この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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三章

診察記録(二)

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■境界を越える

宏雅と、何度か夜を共にするようになってから、私は気づいてしまった。

彼は、誰かのぬくもりで体を温めるという、あまりにも脆い“生き延びる術”を手に入れてしまったのだ、と。

元より誘いの多い、眉目秀麗な男。
彼が少し微笑み、気まぐれに艶やかな視線を投げただけで、砂糖に群がる蟻のように、美しい女性たちが寄ってくる。夜の相手に困ることが無かった。

夜を越えるために。
朝まで眠るために。
悪夢を追い払うために。

“名前も知らない相手と夜を過ごし、朝の光と共に別れる刹那の恋”

あの榊宏雅が、気軽な恋を求めている、と。

そんな噂が、甘い期待と共にあっという間に、夜の世界を駆け巡った。夜はますます忙しくなり、彼が私の部屋を訪れる回数は減った。

それでも――涙を流す姿だけは、誰にも見せず、私にだけ預けてくれた。



■ウェッジウッド

ある時、彼の話を聞きながら紅茶を出した――そのカップが、思わぬ糸口になった。

「……これは、ウエッジウッド?」

不思議そうな声で、宏雅が指で縁を撫でる。

「そうよ。私、あのブランドが好きなの」

ハーブティーの香りが部屋いっぱいに広がり、少しだけ彼の呼吸が深くなる。

「フロレンティーン・ヴェルデ……菫が選んでくれたカップを、執務室で東堂に出していた」

彼女の名前を口にする時の宏雅の表情は、どこまでも柔らかく――最近は幸せそうになる。

「森のような色に、フェニックスなんかが描かれているデザインよね。神秘的で素敵だわ」

そう言うと、宏雅は急にすまなそうに目を伏せた。

「全部、捨てさせた。ウエッジウッドも、花瓶も……菫を思い出させるものは、全部」

「……宏雅」

名前を呼ぼうとした瞬間、彼は続けた。

「それなのに、珈琲を飲もうとすると、手が震えるんだ。あの漆黒を見ると……暗闇を、菫の沈んだ海を思わせて……気が変になる」

微かな震えを誤魔化すように、カップをもて遊ぶ長い指。

「仕事場で、そんなこと言えない。泣いてもいけない、怒ってもいけない……求められているのは、冷静に指示を出せて、感じ良く笑える男だ」

私は黙って頷くしかなかった。
彼が、どれほど孤独な演技を強いられているか、痛いほど伝わったから。宏雅はゆっくりと息を吸い、淡々と日常をなぞるように言った。

「朝起きて、着替えて、出社して……言われた通りに話を聞いているうちに、帰宅時間になる。すると――」

そして、静かに言葉を落とした。

「すると、夜が来る」

そこで、彼が少年のように嬉しそうに笑った。

「おやすみ、と言った菫に俺も返事をする。眠って朝起きると、おはよう、と菫が腕の中で笑うんだ。キスをすると『朝からそんな……』って、可愛く文句を言う。幸せな気持ちになる」

語りながら、宏雅の瞳には確かな愛情が浮かぶ。私は何も挟めず、その全てを受け止めるしかなかった。カップをソーサーに置く小さな音と共に――夢の終わりを告げるように、彼は言った。

「次の瞬間、俺はこの世界で目を覚ます……菫のいない世界で」

宏雅は、両手で顔を覆い俯いた。

「どっちが真実なのか……わからなくなる」

静寂の中で、乾いた笑い声が落ちる。

「長生きする……何のために?もう菫はいないのに」

私はその問いに、何も答えられなかった。
答えになり得る言葉が、この世に存在しないことを知っていたから。



■決断の時期

診察室の扉を閉めた瞬間、私は深く息を吐いた。

今日もまた、宏雅は笑った。
あの、壊れた心をごまかすような、それでいて周囲には完璧に見える、例の笑みで。

「大丈夫です。社長は最近、安定してきましたよ」

嬉しそうな秘書の言葉が、耳に残る。

――安定?あれが?

昨夜も悪夢に怯え、涙を落とし、明け方になることを恐れるように、私の手を握っていた彼が?

誰も知らない。
彼が、どれほど深い闇に沈んでいるか。
誰も見ようとしない。

ああ、私はもう……救えていない。
胸が張り裂けそうだった。

診察室を出ると――廊下の先で待っていた一人の男が、ゆっくり近づいて来た。
長い脚と青い瞳。天使のように茶色がかった少し長い金髪が、肩先で自由に跳ねている男。涼しげな顔立ちに笑みが浮かぶと、受付の子たちが「モデルみたい」と黄色い声で騒いでいた理由が、よくわかる。

「まだ、宏雅と寝てるんだ?」

とても軽い口調。けれど、言葉は毒針のように、真っ直ぐ刺さる。

「患者とのことは、秘匿義務がありますので」

できるだけ冷たく答え、横を通り抜けた。彼は、にっこりと微笑んだまま、何も言わない。

――彼は知っているのだ。
私が宏雅の部屋から朝帰りするとき、宏雅に後ろから抱きしめられ、口づけられている姿を見たのだから。

担当医師としてあるまじき行為。
言い訳の余地なんてない。

初対面のその時、彼――ジェイドは、笑い飛ばした。

「へえ。体の隅々まで……夜通し診察してた、ってわけか」
「羨ましいね、宏雅。次は俺も混ぜろよ?」

その品のない軽口に、返す言葉が出てこなかった私より先に、宏雅がふっと笑って言った。

「くだらないこと言うなよ。相変わらず下品だな、お前」

その後だった。
宏雅が、心の底から可笑しそうに、声をあげて笑ったのは。本物の笑み。
私の胸は熱くなり、目尻がじわりと滲んだ。ああ、笑った。この人が……笑う力を取り戻した。その喜びに涙が溢れた。

でも同時に、私は悟ったのだ。
私は、もう彼の支えになれていない。私の腕の中で眠れる夜があっても、彼の心は凍えたまま。誰かの肌を借りて孤独を誤魔化し、夜だけを必死に越えるようになってしまった宏雅の隣で、私だけが置き去りになっていた。

このまま、主治医でいてはいけない。
職業倫理ではなく、私自身の弱さと執着が、彼を余計に壊してしまう。

ジェイドの青い瞳が、私の迷いをすべて見透かすように輝いていた。

彼は何も知らないくせに。
何も背負っていないくせに。

だけど、残酷なくらいジェイドの方が、きっと宏雅の命を繋ぎとめられる。

もう限界。私は、主治医を降りるべきだ。
そう思った瞬間。胸の奥が、痛みとも安堵ともつかないもので、満たされた。

私は、宏雅の命を繋ぎ止める「最後の人」には、なれなかった。
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