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三章
流れる夜景
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地下駐車場でエンジンをかけた瞬間、重低音が宏雅の腹の底に響いた。
その音だけが、自分の輪郭を思い出させてくれる。
宏雅はシートに身を沈め、深く息を吸ってから、車を出した。ハンドルを切れば、車は従順に応える。そのシンプルさが、今の自分を慰めてくれた。
――どこかへ行きたかった。
でも、どこへ?
会社でも家でもない場所。
だが、心が求める場所はどこにも見当たらない。
……なんで、こんなに何もかも見つからないんだ。
愛する人も。
生きる理由も。
かつて確かに自分の手の中にあったはずのものが、砂のように指の隙間から零れ落ちてしまった。
首都高に入ると、驚くほど空いていた。ヘッドライトの白が流れ、街の灯りが線になって過ぎていく。どこまでも走っていける気がした。
そのとき、ハンズフリーに繋いだ携帯が鳴った。
「……宏雅、いま車なの?」
柔らかく甘い、落ち着いた響き。
杏奈の声だ。
「やあ、杏奈」
珍しいな、と思った。彼女から電話が来るなんて。
「どこを走ってるの?」
「うーん……どこだろう。適当に走らせてるよ」
本当に行き先はなかった。ただ、止まってしまったら、あらゆるものが押し寄せてくる気がしていた。電話越しに、杏奈が息を吸う音が伝わった。
「そう……私を迎えに来てくれない?」
困っているような、迷っているような、甘えるような声。
「構わないよ。今どこだい?」
返事をしながら、ほんの少しだけハンドルを握る手に、力が入った。他人の期待に応えることなら、いつだって慣れている。
少しの沈黙の後、杏奈が告げた。
「箱根よ」
一瞬、宏雅はスピードを落とした。
「箱根?」
距離も時間も常識も、軽く飛び越えたその場所に、彼女は一人でいるというのか。
夜の首都高を走りながら、宏雅は言いようのない空虚さの中、行き先をようやくひとつだけ手にした。
だが、それが救いかどうかは、全くわからなかった。
『……社長、かなり危うい様子でした』
藤原の声が頭から離れないまま、杏奈は宏雅に電話をかけたので、彼が出た時は心底ほっとした。
「都内からだと、一時間半くらいかしら?」
「俺の新車、杏奈はまだ乗ってないよな。もっと早く着くと思うよ。いいエンジン積んでるんだ」
宏雅の声が弾んだ。子供が新しい玩具を自慢するような声。
「あら、そうなの?もう誰か乗せたってわけね。特別な人?」
杏奈が羨ましそうに笑う。
「全然。ジェイドが呼んだ綺麗どころさ。派手に買物して、遊んで……まあ、それなりに、ね」
「ふうん。男の武勇伝ってやつを、また積み重ねたのね。耳が潰れそうな艶聞だろうから、聞かないでおこうっと」
杏奈の軽口に、宏雅が笑った。
「俺が主犯じゃないぞ。アテンドはあいつだ」
「いかにも、彼が考えそうなプランね。悪いお友達ほど、縁が切れないものよ」
ふふ、と杏奈が笑った。電話は切らないで、ずっと喋っておこうかと杏奈は思う。宏雅が、馬鹿なことをしでかさないように。
「ご飯は食べたの?」
「ああ、ピザを……会社で。ジェイドと藤原の三人で」
「楽しそう。学生みたいじゃない」
杏奈の笑い声が、流れる夜景を優しく揺らした。
宿のロビーは静まり返っていた。
深夜の空気は澄んでいて、照明の落とされた空間に、二人の影だけが伸びている。
「箱根って……強羅だったのかよ。山道、結構大変だったぞ」
宏雅は、笑いながら文句を溢す。その声に、杏奈は気だるげな笑みを返した。
「箱根って言ったら、私的には強羅なのよ。箱根湯元は、実家の別荘があるから鬼門なの」
鼻に少し皺を寄せて見せる仕草は、少女のようで可笑しい。宏雅は、ふっと肩の力が抜けるように笑った。
「飛ばして来たけど、さすがに疲れたな」
長距離を走り抜けた身体をほぐすように、宏雅が肩を軽く回す。ハンドルを握っていた指は、かすかに熱を帯びていた。
杏奈はその様子を見て、ふっと微笑む。
そして、両腕を広げてみせた。
「オッケー。じゃあ……特別に、あなたへ褒美を与えましょう」
その言い方は軽やかで、でもどこか柔らかくて――“無事に来てくれてよかった”という想いが、言葉の奥に滲んでいた。
宏雅はその気配に気づいたのか、くすくすと笑いながら、杏奈を抱きしめた。深夜の静けさの中で、二人の影がゆっくりと重なる。
抱き寄せた腕に、杏奈の細い肩の温もりが触れる。杏奈は身体を預け、ふわりと笑った。
その笑みが、長い夜を彷徨ってきた宏雅の胸を、不意に掴んだ。
――気づけば、唇が触れていた。
深く求め合うわけでも、激しく奪うわけでもなく、ただ存在を確かめるような、甘い口づけ。
杏奈は目を閉じ、そのままそっと宏雅の背に手を回す。
「……無事に来てくれて、ありがとう」
吐息のように漏れた言葉が、宏雅の胸にゆっくりと沈んでいった。宏雅は、ふっと杏奈の肩へ体重を預けた。力ではなく、気持ちのほうが寄りかかってくる。張り詰めていた糸が切れたように、息が深く落ちる。
杏奈は驚いたが、すぐに腕を腰に回して支えた。その優しさに、宏雅の身体が僅かに緩む。
二人でエレベーターに乗り込むと、鏡越しに並ぶ姿が恋人めいて見え、杏奈の胸がちくりと痛んだ。
彼の心は、どこか遠いままだと感じた。
その音だけが、自分の輪郭を思い出させてくれる。
宏雅はシートに身を沈め、深く息を吸ってから、車を出した。ハンドルを切れば、車は従順に応える。そのシンプルさが、今の自分を慰めてくれた。
――どこかへ行きたかった。
でも、どこへ?
