この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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三章

揺蕩う

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杏奈の泊まるホテルのロビーは、照明が落とされ、陰影が深かった。エレベーターホールに立つ二人の間を、静かな空調の風だけが通り抜けていく。

宏雅が、ふと横に視線を動かす。
ガラス越しのバーラウンジ。
琥珀色のライトが、眠らない夜を照らしていた。

「……飲み直すか?」

低く、いつもの落ち着いた声。
しかしその奥に、微かに熱のようなものが揺れている。

杏奈は、小さく首を振った。

「ううん、やめとく」

ふっと笑みを見せて、俯く。
耳にかかっていた髪が、さらりと落ちる。

「酔いつぶれたら俺が介抱してやるよ、昔の杏奈がしてくれたように……朝までベッドの中で」

宏雅が、ふざけた口調で囁いた。

「お酒のせいにしたくないから……宏雅とのことは」

その言葉を聞いた瞬間、宏雅の瞳の奥の色が変わった。

ゆっくり手を伸ばし、杏奈の頬に触れている一筋の髪を、耳にかけてやる。肌に触れる直前、少しだけ彼が呼吸を止めたのが分かった。

「酒のせいにしたって、誰も責めやしない」

杏奈は、毅然と言い返さなければならないのに、声が震えてしまう。

「私は医者よ。過ぎたお酒は、体に良くな――」

熱い手に頬が包まれ、唇を塞がれる。
驚く間もなく、深く宏雅に口づけられて、背中がわずかに反り返った。
唇が離れたとき、宏雅の声はどこか怒っているようにさえ、聞こえた。

「――あれから、俺はまた煙草も吸い始めた。酒?今さらだろう?」

杏奈は気づく。
あれから、とは――菫を失った、あの日から。
あの日を境に、宏雅は闇を歩いてきたのだ。杏奈の治療が途切れてからも、延々と。

「長生きするつもりは無い……」

諦めたような乾いた声で、宏雅が呟く。

「長生きして何になるんだ。教えてくれよ、先生」

挑発するように口の端が上がり、不敵な笑みが浮かんでいる。それなのに、心は深い海に沈んでいるかのようだった。

杏奈の胸の奥が、ぎしりと軋む。

怒れない。
突き放せない。
彼の絶望の温度を、知っているから。

エレベーターの扉が開く。
二人とも、何も言わず乗り込んだ。
部屋を解錠する、カードキーの電子音。
ガチャ、という音とともに、扉が閉じた瞬間。宏雅が、杏奈を背後から抱き寄せた。

「あの……」

言い終わる前に唇を塞がれ、押し寄せるような熱と、舌の深い侵入。けれど、背中に回された腕は優しい。
宥めるような手つき――だからこそ、杏奈の胸は締め付けられた。

「……杏奈」

声音に、渇いた飢えが混じる。

求めている。
女の体ではなく――誰かの温もりを。
誰かに抱きとめてほしい“子どものような弱さ”を感じた。

……これは、きっと愛じゃない。
依存で、逃避で、傷の疼きの代償行為。

わかっている。
杏奈は医師として、それを理解しすぎるほど、わかっていた。

それでも――彼の腕の中の居心地の良さに、抵抗できない。杏奈は、目を瞑って宏雅を抱き返した。  
  

触れ合った瞬間に、わかった。
記憶の中の彼より、ずっと優しく、丁寧だった。

その甘さに、杏奈は抗おうとして……抗えなかった。むしろ、身悶えるほど心をかき乱されていく。

「杏奈」

名を呼ぶ声は、低く美しく。
痺れるほどの余韻を、心に残す。

彼の指が、背中から腰へ落ちてゆく。
熱を帯びた唇が、肩口に触れただけで、杏奈の呼吸は上ずった。

宏雅の舌が、肌の上をゆっくりと辿りながら、杏奈が気持ちよくなる場所を、正確に拾い上げていく。

「……やっ……」

若鮎のようにしなやかに、彼の腕の中で跳ねてしまう。震えを抑えられず、びくびくと彼の肩に縋りついて――泣きそうな瞳で見上げれば、宏雅が熱を孕んだ眼差しで、杏奈を射抜いた。

