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三章
燭光(二)
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「あの……本当に、申し訳なく……」
言いながら、自分でも情けなくなる。
こんな高級車。まさかの助手席。同乗させてくれる――それだけなのに、そわそわして落ち着かない。
図々しいんじゃないかしら。
そう思って百合佳は、もじもじと手を膝の上で組んだ。榊宏雅は、その様子を面白そうに眺めて、さらりと言った。
「どうせ同じ方向だ」
言い切り。気遣いでも同情でもない。事実を述べているだけ、という口調。
メタリックブルーのカブリオレ911のエンジンが、低く唸る。一瞬、胸の奥まで振動が伝わった。
宏雅が、百合佳のヘッドレスト近くに手を置き、バックのために後ろを向いた。
――近い。
どきり、と心臓が跳ねる。スーツの衣擦れ。男らしい体温。ほんのりと混じる煙草の匂い。
嫌じゃない。それどころか、安心する匂いだと思ってしまった自分に、少し驚く。
車が走り出し、会話を交わすうちに、彼のオフィスが青山だと知った。本当に同じ方向だったと、ほっとする。偶然が重なっているだけなのに、どこか運命めいたものを感じてしまうのは……疲れているせいだろうか。
一緒にランチする流れになり、彼は迷いなく誰かに電話をかけた。スピーカーホン越しに、短く明確な声。
「ランチ、食べてからもどる」
余計な説明はしない。
許可も取らない、ただ告げるだけ。
「お仕事、大丈夫ですか?」
思わず聞いてしまうと、彼はハンドルから目を離さずに答えた。
「俺の会社だ。誰にも文句は言わせない」
――強い。
威張っているわけでも、虚勢でもない。
それが、当たり前だと言わんばかりの、自信。
女なら惹かれてしまう。
そう断言できる横顔だった。
「……社長さん、でしたか」
ようやく腑に落ちた。
さっき専務と対等に話していた理由。
「何してると思った?」
少しだけ、意地悪な響き。
「見た目が素敵だから、芸能人」
冗談めかして言ったつもりだった。
でも、彼はすぐに気づいたように笑った。
「また……適当に言って。俺みたいなジジイを転がそうとするなよ」
口の端が上がり、唇がきれいな弧を描く。卑下するには、あまりにも魅力的すぎる。返す言葉を探していると、彼が続ける。
「……そこ、黙るか?」
からかうような声。でも、目は優しい。
彼が可笑しそうに笑うから、百合佳まで、つられて笑ってしまった。
――ああ、だめだ。
この人といると、警戒心がほどけるのが早すぎる。
短い時間。ただの偶然の同乗。
それだけのはずなのに。
胸の奥に、暖かく灯るものがある。
それが恋だと気づくには、そう時間はかからなかった。
朝番組の生活リズムを話すと、宏雅は思わず眉を上げた。
「夜九時迄に寝る?小学生みたいだな……」
からかうようでいて、どこか感心した響きも混じっている。その声色に、百合佳は少しだけ肩の力が抜けた。
「健康には良さそうだけど、彼氏と時間合わせるの大変だろう?」
恋人がいる前提で、自然に話す。
探るでもなく、軽く踏み込んでくる距離感。
――この人、駆け引きしないんだ。
そう思って、百合佳は開き直った。
「彼氏いませんから。榊さんの彼女は?」
少しだけ、胸が高鳴る。
答えを気にしている自分が、もういる。
「……いるような、いないような」
曖昧な返事。
でも、誤魔化すための笑いはなかった。
「何ですか、それ?」
思わず、素直に突っ込む。
「朝まで過ごして貰えない。だから俺は不眠症になる」
冗談めかしているようで、どこか本気の影がある。一人で寝たほうが、よほど熟睡できるのでは?そう思いながらも、百合佳は続きを促してしまう。
「不眠症?」
「……夢を見たくないんだ」
その声が、少し低くなった。
さっきまでの余裕が、ほんの一瞬だけ消える。
「嫌な夢を見るから?」
「嫌というか、幸せすぎて……つらい。幸せな昔の時間を夢に見る。でも起きるとそれは過去の話で、俺は一人この世界で……息もできなくなる」
――あ。
言葉が胸に落ちた。軽薄でも、器用でもない。これは、思わず零れた本音だ。
ため息ひとつ。
「━━忘れてくれ。会ったばかりで、こんな暗い話。するべきじゃなかった」
言い切るように、彼が口元を引き締める。後悔しているのが、はっきりわかる。
赤信号が長い。
綺麗な指が、無意識にハンドルをトントンと叩く。
この人……今、すごく無防備だ。
百合佳は、少しだけ間を置いてから、わざと軽く言った。
「……軽薄な男って印象が拭えて、かえって聞けて良かったかも」
冗談に逃がしてあげるつもりだった。すると宏雅は、きょとんとした顔で、百合佳の方を見つめた。
……え。可愛い。
大人の男のはずなのに、今は不意を突かれたみたいな表情をしている。
「優しいんだな、百合佳って……」
ゆるりと甘く微笑む。
そして、自然と名前を呼び捨てにされた。
その瞬間、心臓がどきんと音を立てた。
――ああ、だめだ。
この人も私のことを、少し特別な場所に置き始めている。そして私は、その変化を嬉しいと思ってしまっている。
互いに気づかないふりをしながら、確実に恋に足を踏み入れていく。
