104 / 131
三章
波除(七)
しおりを挟む
「お食事、始めさせてもろても、宜しいでしょうか?」
絶妙なタイミングで店から声がかかり、次々と膳が運ばれて、料理の説明がなされた。
「美味しい。見た目も素敵だし……こういうの食べると、日本に帰国した甲斐があるって感じるわ」
感動したように言う杏奈の声に、宏雅が優しく笑った。
「やだ……子供っぽかった?」
もぐもぐしている口元を、手で隠す杏奈。
「いや、可愛いなと思って」
つい、いつもの調子で答える宏雅。
その一瞬の甘い空気を、見逃さない岩崎会長が口を挟む。
「良い雰囲気だな。まるで長年付き合ってるみたいじゃないか」
「お父様……ゆっくり食べさせてよ」
杏奈は、少し赤くなりつつ隣を睨んだ。
「杏奈さんは、アメリカでお仕事をされているとか。それは続けるつもりで?」
財閥当主を支える気があるのか?と、同義語の質問をする榊会長。
「ええ。やり甲斐があります。求められるうちは、ぜひ続けたいですね」
杏奈は、財閥界に君臨する榊会長の言葉を、さらりと跳ね除けた。
「医師なんて、日本でもできる仕事だな。現に杏奈は、宏雅君の主治医もしてたんだろう?」
とりなすように岩崎会長が言う。
「医師には、秘匿義務があります」
ぱくぱくと食べつつ、父親につれない態度で杏奈が答える。面倒な相手に対しても、あしらい慣れてる感じがあり、美しい所作で食べる姿は、健康的で感じが良かった。
「――ふむ」
どこか納得したように、榊会長が顎に手をやる。会長が、何かを気に入った時に見せる癖だった。
……これは。
東堂が、はっとしたように顔を上げる。
同時に東堂が宏雅を見ると、宏雅も同じように榊会長を見つめていた。
しかし宏雅は、いつもの飄々とした雰囲気ではなく、明らかに『しまった』という表情だった。
「良いな」
榊会長が頷くのに、かなり被せ気味に、宏雅が声を発した。
「――いや、良く無い」
榊会長は、煙草を一本取り出して、とんとんと箱を軽く叩いた。
「……どんなところが良くないんだ、宏雅?こんな素敵なお嬢さん、お前には勿体ないくらいだ」
火をつけて、ふうっと煙を吐いた会長は、滅多に見せない笑顔を浮かべた。
「――決まりだな」
父親同士の会話は、いつの間にか仕事の話へと移っていった。榊会長が煙草の火を揉み消し、軽く手を振る。
「お前たち、帰って良いぞ」
まるで、盤面を片づけるかのような、一方的な“退室”の指示。宏雅も杏奈も、逆らう術なくその場を辞し、静かな廊下を抜けて庭へ出た。
夜風が頬を撫でる。
朧月が浮かび、風は湿った気配を含んでいる。明日は、きっと雨だ。
「あの……ごめんなさい。きっと私のせいね」
杏奈は、手を胸の前でそっと組み、困ったように言った。
「もっと……感じ悪く振舞ったり、何か欠点になるようなことを言えば、良かったのかも……」
申し訳なさと戸惑いが入り混じった声音。それでも所作は上品で、ほんの少し肩を落としながら宏雅を見上げる顔は、美しかった。
「別に、お前のせいじゃないよ」
そう言いながら、宏雅は視線を月へと彷徨わせた。微笑を浮かべているのに、どこか敗北感が滲む。
父親とのやり取りは、まるで詰将棋のようだった。最後まで、つけられると思っていたはずの“仮面”は、父親の一言であっさり剥がされた。
「……どうせ、決められてた結果だ」
二人の間に、ため息と沈黙が落ちた。
この夜の決定は、すぐに動き出す。
後日、昼に――。
正式な“改めてのお見合いの場”、双方の合意書めいたものを取り交わす席が設けられることが、その場で決められた。
困惑を隠せない宏雅と、責任を感じて視線を落とす杏奈。その一方で、父親同士は牡丹の間の座卓で、実に和やかに、まるで長年の盟友のように語り合っている。
そしてその全て。
二人のぎこちない様子も、父親たちの結託めいた笑いも――部屋付きの中居たちの間で噂となり、ひそひそ声はやがて、葵の妹の耳へと届いていくのだった。
*
わざと時間潰して、遅刻していきはった。
……あの人らしいわ。
