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二章
迷情(十三)
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腕の中の温もりで目を覚ました。
柔らかい匂い――葵だ。
いつの間にか、眠っていた。
温かな人肌に包まれて眠るなんて、どれだけぶりだろう。
……おかげで今日は、あの地獄みたいな夢を見ずにすんだ。
現実と過去の境目に、引きずり込まれるあの感覚にも、落ちなかった。
一瞬だけ、救われた気がした。
それが、逆に怖い。
冷たい底なし沼のような闇は、いつもすぐ側にある。
菫が沈んだ場所だ。
あの暗い海は、今も俺の中に広がっている。
そこへ落ちないように、ずっと空っぽでいるしかなかった。感情なんて持ったら、沈む。
誰にも言えない。
夜が来るたび、息ができなくなるなんて。
「……もう朝?」
寝ぼけた葵の声がした。
「まだ夜だよ」
嘘をついて、腕の中へ引き寄せて閉じ込めた。薄目をあけた葵が、部屋の明るさを見て言う。
「また嘘ついてはる……」
「そういう男、好きだろ」
腫れた唇に口づけると、葵がくすりと笑った。
「……ちゃんと寝てはった?」
目は閉じたまま、甘い声。
「寝るわけないだろ……お前と、朝まで過ごせる機会に」
耳朶をそっと噛むと、葵が身体を揺らして息を詰める。
「あかんて……馬鹿なこと言わはる」
くすぐったそうに言いながらも逃げない。
その素直さが、胸の奥を溶かす。
だから油断する。
「夢も見ないですむ」
――言わなくて良いことを言った。
心の深いところが、綻んでしまった。
「見ないでって……見たくない夢なん?」
目を開けた葵が、驚いたように問う。
「……ああ。まあ、よく覚えてないけど」
誤魔化すように言って、寝返って煙草に火をつける。煙の白さの向こうで、過去が揺れる。
夢。
いつも見るのは、菫が生きている夢だ。
笑って、おやすみと言い合う。
手を伸ばせば、そこにいる。
朝になると――現実が襲ってくる。
菫はいない。
喪失が胸を、何度も何度もひき裂いた。
あれは俺の罪だ。
俺が縛ったせいで。
俺が弱かったせいで。
命が失われた。
全てをかけて愛おしんだ存在が、砕け散った。
だから、もう二度と結婚はしない。
誰かを“自分のもの”にして失うなんて、耐えられない。同じことが起きたら――今度こそ、壊れる。
そんな黒い思考の底にいると、背中から細い腕が回ってきた。
「……おはようさん」
葵だ。
声に少し眠気が残っていて、妙に安心する。
振り向くと、抱きしめられた葵の温もりに、心が急に軟らかくなった。泣きたくなるほど温かい。
「……おはよう」
煙草を消して、もう一度抱くために口づける。
この甘い女を、好きだと認めるのが怖い。
でも、抱きたい。
触れたい。
欲しい。
何度でも、朝まででも、壊れるほど抱きたくなる。
そんな自分が、一番怖い。
――だけど、今だけは。
少しくらい溺れてもいいかもしれない、と思った。
葵がいる朝は、悪くない。
*
温かい腕の中で目が覚めた。
胸に頬を寄せれば、いい匂い。
榊さんの匂い。
「……もう朝?」
寝ぼけた声で言うと。
「まだ夜」
嘘つくみたいに囁かれ、抱き寄せられた。
くすぐったくて、嬉しくて、唇を重ねられたら、ああ……朝から、こんなん反則やわと思う。
耳たぶを甘く噛まれて。
「寝るわけないだろ……お前と朝まで過ごせる機会に」
なんて言われたら、胸がきゅっと甘く痛む。
ほんまに、女を惑わすのが上手い人や。
なのに。
その腕が、突然すっと解かれた。
触れていた温もりが、離れる。
「……え?」
榊さんは何も言わず、寝返りを打って起き上がり、煙草を探した。背中越しに見える横顔は、さっきまでの甘いものじゃない。
冷たいような、寂しいような……胸の奥が、ひび割れてるみたいな表情。
火をつける手が、少し震えていた気がする。
さっきまで、あんなに優しくしてくれてたのに。
急に遠くなる。
何を考えてはるん……?
怖くはない。
けど、切なくて、胸がざわつく。
少しだけ迷って、そっと背中から腕を回した。
「……おはようさん」
まるで、今にも泣きそうな人を抱くみたいに。
優しく包み込むように。
彼が振り返って、ゆるく息を吐いた。
「……おはよう」
その顔が、少しだけ柔らかくなる。
その変化が、愛おしい。
この人……ほんまに、弱いところ見せたくないんやな。
寂しい背中。
触れたら、折れてしまいそうな心。
抱かれるばっかりやなくて、こうして抱きしめたくなる。
そして、榊さんがこちらを見つめる目が、また甘くなる。唇が触れた瞬間、思った。
――あれ、これまた……する気ちゃう?