ガードが下がった彼の横顔を見ながら、百合佳は静かに、そう確信していた。
言いながら、自分でも情けなくなる。
こんな高級車。まさかの助手席。同乗させてくれる――それだけなのに、そわそわして落ち着かない。
図々しいんじゃないかしら。
そう思って百合佳は、もじもじと手を膝の上で組んだ。榊宏雅は、その様子を面白そうに眺めて、さらりと言った。
「どうせ同じ方向だ」
言い切り。気遣いでも同情でもない。事実を述べているだけ、という口調。
メタリックブルーのカブリオレ911のエンジンが、低く唸る。一瞬、胸の奥まで振動が伝わった。
宏雅が、百合佳のヘッドレスト近くに手を置き、バックのために後ろを向いた。
――近い。
どきり、と心臓が跳ねる。スーツの衣擦れ。男らしい体温。ほんのりと混じる煙草の匂い。
嫌じゃない。それどころか、安心する匂いだと思ってしまった自分に、少し驚く。
車が走り出し、会話を交わすうちに、彼のオフィスが青山だと知った。本当に同じ方向だったと、ほっとする。偶然が重なっているだけなのに、どこか運命めいたものを感じてしまうのは……疲れているせいだろうか。
一緒にランチする流れになり、彼は迷いなく誰かに電話をかけた。スピーカーホン越しに、短く明確な声。
「ランチ、食べてからもどる」
余計な説明はしない。
許可も取らない、ただ告げるだけ。
「お仕事、大丈夫ですか?」
思わず聞いてしまうと、彼はハンドルから目を離さずに答えた。
「俺の会社だ。誰にも文句は言わせない」
――強い。
威張っているわけでも、虚勢でもない。
それが、当たり前だと言わんばかりの、自信。
女なら惹かれてしまう。
そう断言できる横顔だった。
「……社長さん、でしたか」
ようやく腑に落ちた。
さっき専務と対等に話していた理由。
「何してると思った?」
少しだけ、意地悪な響き。
「見た目が素敵だから、芸能人」
冗談めかして言ったつもりだった。
でも、彼はすぐに気づいたように笑った。
「また……適当に言って。俺みたいなジジイを転がそうとするなよ」
口の端が上がり、唇がきれいな弧を描く。卑下するには、あまりにも魅力的すぎる。返す言葉を探していると、彼が続ける。
「……そこ、黙るか?」
からかうような声。でも、目は優しい。
彼が可笑しそうに笑うから、百合佳まで、つられて笑ってしまった。
――ああ、だめだ。
この人といると、警戒心がほどけるのが早すぎる。
短い時間。ただの偶然の同乗。
それだけのはずなのに。
胸の奥に、暖かく灯るものがある。
それが恋だと気づくには、そう時間はかからなかった。
朝番組の生活リズムを話すと、宏雅は思わず眉を上げた。
「夜九時迄に寝る?小学生みたいだな……」
からかうようでいて、どこか感心した響きも混じっている。その声色に、百合佳は少しだけ肩の力が抜けた。
「健康には良さそうだけど、彼氏と時間合わせるの大変だろう?」
恋人がいる前提で、自然に話す。
探るでもなく、軽く踏み込んでくる距離感。
――この人、駆け引きしないんだ。
そう思って、百合佳は開き直った。
「彼氏いませんから。榊さんの彼女は?」
少しだけ、胸が高鳴る。
答えを気にしている自分が、もういる。
「……いるような、いないような」
曖昧な返事。
でも、誤魔化すための笑いはなかった。
「何ですか、それ?」
思わず、素直に突っ込む。
「朝まで過ごして貰えない。だから俺は不眠症になる」
冗談めかしているようで、どこか本気の影がある。一人で寝たほうが、よほど熟睡できるのでは?そう思いながらも、百合佳は続きを促してしまう。
「不眠症?」
「……夢を見たくないんだ」
その声が、少し低くなった。
さっきまでの余裕が、ほんの一瞬だけ消える。
「嫌な夢を見るから?」
「嫌というか、幸せすぎて……つらい。幸せな昔の時間を夢に見る。でも起きるとそれは過去の話で、俺は一人この世界で……息もできなくなる」
――あ。
言葉が胸に落ちた。軽薄でも、器用でもない。これは、思わず零れた本音だ。
ため息ひとつ。
「━━忘れてくれ。会ったばかりで、こんな暗い話。するべきじゃなかった」
言い切るように、彼が口元を引き締める。後悔しているのが、はっきりわかる。
赤信号が長い。
綺麗な指が、無意識にハンドルをトントンと叩く。
この人……今、すごく無防備だ。
百合佳は、少しだけ間を置いてから、わざと軽く言った。
「……軽薄な男って印象が拭えて、かえって聞けて良かったかも」
冗談に逃がしてあげるつもりだった。すると宏雅は、きょとんとした顔で、百合佳の方を見つめた。
……え。可愛い。
大人の男のはずなのに、今は不意を突かれたみたいな表情をしている。
「優しいんだな、百合佳って……」
ゆるりと甘く微笑む。
そして、自然と名前を呼び捨てにされた。
その瞬間、心臓がどきんと音を立てた。
――ああ、だめだ。
この人も私のことを、少し特別な場所に置き始めている。そして私は、その変化を嬉しいと思ってしまっている。
互いに気づかないふりをしながら、確実に恋に足を踏み入れていく。
ガードが下がった彼の横顔を見ながら、百合佳は静かに、そう確信していた。
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