うちのあおちゃんが店に居らんの、知らんまま行きはったんやな。姿を見た中居が噂してた。
「相変わらず、榊社長て男前やなあ。あんな人、現実におるんやなあ」
うちも思う。
ほんま、ずるいくらい絵になる男やわ。
それに。
お見合いの席で、どうも“あおちゃんの話題”が出たらしい。
もちろん、中居らは知らん。
あおちゃんが、銀座でママしてることも、どんな顔して座ってるかも。
せやから――。
『榊社長には、銀座に贔屓の女がおるらしい』
くらいの大雑把な噂が、流れてきただけや。
けど……うちは分かる。
それ、あんたのことやろ、あおちゃん。
……けどな。
榊さんの思惑は外れて、話は思ったより悪い方向へ行ってるらしい。親同士が乗り気で、しかも財閥当主同士が“良い”と思うたら……結婚は、もう避けられへんのちゃうかって。
中居たちも言うてた。
『岩崎さんとこのお嬢さん、美人で品があって、所作が綺麗やから……榊会長さん、絶対気に入るわ』
そら、そうやろ。
うちかて見たただけで分かる。きっと完璧美人なんやろな。財閥の家に嫁ぐん、ぴたりと似合う。
……あおちゃん。
王手、かかりそうやで。
あの男前……誰かに、ほんまに持ってかれてしまうかもしれへん。
――あかんえ。
あんたほど、あの男を想う人、おらへんのに。
絶妙なタイミングで店から声がかかり、次々と膳が運ばれて、料理の説明がなされた。
「美味しい。見た目も素敵だし……こういうの食べると、日本に帰国した甲斐があるって感じるわ」
感動したように言う杏奈の声に、宏雅が優しく笑った。
「やだ……子供っぽかった?」
もぐもぐしている口元を、手で隠す杏奈。
「いや、可愛いなと思って」
つい、いつもの調子で答える宏雅。
その一瞬の甘い空気を、見逃さない岩崎会長が口を挟む。
「良い雰囲気だな。まるで長年付き合ってるみたいじゃないか」
「お父様……ゆっくり食べさせてよ」
杏奈は、少し赤くなりつつ隣を睨んだ。
「杏奈さんは、アメリカでお仕事をされているとか。それは続けるつもりで?」
財閥当主を支える気があるのか?と、同義語の質問をする榊会長。
「ええ。やり甲斐があります。求められるうちは、ぜひ続けたいですね」
杏奈は、財閥界に君臨する榊会長の言葉を、さらりと跳ね除けた。
「医師なんて、日本でもできる仕事だな。現に杏奈は、宏雅君の主治医もしてたんだろう?」
とりなすように岩崎会長が言う。
「医師には、秘匿義務があります」
ぱくぱくと食べつつ、父親につれない態度で杏奈が答える。面倒な相手に対しても、あしらい慣れてる感じがあり、美しい所作で食べる姿は、健康的で感じが良かった。
「――ふむ」
どこか納得したように、榊会長が顎に手をやる。会長が、何かを気に入った時に見せる癖だった。
……これは。
東堂が、はっとしたように顔を上げる。
同時に東堂が宏雅を見ると、宏雅も同じように榊会長を見つめていた。
しかし宏雅は、いつもの飄々とした雰囲気ではなく、明らかに『しまった』という表情だった。
「良いな」
榊会長が頷くのに、かなり被せ気味に、宏雅が声を発した。
「――いや、良く無い」
榊会長は、煙草を一本取り出して、とんとんと箱を軽く叩いた。
「……どんなところが良くないんだ、宏雅?こんな素敵なお嬢さん、お前には勿体ないくらいだ」
火をつけて、ふうっと煙を吐いた会長は、滅多に見せない笑顔を浮かべた。
「――決まりだな」
父親同士の会話は、いつの間にか仕事の話へと移っていった。榊会長が煙草の火を揉み消し、軽く手を振る。
「お前たち、帰って良いぞ」
まるで、盤面を片づけるかのような、一方的な“退室”の指示。宏雅も杏奈も、逆らう術なくその場を辞し、静かな廊下を抜けて庭へ出た。
夜風が頬を撫でる。
朧月が浮かび、風は湿った気配を含んでいる。明日は、きっと雨だ。
「あの……ごめんなさい。きっと私のせいね」
杏奈は、手を胸の前でそっと組み、困ったように言った。
「もっと……感じ悪く振舞ったり、何か欠点になるようなことを言えば、良かったのかも……」
申し訳なさと戸惑いが入り混じった声音。それでも所作は上品で、ほんの少し肩を落としながら宏雅を見上げる顔は、美しかった。