そのまま、深く口づけられる。

「……可愛いよ」

甘く、蕩けるような声。

あの頃の宏雅には、命を繋ぎ止めるために“貪るような激しさ”があった。孤独と闇の深さが、そのまま行為に滲んでいた。

今は違う。

今の彼は、杏奈の反応を一つ一つ味わうように、大切なものを扱うような手つきで――それがかえって、杏奈の心を惑わす。

「ん……っ」

どれほど時間が経ったのか、わからない。
気がつけば杏奈は、仰向けに寝転んだ宏雅の胸の上で、ぐったりと脱力していた。

火照った頬を、彼の胸に押し当てる。

「すごく……良かった……」

素直な呟きだった。

宏雅が喉の奥でふっと笑う。
その振動が、杏奈の耳に直接響く。

「わかりやすいね、お前って」

片腕で杏奈を抱き寄せたまま、もう一方の手で吸いかけの煙草を灰皿に置く。くゆる煙の匂いが、彼の体の温度と混ざる。

「……あの頃の俺、随分と酷かっただろう?」

杏奈は、くすっと笑った。

「痣ができたこともあったわ」

「乱暴者だったな、俺……」

苦笑しながらも、今はまるで別人のように、優しい手つきで杏奈の髪を梳く。一筋を指に巻きつけ、そこに口づけた。

杏奈の胸が、ずきん、と痛む。
こんなに甘い仕草は、あの頃の彼にはなかった。

宏雅の上に身を預ける杏奈の背中を、大きな手がゆっくりと滑り降りる。

ぞくり、と背筋が震える。
官能とくすぐったさの境界――その狭間で杏奈は、静かに宏雅の唇に触れた。

「……宏雅……」

囁くような声に、彼がゆるく微笑む。

「今夜は、あの頃の埋め合わせをしよう」

その言葉の後、宏雅は杏奈の腰に両手を添え、再びゆっくりと、彼女の中に身を沈めていった。




 *

杏奈が、俺の上で先に眠った。

穏やかな寝息が、肌をくすぐる。
薄い肩が上下するたび、俺の腕の中でふわりと温度が揺れた。

「……へえ」

思わず、声が漏れた。
驚きよりも、なんというか……胸の奥をそっと撫でられたような感覚だった。

取り乱し、涙を流し、自分で自分を壊しそうになった夜。そんな俺を抱きしめ、奈落へ落ちていかないように腕を回し、まるで手繰り寄せるみたいに――命の端を繋ぎとめてくれた女。

いつだって、俺より先に眠ることなんてなかった。

不安に怯える子どもをあやすみたいに、俺が落ち着いてから、ようやく彼女が瞼を閉じる。
そんな夜ばかりだった。

だから、今こうして俺の胸の上で眠っている無防備な姿が、少しだけ意外だった。

額に落ちてきた黒髪を、そっと払う。

「……疲れたんだな」

本当は、ずっと疲れていたはずなのに。素振りも見せなかった。いつだって、俺を支えてしまう彼女の心が、少しだけ緩んだんだろうか。そう思うと、胸の奥が痛んだ。

守られてばかりだ。
甘えてばかりだ。

その痛みは、嫉妬でも劣等感でもなく――ただ、優しさを受け取り慣れない俺の心が、軋む音だった。

杏奈の寝息が、また小さく震えた。
そのたびに彼女の体温が、ゆっくりと俺に沁みていく。

理由のわからない痛みが、ただ、静かに……静かに広がっていった。




 *

こんな夜が来るなんて、思ってもいなかった。

胸の奥で、何かが溶け出してしまう。
目の前にいるのは、記憶の中に刻みついた、榊宏雅ではない。

今夜、抱かれたのは――優しくて、丁寧で、温かくて……触れられるたびに、心ごと震えるほどの温度を持った男だった。

こんなに素晴らしい人だったなんて。
どうして気づかなかったのだろう?

いや、あの頃の彼は、そんな状態じゃなかった。私の方も、受け止められる器じゃなかった。

痛いほど、理解できてしまう。

だからこそ、こんな彼と触れあった瞬間、胸が裂けそうになる。感動と切なさと、恋しさが全部混ざり合って……まるで甘い毒みたいに、体の隅々まで回ってゆく。


宏雅は、静かに眠っている。
緩んだ表情に、少年っぽさが残る。

そっと彼の髪に触れる。
ひんやりと柔らかい。
昔も、こうして朝まで一緒にいた。

悪夢に怯えて眠れない宏雅を抱きしめて、互いの体温だけを頼りに、ひたすらしがみついて……狂おしい熱に焼かれながら、そのまま泥のように眠った。

あの頃の夜は、いつも戦場だった。
二人とも必死で、余裕なんて少しもなかった。

それが今夜は――優しさで包まれた夜だった。

思い出しても、胸が痛む。
泣きたくなるほどに。

枕元で携帯が震えた。そっと取り上げて、画面を見る。

『荷解きは順調かい?時差ボケに気を付けて。愛を込めて』

アメリカに残してきた、恋人からのメッセージだった。

「……私って、ひどい女ね」

掠れた声が溢れた。
返信しかけた携帯を伏せ、シーツの中で体を丸める。迷子みたい。帰る場所を、突然失ったような気がした。

その時だった。

温かい腕が腰に回される。
背中に伝わる宏雅の体温。
項に落ちる、甘くて熱いキス。

半ば寝言のように、宏雅が囁いた。

「俺たちは、また溶け合える……あの頃は激しく……今は……」

夢見るような口調。
微睡みに揺蕩いながらも、杏奈を抱き寄せる。

堪えきれず、ぽろりと涙が落ちた。
杏奈はゆっくりと振り返り、揺らぐ視界のまま、彼の唇に口づけた。

どうして、こんな人を。
あの時、抱きしめきれなかったのだろう。

どうして今さら――こんなにも、愛しい。 
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