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三章
限界の縁
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葵に何も言わないで、身を引くこともできた。
結婚の話なんて出さず、ただ“そういう縁談があるらしい”とだけ伝えて、葵には関係のないものとして、処理させればよかった。
関わらせなければ、傷つく必要もなかった。
それなのに、できなかった。
葵の目を見ると、心のどこかで勝手に期待している、自分がいた。
俺と未来を築きたい――そんな言葉を、彼女の口から聞けたらと。
ほんの少しでも、望んでくれたら、と。
……馬鹿だ。
胸の奥が、じわりと鈍く疼く。
こんな浮気性で、嘘つきで、自分でも嫌になるくらい、他人を使い捨ててきたような男と……。
安定した家庭を望む女が、いるわけがない。
そんな馬鹿は、菫で充分だ。
あいつだけが、そんな無謀なことを本気で信じて、俺と結婚して――死んだ。
俺と結婚なんてしなければ、菫は、もっと長く生きていたかもしれない。
あれ以来ずっと、結婚という言葉そのものが“死の匂い”を纏っている。
未来を約束することが、誰かの命を奪う行為に繋がる気がしてならない。
それでも。
葵の前では、そんな忌まわしい考えをすべて吐き出して、それでも「一緒にいたい」と言ってほしいと。
どこかで期待してしまっていた。
……本当に、救いようのない男だ。
そんな資格もないくせに、
望んでしまう。
手放さなきゃいけない相手ほど、
心が惹かれてしまう。
*
「なあ」
窓越しの昼の街並みを眺めながら、宏雅は煙草を吐き出した。火の先が揺れる。
本人より、煙の方が落ち着いて見える。
「俺が駄目になったら、藤原……お前が、この会社をやれよ」
事務的な調子で言うくせに、声の底には変に重さがあった。軽口じゃない。本気で、限界の縁に爪先をかけている、男の声音。そのニュアンスが、耳に突き刺さる。
「やれませんよ」
必要最低限の、平坦な声で返した。感情を混ぜたら、彼は簡単に倒れてしまう気がしたからだ。
宏雅が振り返り、むっと子どもみたいな顔をする。
「おい、即答するな……冷たいな」
目が合う。その一瞬だけ、いつも通りの微笑みが浮かぶ。
……危険だ。
この“笑ってごまかす癖”が一番危うい。
「じゃ、この会社は、俺と一緒に沈没か」
ふざけた調子で言う。
だが、その軽さが逆に怖い。
「せっかく、ここまで大きくしたのにな」
宏雅は、煙草を灰皿に押しつけた。
その手の震えを、本人は見せまいとしていた。
——彼は、本当に“沈んで”しまうかもしれない。
先妻の死以降、宏雅は何をしていても、どこか“別の場所”に片足を置いたままだ。
生きているように見えて、生きるのをやめかけている。藤原は胸が、ずんと重くなるのを感じた。
「沈没なんか、させませんよ」
わざと素っ気なく言う。
宏雅が、意外そうに目を瞬く。
「……へえ。心強いな」
軽く笑うその横顔は、どう見ても“心強い側”の人間じゃない。
——放っておけば危うい。
藤原は、確信してしまっていた。
「だから、勝手に沈まないでくださいって、言ってるんです」
視線を外し、窓の外に向ける。
感情を悟らせないように。
宏雅は黙って立っていたが、ほんの少しだけ息を吐いて笑った。
「……お前、たまに優しいよな」
「業務です」
「はいはい」
気の抜けた返事。それでも、さっきより少しだけ、声に温度が戻っていた。
――生きる方へ、引き戻せているだろうか。
藤原は、胸の内で静かに問い続けていた。
結婚の話なんて出さず、ただ“そういう縁談があるらしい”とだけ伝えて、葵には関係のないものとして、処理させればよかった。
関わらせなければ、傷つく必要もなかった。
それなのに、できなかった。
葵の目を見ると、心のどこかで勝手に期待している、自分がいた。
俺と未来を築きたい――そんな言葉を、彼女の口から聞けたらと。
ほんの少しでも、望んでくれたら、と。
……馬鹿だ。
胸の奥が、じわりと鈍く疼く。
こんな浮気性で、嘘つきで、自分でも嫌になるくらい、他人を使い捨ててきたような男と……。
安定した家庭を望む女が、いるわけがない。
そんな馬鹿は、菫で充分だ。
あいつだけが、そんな無謀なことを本気で信じて、俺と結婚して――死んだ。
俺と結婚なんてしなければ、菫は、もっと長く生きていたかもしれない。
あれ以来ずっと、結婚という言葉そのものが“死の匂い”を纏っている。
未来を約束することが、誰かの命を奪う行為に繋がる気がしてならない。
それでも。
葵の前では、そんな忌まわしい考えをすべて吐き出して、それでも「一緒にいたい」と言ってほしいと。
どこかで期待してしまっていた。
……本当に、救いようのない男だ。
そんな資格もないくせに、
望んでしまう。
手放さなきゃいけない相手ほど、
心が惹かれてしまう。
*
「なあ」
窓越しの昼の街並みを眺めながら、宏雅は煙草を吐き出した。火の先が揺れる。
本人より、煙の方が落ち着いて見える。
「俺が駄目になったら、藤原……お前が、この会社をやれよ」
事務的な調子で言うくせに、声の底には変に重さがあった。軽口じゃない。本気で、限界の縁に爪先をかけている、男の声音。そのニュアンスが、耳に突き刺さる。
「やれませんよ」
必要最低限の、平坦な声で返した。感情を混ぜたら、彼は簡単に倒れてしまう気がしたからだ。
宏雅が振り返り、むっと子どもみたいな顔をする。
「おい、即答するな……冷たいな」
目が合う。その一瞬だけ、いつも通りの微笑みが浮かぶ。
……危険だ。
この“笑ってごまかす癖”が一番危うい。
「じゃ、この会社は、俺と一緒に沈没か」
ふざけた調子で言う。
だが、その軽さが逆に怖い。
「せっかく、ここまで大きくしたのにな」
宏雅は、煙草を灰皿に押しつけた。
その手の震えを、本人は見せまいとしていた。
——彼は、本当に“沈んで”しまうかもしれない。
先妻の死以降、宏雅は何をしていても、どこか“別の場所”に片足を置いたままだ。
生きているように見えて、生きるのをやめかけている。藤原は胸が、ずんと重くなるのを感じた。
「沈没なんか、させませんよ」
わざと素っ気なく言う。
宏雅が、意外そうに目を瞬く。
「……へえ。心強いな」
軽く笑うその横顔は、どう見ても“心強い側”の人間じゃない。
——放っておけば危うい。
藤原は、確信してしまっていた。
「だから、勝手に沈まないでくださいって、言ってるんです」
視線を外し、窓の外に向ける。
感情を悟らせないように。
宏雅は黙って立っていたが、ほんの少しだけ息を吐いて笑った。
「……お前、たまに優しいよな」
「業務です」
「はいはい」
気の抜けた返事。それでも、さっきより少しだけ、声に温度が戻っていた。
――生きる方へ、引き戻せているだろうか。
藤原は、胸の内で静かに問い続けていた。
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