この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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三章

波除(七)

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「お食事、始めさせてもろても、宜しいでしょうか?」

絶妙なタイミングで店から声がかかり、次々と膳が運ばれて、料理の説明がなされた。

「美味しい。見た目も素敵だし……こういうの食べると、日本に帰国した甲斐があるって感じるわ」

感動したように言う杏奈の声に、宏雅が優しく笑った。

「やだ……子供っぽかった?」

もぐもぐしている口元を、手で隠す杏奈。

「いや、可愛いなと思って」

つい、いつもの調子で答える宏雅。
その一瞬の甘い空気を、見逃さない岩崎会長が口を挟む。

「良い雰囲気だな。まるで長年付き合ってるみたいじゃないか」

「お父様……ゆっくり食べさせてよ」

杏奈は、少し赤くなりつつ隣を睨んだ。

「杏奈さんは、アメリカでお仕事をされているとか。それは続けるつもりで?」

財閥当主を支える気があるのか?と、同義語の質問をする榊会長。

「ええ。やり甲斐があります。求められるうちは、ぜひ続けたいですね」

杏奈は、財閥界に君臨する榊会長の言葉を、さらりと跳ね除けた。

「医師なんて、日本でもできる仕事だな。現に杏奈は、宏雅君の主治医もしてたんだろう?」

とりなすように岩崎会長が言う。

「医師には、秘匿義務があります」

ぱくぱくと食べつつ、父親につれない態度で杏奈が答える。面倒な相手に対しても、あしらい慣れてる感じがあり、美しい所作で食べる姿は、健康的で感じが良かった。

「――ふむ」

どこか納得したように、榊会長が顎に手をやる。会長が、何かを気に入った時に見せる癖だった。

……これは。
東堂が、はっとしたように顔を上げる。
同時に東堂が宏雅を見ると、宏雅も同じように榊会長を見つめていた。
しかし宏雅は、いつもの飄々とした雰囲気ではなく、明らかに『しまった』という表情だった。

「良いな」

榊会長が頷くのに、かなり被せ気味に、宏雅が声を発した。

「――いや、良く無い」

榊会長は、煙草を一本取り出して、とんとんと箱を軽く叩いた。

「……どんなところが良くないんだ、宏雅?こんな素敵なお嬢さん、お前には勿体ないくらいだ」

火をつけて、ふうっと煙を吐いた会長は、滅多に見せない笑顔を浮かべた。

「――決まりだな」



父親同士の会話は、いつの間にか仕事の話へと移っていった。榊会長が煙草の火を揉み消し、軽く手を振る。

「お前たち、帰って良いぞ」

まるで、盤面を片づけるかのような、一方的な“退室”の指示。宏雅も杏奈も、逆らう術なくその場を辞し、静かな廊下を抜けて庭へ出た。

夜風が頬を撫でる。
朧月が浮かび、風は湿った気配を含んでいる。明日は、きっと雨だ。

「あの……ごめんなさい。きっと私のせいね」

杏奈は、手を胸の前でそっと組み、困ったように言った。

「もっと……感じ悪く振舞ったり、何か欠点になるようなことを言えば、良かったのかも……」

申し訳なさと戸惑いが入り混じった声音。それでも所作は上品で、ほんの少し肩を落としながら宏雅を見上げる顔は、美しかった。

「別に、お前のせいじゃないよ」

そう言いながら、宏雅は視線を月へと彷徨わせた。微笑を浮かべているのに、どこか敗北感が滲む。

父親とのやり取りは、まるで詰将棋のようだった。最後まで、つけられると思っていたはずの“仮面”は、父親の一言であっさり剥がされた。

「……どうせ、決められてた結果だ」

二人の間に、ため息と沈黙が落ちた。

この夜の決定は、すぐに動き出す。

後日、昼に――。
正式な“改めてのお見合いの場”、双方の合意書めいたものを取り交わす席が設けられることが、その場で決められた。

困惑を隠せない宏雅と、責任を感じて視線を落とす杏奈。その一方で、父親同士は牡丹の間の座卓で、実に和やかに、まるで長年の盟友のように語り合っている。

そしてその全て。

二人のぎこちない様子も、父親たちの結託めいた笑いも――部屋付きの中居たちの間で噂となり、ひそひそ声はやがて、葵の妹の耳へと届いていくのだった。



 *

わざと時間潰して、遅刻していきはった。

……あの人らしいわ。

うちのあおちゃんが店に居らんの、知らんまま行きはったんやな。姿を見た中居が噂してた。

「相変わらず、榊社長て男前やなあ。あんな人、現実におるんやなあ」

うちも思う。
ほんま、ずるいくらい絵になる男やわ。

それに。
お見合いの席で、どうも“あおちゃんの話題”が出たらしい。
もちろん、中居らは知らん。
あおちゃんが、銀座でママしてることも、どんな顔して座ってるかも。

せやから――。

『榊社長には、銀座に贔屓の女がおるらしい』

くらいの大雑把な噂が、流れてきただけや。

けど……うちは分かる。
それ、あんたのことやろ、あおちゃん。

……けどな。
榊さんの思惑は外れて、話は思ったより悪い方向へ行ってるらしい。親同士が乗り気で、しかも財閥当主同士が“良い”と思うたら……結婚は、もう避けられへんのちゃうかって。

中居たちも言うてた。

『岩崎さんとこのお嬢さん、美人で品があって、所作が綺麗やから……榊会長さん、絶対気に入るわ』

そら、そうやろ。
うちかて見たただけで分かる。きっと完璧美人なんやろな。財閥の家に嫁ぐん、ぴたりと似合う。

……あおちゃん。
王手、かかりそうやで。

あの男前……誰かに、ほんまに持ってかれてしまうかもしれへん。

――あかんえ。

あんたほど、あの男を想う人、おらへんのに。
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