この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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三章

玩具箱(二)

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「杏奈ちゃん……すごいなぁ」

葵は、息子の表情を見て、思わず胸が温かくなった。
普段は少し慎重なところのある子が、いまは完全に心を奪われた人間の顔をしている。目がまるでハートだ。

リビングで杏奈と子供が、寄り添ってソファに並んで座っている。杏奈は絵本を開き、指先で文字をなぞりながら、落ち着いた声で読み進めていた。

その柔らかな声音は、子供の心に寄り添うようで、母親の葵でさえ聞き惚れてしまうほどだった。

「Le Petit Prince…これが、星の王子さまって意味ね。フランス語は英語と響きが違う……あら」

気づけば、葵と宏雅が部屋に戻ってきていた。
子供は絵本を掲げるように見せ、ぱあっと花が咲いたみたいな笑顔を向けた。

「いまな、外国の絵本を読んでたんよ」

誇らしげで、自慢したい気持ちが、まるごと声に出ている。

「On ne voit bien qu’avec le cœur.
L’essentiel est invisible pour les yeux…心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。大切なものは、目には見えないんだ」

宏雅が、自然な流れでフランス語を暗唱した。まるでずっと側にこの言葉があったような、滑らかで温かい発音だった。

「良く覚えてるわね、宏雅」

杏奈が優しく笑う。その瞳には、尊敬が宿っていた。

「毎晩のように、東堂が読んでくれたからな」

宏雅の声には、懐かしさと愛情が混じっていた。ソファに腰掛けると、子供から絵本を受け取り、指先で軽くページをめくる。

「いまのフランス語なん?すごいやん、話せるん?」

小さな手が宏雅の腕にかかり、興奮した子供は身を乗り出す。宏雅は目を細め、絵本を眺めたまま答えた。

「そう。お前もできるようになるよ」

その一言が、子供の心にどれだけ響いたか。葵は、静かに胸がいっぱいになるのを感じた。

そのとき――ジェイドがリビングに戻ってきた。手には煙草。さっきまでの怒気が、嘘のように落ち着いているが、まだどこか影が差していた。

「話、終わった?」

杏奈がソファから立ち上がり、ジェイドへ歩み寄る。ジェイドは短く息を吐いたような、言葉にならない沈黙を返した。

「……」

その沈黙を、宏雅はどこか苦そうに笑って、受け止めた。

「シカトするなよ」

宏雅は、読んでいた絵本を軽く放り投げた。葵は「え」と目を瞬く。子供みたいな、兄弟みたいなやり取り。宏雅が見せる“素の顔”に驚く。

「……懐かしすぎるだろ、こんなの」

ジェイドは難なく絵本を受け止め、ふっと息を漏らした。表紙を見つめる瞳が、少しだけ揺れる。

「Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé…一度なつかせたものには、永遠に責任があるんだ」

ジェイドは静かに言った。
昔から好きだった一節なのだろう。声に、深い想いが滲んでいた。

「俺のお気に入りは、このフレーズ。宏雅、お前もここを暗唱すべきだな。結婚するなら」

「ねえ、せめて絵本は英語版にしてくれない?」

杏奈がするりとジェイドの腰に腕を回し、顔を寄せて苦笑する。ジェイドの肩がわずかにほぐれた。

「私、フランス語はできないのよね」

「文句は東堂に言えよ。蔵書はあいつが選んでくる。俺たちは、横で蔵書印を押す係」

宏雅は肩をすくめた。思い出話をする声は、どこか柔らかい。

「それも、クッキー齧りながら」

ジェイドが、くすりと笑って混ぜ返す。

「いずみやのクッキー」

二人が、同時に吹き出した。
空気は一気に和み、葵は胸の奥がじんわり温かくなる。

険悪だった空間が、ゆっくりと溶けていく音がした。
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