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三章
仮面
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葵には、言えなかったことがある。
“言わなかった”のではなく、
“言えなかった”ことだ。
何度も、喉元まで出かかった。
言えたら少しは楽になるのかもしれない、と。
けれど――言えば、葵にも背負わせてしまう。その重さがどれほどのものか、俺が一番知っている。
だから、言わない。
だから、言えない。
俺の心は、事故の日から壊れたままだ。
あいつが世界から消えた瞬間、俺の命もそこで潰えた。
今は、惰性で続いているだけの……人生の余白。
数多の女。
藤原も、東堂も、ジェイドも、杏奈でさえも……俺をこの世に繋ぎ止めようと、あらゆる言葉をくれた。
抱き合い、泣き、怒鳴り合い、必死に俺を引き戻そうとしてくれた。
酷い夜をいくつも越えて、表面上は“回復したように見える”俺を、皆が安心した顔で見た。
でも、本当は分かっていた。
根っこの部分は、ひとつも治っていない。
葵は――知らない。
俺が昔と、変わってしまったことに。
こんな、空っぽになった俺を知った時、葵はどう思うのだろう?
元より俺は葵の中で、朝まで過ごす価値の無い男に成り下がっている。
明け方に見る夢が恐ろしくて、人肌に縋ってしまう――そんな情けない話、聞かせられるはずもなかった。
……それでも、夜は来る。
眠れば、あの日に引き戻される。
音もなく崩れ落ちる世界と、波打つ漆黒の海面。
息が詰まり、胸の奥が凍りつく。
目が覚めた時、俺だけが“生きている”ことに気づかされる。
それが怖い。
生き残ったのが、罪深い自分だという事実が、何よりも恐ろしい。
だから、縋ってしまう。
隣に、誰かの温もりが欲しい。
規則正しい寝息が聞こえないと、現実に戻って来られない。
……馬鹿みたいだと思う。
三十を過ぎた男が、悪夢を理由に人肌を求めるなんて。
けれど葵は、朝までいない。
俺に、責める資格などない。
葵にも彼女の生活があって、守るものがあるのだろう。
それでも……。
目が覚めた瞬間、隣が空っぽだと――息もできない。
温もりの残滓だけがシーツに残っていて、それを握りしめる自分が、滑稽で、惨めで、どうしようもない。
俺は葵に選ばれていない。
夜のうちだけの男。
朝になる前に、切り離される存在。
そう思ってしまうたび、胸が軋む。
他の女が、戯れのように笑って「帰らないで」とか「朝までいたい」と、誘うように言うだけで――心が揺れてしまう。
欲しいのは快楽じゃない。
ただ、朝まで傍らにいてくれる、誰か。
目覚めた時、逃げずに隣にいる、誰か。
それだけなのに……。
葵がいない朝を何度も迎えるたびに、俺の中のどこかが、少しずつ擦り減っていく。
夢が……孤独が……怖い。
だから今夜も、何も言わずに微笑む。
恐れなど何も抱えていないような、仮面をつけて。
そしてまた――朝までいてくれる誰かの体温に、縋ろうとしてしまう。
たとえそれが、仮初めの恋人であっても。
“言わなかった”のではなく、
“言えなかった”ことだ。
何度も、喉元まで出かかった。
言えたら少しは楽になるのかもしれない、と。
けれど――言えば、葵にも背負わせてしまう。その重さがどれほどのものか、俺が一番知っている。
だから、言わない。
だから、言えない。
俺の心は、事故の日から壊れたままだ。
あいつが世界から消えた瞬間、俺の命もそこで潰えた。
今は、惰性で続いているだけの……人生の余白。
数多の女。
藤原も、東堂も、ジェイドも、杏奈でさえも……俺をこの世に繋ぎ止めようと、あらゆる言葉をくれた。
抱き合い、泣き、怒鳴り合い、必死に俺を引き戻そうとしてくれた。
酷い夜をいくつも越えて、表面上は“回復したように見える”俺を、皆が安心した顔で見た。
でも、本当は分かっていた。
根っこの部分は、ひとつも治っていない。
葵は――知らない。
俺が昔と、変わってしまったことに。
こんな、空っぽになった俺を知った時、葵はどう思うのだろう?
元より俺は葵の中で、朝まで過ごす価値の無い男に成り下がっている。
明け方に見る夢が恐ろしくて、人肌に縋ってしまう――そんな情けない話、聞かせられるはずもなかった。
……それでも、夜は来る。
眠れば、あの日に引き戻される。
音もなく崩れ落ちる世界と、波打つ漆黒の海面。
息が詰まり、胸の奥が凍りつく。
目が覚めた時、俺だけが“生きている”ことに気づかされる。
それが怖い。
生き残ったのが、罪深い自分だという事実が、何よりも恐ろしい。
だから、縋ってしまう。
隣に、誰かの温もりが欲しい。
規則正しい寝息が聞こえないと、現実に戻って来られない。
……馬鹿みたいだと思う。
三十を過ぎた男が、悪夢を理由に人肌を求めるなんて。
けれど葵は、朝までいない。
俺に、責める資格などない。
葵にも彼女の生活があって、守るものがあるのだろう。
それでも……。
目が覚めた瞬間、隣が空っぽだと――息もできない。
温もりの残滓だけがシーツに残っていて、それを握りしめる自分が、滑稽で、惨めで、どうしようもない。
俺は葵に選ばれていない。
夜のうちだけの男。
朝になる前に、切り離される存在。
そう思ってしまうたび、胸が軋む。
他の女が、戯れのように笑って「帰らないで」とか「朝までいたい」と、誘うように言うだけで――心が揺れてしまう。
欲しいのは快楽じゃない。
ただ、朝まで傍らにいてくれる、誰か。
目覚めた時、逃げずに隣にいる、誰か。
それだけなのに……。
葵がいない朝を何度も迎えるたびに、俺の中のどこかが、少しずつ擦り減っていく。
夢が……孤独が……怖い。
だから今夜も、何も言わずに微笑む。
恐れなど何も抱えていないような、仮面をつけて。
そしてまた――朝までいてくれる誰かの体温に、縋ろうとしてしまう。
たとえそれが、仮初めの恋人であっても。
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