越しに伝わる体温が、あまりにも近くて息が止まりそうになる。
続けざまに、頬に触れる指が優しく滑り、ためらいなく唇を重ねてくる。
情が溢れる口づけ。
「っ……困ります、榊さん」
葵は小声で、しかし必死に抗議する。
「ここ、仕事場やから……」
宏雅は、彼女の額にも軽く唇を寄せ、小さな笑みを零した。
「わかってるよ。だから……これ以上は、しない」
本当かどうか、怪しい。
葵の頬が赤く染まるのを見てから、満足そうに宏雅は腕を緩めた。
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