この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

文字の大きさ
122 / 171
三章

書簡(二)

出張の為に空港へ向かう車に乗る前、秘書の藤原が一通の封書を手渡してきた。

「こちらを預かりました」とだけ言って。裏面を見たが、差出人も書いてなかった。

ハイヤーの後部座席で、封を切って……字を見て、すぐわかった。

――葵からだ。



ーーーー

榊さんへ

寒うなってまいりましたけれど、榊さん、お変わりございませんやろか。
うちは相も変わらず、銀座のお店と料亭を行ったり来たりの、ばたばたした日を過ごしております。

こうして榊さんにお手紙差しあげますのは、これが初めてやと思います。お顔を見てしもたら、よう言えへん気がして……せやし、手紙にさせてもろいました。

ひとつ、許して頂きたいことがおます。

きっと、簡単には許してもらわれへんやろうと思てます。けれど、うちにはどうしても必要で、譲れへんことやったんです。詳しいことは、まだよう申せません。どない説明したらええのか、うち自身も思い悩んでおります。
せやけど、いつか必ずお話しいたします。
どうか信じて、待っていて欲しいと思うております。

「俺と結婚したいか?」って、榊さんが聞きはった時。

思わず自分の耳を疑いました。

うちは、榊さんとは違うて、夜の世界に身を置く身です。
もし“実業家の榊さん”のままやったら、すぐにでもお返事できたかもしれへん。
ですが、財閥の次期当主さんやと知った今となっては、軽々しく返事なんて、ようできませんでした。

四年前に別れてからずっと――。
誰よりも、榊さんのことが恋しゅうて、懐かしゅうて仕方ありませんでした。

偶然、水鶴で再会して。
それから、お店の前で待っててくれはった夜。
あの時うちは、榊さんがうちの人生にとって、特別なお方なんやと……よう分かりました。

これまでも、これから先も、榊さんが一番です。
うちにとって……あなたは、たった一人の特別なお人です。

こんなことしか書けへんうちで、ほんまにごめんなさい。



ーーーー


空港へ着いた宏雅は、既に搭乗を始めているゲートへ向かいながら、葵に電話をした。

何を言うかも考えてなくて。
でも声が聞きたくて……。

だが、葵は出なかった。

留守録に切り替わって、一瞬どうしようかと思ったが、言葉を残した。




 *

機内アナウンスが、到着地の情報を軽快に伝える中、宏雅はシートに背を預けて、もう一度手紙に目を通していた。


「許す……か」

この一文が、胸に突き刺さる。

許すとか許さないとか、そんな次元じゃないだろ……と言いたくなる。
なのに、葵が“譲れへんこと”なんて言うと、どうしても勘ぐってしまう。

――誰か、他に男がいたのか?

そんなことを思う自分が、情けない。

宏雅が朝まで一緒に、と何度言っても葵が帰ってしまった理由。あれも、同棲する男が待っていたからだと考えれば、腑に落ちる。

けれど、本当にそうか?
葵は嘘がつけない。あの頃の顔を思い出せば、男の元に帰る女の顔じゃなかった気もする。

だが……分からない。
俺の知らない四年が、葵にはある。

――手当たり次第に女を抱いてた俺が、何を気にするんだ。

苦笑が零れた。自嘲めいた笑みの後、不意に胸が苦しくなった。


杏奈と寝るようになったのは……逃げだ。
あの頃の俺は、人の温度に縋っていないと、生きていられなかった。

杏奈は、魅力的な女だ。
賢く優しいし、俺と同じ場所、同じ空気で育ってきた……財閥の子女。
家同士――あの東堂までもが、俺たちを結婚させたがっているのも、よく分かる。

最初は、互いに結婚なんて冗談じゃないと、笑い合っていた。

出会ってから、何度も朝まで抱き合った。再会してまた彼女の温もりで夜を乗り越え、箱根で抱きしめられながら朝を迎えた……あの安堵感。

あの事故後、俺が死んだように荒れていた最悪な時期を、支えてくれたのも杏奈だ。
心の奥の、醜い部分まで全部さらけ出して、彼女を手酷く扱って、それでも逃げ出さず傍らにいてくれた女。

その杏奈に求められたら、俺は……結婚を考えてしまうかもしれない。

そんな未来が、一瞬でも心に浮かぶことが、ひどく怖かった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

指輪を外す夜― 横浜・雨の馬車道で ―

La Mistral
恋愛
その恋は、 横浜の雨の日に始まった。 広告代理店に勤める水瀬亜矢(32)。 穏やかな結婚生活の中で、彼女は小さな孤独を抱えていた。 ある夜、 横浜駅で傘を差し出してくれた男。 高坂恒一(46)。 落ち着いた声、微かな香水、 そして彼の左手にも結婚指輪があった。 再会したのは 石畳の街 馬車道 の古い喫茶店。 触れてはいけない距離。 それでも、二人は何度も会ってしまう。 港町の夜景と海風の中で、 静かに始まる大人の恋。 それはきっと、 長く続くはずのない恋だった。 エブリスタにも連載中

お兄様「ねえ、イケナイ事をしよっか♡」

小野
恋愛
父が再婚して新しく出来たお兄様と『イケナイ事』をする義妹の話。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった

くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。 血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。 夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。 「……涼介くん」 薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。 逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。 夜、来て。 その一言が——涼介の、全部を壊した。 甘くて、苦しくて、止まれない。 これは、ある夏の、秘密の話。

(第一章完結)ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)

久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。 しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。 「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」 ――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。 なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……? 溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。 王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ! *全28話完結 *辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。 *他誌にも掲載中です。