でも、それで落ちつくんやったら、
うち、かまへんよ。
朝やろうが、何やろうが。
この人がうちを欲してくれるなら、何度だって抱かれたらええ。
だって。
好きでたまらん人やもん。
柔らかい匂い――葵だ。
いつの間にか、眠っていた。
温かな人肌に包まれて眠るなんて、どれだけぶりだろう。
……おかげで今日は、あの地獄みたいな夢を見ずにすんだ。
現実と過去の境目に、引きずり込まれるあの感覚にも、落ちなかった。
一瞬だけ、救われた気がした。
それが、逆に怖い。
冷たい底なし沼のような闇は、いつもすぐ側にある。
菫が沈んだ場所だ。
あの暗い海は、今も俺の中に広がっている。
そこへ落ちないように、ずっと空っぽでいるしかなかった。感情なんて持ったら、沈む。
誰にも言えない。
夜が来るたび、息ができなくなるなんて。
「……もう朝?」
寝ぼけた葵の声がした。
「まだ夜だよ」
嘘をついて、腕の中へ引き寄せて閉じ込めた。薄目をあけた葵が、部屋の明るさを見て言う。
「また嘘ついてはる……」
「そういう男、好きだろ」
腫れた唇に口づけると、葵がくすりと笑った。
「……ちゃんと寝てはった?」
目は閉じたまま、甘い声。
「寝るわけないだろ……お前と、朝まで過ごせる機会に」
耳朶をそっと噛むと、葵が身体を揺らして息を詰める。
「あかんて……馬鹿なこと言わはる」
くすぐったそうに言いながらも逃げない。
その素直さが、胸の奥を溶かす。
だから油断する。
「夢も見ないですむ」
――言わなくて良いことを言った。
心の深いところが、綻んでしまった。
「見ないでって……見たくない夢なん?」
目を開けた葵が、驚いたように問う。
「……ああ。まあ、よく覚えてないけど」
誤魔化すように言って、寝返って煙草に火をつける。煙の白さの向こうで、過去が揺れる。
夢。
いつも見るのは、菫が生きている夢だ。
笑って、おやすみと言い合う。
手を伸ばせば、そこにいる。
朝になると――現実が襲ってくる。
菫はいない。
喪失が胸を、何度も何度もひき裂いた。
あれは俺の罪だ。
俺が縛ったせいで。
俺が弱かったせいで。
命が失われた。
全てをかけて愛おしんだ存在が、砕け散った。
だから、もう二度と結婚はしない。
誰かを“自分のもの”にして失うなんて、耐えられない。同じことが起きたら――今度こそ、壊れる。
そんな黒い思考の底にいると、背中から細い腕が回ってきた。
「……おはようさん」
葵だ。
声に少し眠気が残っていて、妙に安心する。
振り向くと、抱きしめられた葵の温もりに、心が急に軟らかくなった。泣きたくなるほど温かい。
「……おはよう」
煙草を消して、もう一度抱くために口づける。
この甘い女を、好きだと認めるのが怖い。
でも、抱きたい。
触れたい。
欲しい。
何度でも、朝まででも、壊れるほど抱きたくなる。
そんな自分が、一番怖い。
――だけど、今だけは。
少しくらい溺れてもいいかもしれない、と思った。
葵がいる朝は、悪くない。
*
温かい腕の中で目が覚めた。
胸に頬を寄せれば、いい匂い。
榊さんの匂い。
「……もう朝?」
寝ぼけた声で言うと。
「まだ夜」
嘘つくみたいに囁かれ、抱き寄せられた。
くすぐったくて、嬉しくて、唇を重ねられたら、ああ……朝から、こんなん反則やわと思う。
耳たぶを甘く噛まれて。
「寝るわけないだろ……お前と朝まで過ごせる機会に」
なんて言われたら、胸がきゅっと甘く痛む。
ほんまに、女を惑わすのが上手い人や。
なのに。
その腕が、突然すっと解かれた。
触れていた温もりが、離れる。
「……え?」
榊さんは何も言わず、寝返りを打って起き上がり、煙草を探した。背中越しに見える横顔は、さっきまでの甘いものじゃない。
冷たいような、寂しいような……胸の奥が、ひび割れてるみたいな表情。
火をつける手が、少し震えていた気がする。
さっきまで、あんなに優しくしてくれてたのに。
急に遠くなる。
何を考えてはるん……?
怖くはない。
けど、切なくて、胸がざわつく。
少しだけ迷って、そっと背中から腕を回した。
「……おはようさん」
まるで、今にも泣きそうな人を抱くみたいに。
優しく包み込むように。
彼が振り返って、ゆるく息を吐いた。
「……おはよう」
その顔が、少しだけ柔らかくなる。
その変化が、愛おしい。
この人……ほんまに、弱いところ見せたくないんやな。
寂しい背中。
触れたら、折れてしまいそうな心。
抱かれるばっかりやなくて、こうして抱きしめたくなる。
そして、榊さんがこちらを見つめる目が、また甘くなる。唇が触れた瞬間、思った。
――あれ、これまた……する気ちゃう?
でも、それで落ちつくんやったら、
うち、かまへんよ。
朝やろうが、何やろうが。
この人がうちを欲してくれるなら、何度だって抱かれたらええ。
だって。
好きでたまらん人やもん。
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