会社でも家でもない場所。
だが、心が求める場所はどこにも見当たらない。
……なんで、こんなに何もかも見つからないんだ。
愛する人も。
生きる理由も。
かつて確かに自分の手の中にあったはずのものが、砂のように指の隙間から零れ落ちてしまった。
首都高に入ると、驚くほど空いていた。ヘッドライトの白が流れ、街の灯りが線になって過ぎていく。どこまでも走っていける気がした。
そのとき、ハンズフリーに繋いだ携帯が鳴った。
「……宏雅、いま車なの?」
柔らかく甘い、落ち着いた響き。
杏奈の声だ。
「やあ、杏奈」
珍しいな、と思った。彼女から電話が来るなんて。
「どこを走ってるの?」
「うーん……どこだろう。適当に走らせてるよ」
本当に行き先はなかった。ただ、止まってしまったら、あらゆるものが押し寄せてくる気がしていた。電話越しに、杏奈が息を吸う音が伝わった。
「そう……私を迎えに来てくれない?」
困っているような、迷っているような、甘えるような声。
「構わないよ。今どこだい?」
返事をしながら、ほんの少しだけハンドルを握る手に、力が入った。他人の期待に応えることなら、いつだって慣れている。
少しの沈黙の後、杏奈が告げた。
「箱根よ」
一瞬、宏雅はスピードを落とした。
「箱根?」
距離も時間も常識も、軽く飛び越えたその場所に、彼女は一人でいるというのか。
夜の首都高を走りながら、宏雅は言いようのない空虚さの中、行き先をようやくひとつだけ手にした。
だが、それが救いかどうかは、全くわからなかった。
『……社長、かなり危うい様子でした』
藤原の声が頭から離れないまま、杏奈は宏雅に電話をかけたので、彼が出た時は心底ほっとした。
「都内からだと、一時間半くらいかしら?」
「俺の新車、杏奈はまだ乗ってないよな。もっと早く着くと思うよ。いいエンジン積んでるんだ」
宏雅の声が弾んだ。子供が新しい玩具を自慢するような声。
「あら、そうなの?もう誰か乗せたってわけね。特別な人?」
杏奈が羨ましそうに笑う。
「全然。ジェイドが呼んだ綺麗どころさ。派手に買物して、遊んで……まあ、それなりに、ね」
「ふうん。男の武勇伝ってやつを、また積み重ねたのね。耳が潰れそうな艶聞だろうから、聞かないでおこうっと」
杏奈の軽口に、宏雅が笑った。
「俺が主犯じゃないぞ。アテンドはあいつだ」
「いかにも、彼が考えそうなプランね。悪いお友達ほど、縁が切れないものよ」
ふふ、と杏奈が笑った。電話は切らないで、ずっと喋っておこうかと杏奈は思う。宏雅が、馬鹿なことをしでかさないように。
「ご飯は食べたの?」
「ああ、ピザを……会社で。ジェイドと藤原の三人で」
「楽しそう。学生みたいじゃない」
杏奈の笑い声が、流れる夜景を優しく揺らした。
宿のロビーは静まり返っていた。
深夜の空気は澄んでいて、照明の落とされた空間に、二人の影だけが伸びている。
「箱根って……強羅だったのかよ。山道、結構大変だったぞ」
宏雅は、笑いながら文句を溢す。その声に、杏奈は気だるげな笑みを返した。
「箱根って言ったら、私的には強羅なのよ。箱根湯元は、実家の別荘があるから鬼門なの」
鼻に少し皺を寄せて見せる仕草は、少女のようで可笑しい。宏雅は、ふっと肩の力が抜けるように笑った。
「飛ばして来たけど、さすがに疲れたな」
長距離を走り抜けた身体をほぐすように、宏雅が肩を軽く回す。ハンドルを握っていた指は、かすかに熱を帯びていた。
杏奈はその様子を見て、ふっと微笑む。
そして、両腕を広げてみせた。
「オッケー。じゃあ……特別に、あなたへ褒美を与えましょう」
その言い方は軽やかで、でもどこか柔らかくて――“無事に来てくれてよかった”という想いが、言葉の奥に滲んでいた。
宏雅はその気配に気づいたのか、くすくすと笑いながら、杏奈を抱きしめた。深夜の静けさの中で、二人の影がゆっくりと重なる。
抱き寄せた腕に、杏奈の細い肩の温もりが触れる。杏奈は身体を預け、ふわりと笑った。
その笑みが、長い夜を彷徨ってきた宏雅の胸を、不意に掴んだ。
――気づけば、唇が触れていた。
深く求め合うわけでも、激しく奪うわけでもなく、ただ存在を確かめるような、甘い口づけ。
杏奈は目を閉じ、そのままそっと宏雅の背に手を回す。
「……無事に来てくれて、ありがとう」
吐息のように漏れた言葉が、宏雅の胸にゆっくりと沈んでいった。宏雅は、ふっと杏奈の肩へ体重を預けた。力ではなく、気持ちのほうが寄りかかってくる。張り詰めていた糸が切れたように、息が深く落ちる。
杏奈は驚いたが、すぐに腕を腰に回して支えた。その優しさに、宏雅の身体が僅かに緩む。
二人でエレベーターに乗り込むと、鏡越しに並ぶ姿が恋人めいて見え、杏奈の胸がちくりと痛んだ。
彼の心は、どこか遠いままだと感じた。
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