「別に、お前のせいじゃないよ」
そう言いながら、宏雅は視線を月へと彷徨わせた。微笑を浮かべているのに、どこか敗北感が滲む。
父親とのやり取りは、まるで詰将棋のようだった。最後まで、つけられると思っていたはずの“仮面”は、父親の一言であっさり剥がされた。
「……どうせ、決められてた結果だ」
二人の間に、ため息と沈黙が落ちた。
この夜の決定は、すぐに動き出す。
後日、昼に――。
正式な“改めてのお見合いの場”、双方の合意書めいたものを取り交わす席が設けられることが、その場で決められた。
困惑を隠せない宏雅と、責任を感じて視線を落とす杏奈。その一方で、父親同士は牡丹の間の座卓で、実に和やかに、まるで長年の盟友のように語り合っている。
そしてその全て。
二人のぎこちない様子も、父親たちの結託めいた笑いも――部屋付きの中居たちの間で噂となり、ひそひそ声はやがて、葵の妹の耳へと届いていくのだった。
*
わざと時間潰して、遅刻していきはった。
……あの人らしいわ。
うちのあおちゃんが店に居らんの、知らんまま行きはったんやな。姿を見た中居が噂してた。
「相変わらず、榊社長て男前やなあ。あんな人、現実におるんやなあ」
うちも思う。
ほんま、ずるいくらい絵になる男やわ。
それに。
お見合いの席で、どうも“あおちゃんの話題”が出たらしい。
もちろん、中居らは知らん。
あおちゃんが、銀座でママしてることも、どんな顔して座ってるかも。
せやから――。
『榊社長には、銀座に贔屓の女がおるらしい』
くらいの大雑把な噂が、流れてきただけや。
けど……うちは分かる。
それ、あんたのことやろ、あおちゃん。
……けどな。
榊さんの思惑は外れて、話は思ったより悪い方向へ行ってるらしい。親同士が乗り気で、しかも財閥当主同士が“良い”と思うたら……結婚は、もう避けられへんのちゃうかって。
中居たちも言うてた。
『岩崎さんとこのお嬢さん、美人で品があって、所作が綺麗やから……榊会長さん、絶対気に入るわ』
そら、そうやろ。
うちかて見たただけで分かる。きっと完璧美人なんやろな。財閥の家に嫁ぐん、ぴたりと似合う。
……あおちゃん。
王手、かかりそうやで。
あの男前……誰かに、ほんまに持ってかれてしまうかもしれへん。
――あかんえ。
あんたほど、あの男を想う人、おらへんのに。
0
あなたにおすすめの小説
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
夏目萌
恋愛
過去の恋愛が原因で、「女にだらしない男」を何よりも嫌う向坂 来海(29)。
一方、御曹司で誰にでも優しく、来る者拒まず──けれど、誰にも本気になったことのない羽柴 充輝(29)。
本来なら交わるはずのなかった二人は、ある出来事をきっかけに関わるようになる。
他の女性とは違い媚びることも期待することもない来海の態度に、充輝は次第に強く惹かれていく。
「誰にも本気にならない」はずだった彼の、一途すぎる想いに触れ、恋を信じることを避けてきた来海の心は少しずつ揺らぎ始めていき――。
不器用で焦れったくて、簡単には進まない二人の恋の行方は……。
他サイト様にも掲載中
その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜
濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。
男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。
2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。
なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!?
※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる