この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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三章

震慄

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……知らへんかった。

榊さんが、自分のことを“死んだ人間や”、みたいに思って生きとったなんて。
今の時間は“おまけ”みたいなもんや、って、そんなふうに考えとったなんて……。

私には、そんな素振りを一つも見せんかった。

だって彼は。

甘い言葉しか、くれへんかったから。
抱きしめられたら、息ができんほど愛されてる気がしたから。
あの蠱惑的な瞳で見つめられて、熱っぽくキスされたら、昔以上に心が震えたから。

——浮かれとったんや、きっと。

あまりにも、榊さんが“榊さんらしく”
完璧な恋人でいてくれたせいで。

私はまた、惚れ直してしまった。




駅前で、息子と二人。
雨に振られて難儀していた、あの日。

『葵』

言葉を交わすより先に、ふわりと大きな黒い傘が、私たち二人に差し出された。

ためらいが、ほんまに一秒もなかった。
その腕の中に入れてもらうみたいに、自然で、優しくて。

——ああ、変わってへん。
どんな時も、私を助けてくれる人や。

年下やのに、それを感じへん包容力があって、からかったり誘惑したり、抱く時は信じられへんほど官能的で……誰よりも上手で、誰よりも私を知ってて。

榊さんは、男として“理想”のかたまりみたいな人やった。

でも。
そんな彼が、どん底を這っていた時、彼の命を繋ぎとめた女医の存在——杏奈先生。
若くて、美しくて、アメリカ帰りで、実家は財閥の名門という完璧さ。

秘書の藤原さんが

『何度も、社長の命を引き戻してくださった方です』

そう話してくれた時、心臓が悲鳴をあげた。

きっと……。
彼女は、いつもの気まぐれな遊び相手とは違うんや、って。

その事実が、胸が潰れるほど辛かった。


だって。
再会してからの榊さんは、死の淵に立っているような人には、とても見えへんかった。

いつものように私を、甘い言葉で惑わせて、
恋人みたいに手を繋いで、
熱く激しく抱いて。


あの日、彼が叫んだ――

「俺は、生きてるのに死んでるんだ」

という言葉が、誰か別の男のものみたいで。

気がつけば、私はまた彼に惹かれていた。
息子の存在という、大きすぎる秘密を抱えたまま。

それでも、彼の傘の下に入ってしまった時から、胸の奥で、ずっと分かっていたんや。

私は……もう一度、榊さんを好きになってしまう。



傷ついた彼に寄り添っていたのが、
自分ではなかった。

彼が沈んで、壊れて、支えを本当に必要としていた、その時期。

隣にいたのは――私よりずっと若くて、未来も家柄も申し分のない、彼に相応しすぎる女医さんやった。

その女性の名前を、榊さんが電話口で安心したように、

「……ああ、杏奈か」

と呼んだ瞬間。

胸の奥が、ぎしっと軋んだ。
思わず手が震えて、息が吸えなくなるほどの痛みで。

……あれが、嫉妬やと気づくのに、
時間はかからへんかった。

いつもなら。

“うちは年上やし”
“どうせ遊び相手やし”
そうやって、心に蓋をしてやり過ごせたはず。

けれど、あの時だけは違った。

亡くなった奥さんの誕生日で弱っていて、どこにも居場所がないように見えた榊さんを、この腕で抱きしめて「大丈夫や」と言うたばかりやったから。

その直後に聞く“杏奈”という名は、刺のように胸を貫いた。

彼の人生の中で“私が触れられへん時間”が確かにあって。そこで彼を支えたのは、私やなかった。

その現実が、どうしようもなく苦しかった。



だから、あの電話のすぐ後。

「……俺と結婚したいか?」

榊さんが、そう言ったとき。

世界が止まったように、声が出んかった。
息も、喉に引っかかって出てこなくて。

榊さんの瞳には、軽さなんて少しもなかった。“惰性”で生きてるなんて口にするくせに、その目だけは、今の私をちゃんと見てた。

私なんかが、返してええ言葉なんか、あらへんかった。


だって――私は。

内緒で彼の子供を産んで、
隠して生きてきた女や。

言えるはずが、なかった。


ただ、手も足も……心までも、がたがたと震えていた。
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