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第1章 始まりはショパン
夢やあぶくを売ってでも
しおりを挟む大影は給料日には(ちゃんとお給料が頂けますように……)と祈りたい気分になる。世界中の神様にお願いしたいのだが、大影も神様という存在を見たことはない。見たことのないものは信じ難く、信じようにもどんな神様がいるのか全く知らなかった。
仮に、神様の存在を認めるとしても全部の神様に祈ったらば、神々は信者(大影)の取り合いで戦争を始めるのではないか、等と危惧した。見かけに依らず大バカ者である。
為に、大影は無神論者を名乗っている、
しかし、祈ると言えば(ちゃんとお給料が頂けますように)なのだ。それ以外はない。やっぱり大バカ者なのだ。
出世処か、実は明日をも知れぬ身の上なのだから個人的な祈りに終始するのは仕方ないが、大影よ、祈るときはもっと世界の問題にも目を向けよう。
大影は大学受験に失敗して夜更けのパレット久茂地の噴水前で女社長に拾ってもらってからというもの、阿呆みたいな安い給料で酷使われているしがない「浪人」だ。
4月で十九才になったばかりのうら若き身空で世を儚む気はないらしく、ユメミル商事にいるとき以外は何だかんだと走り回って忙しい。
届いた文書を社長の手元まで持って行く。
(あ、死んだかな……)
息をしていない。慌てて壁に立て掛けていたゴルフクラブで社長の肩を突っついてみた。
「ぐおぉぉぉぉ……ごごご……」
鼾と共に再び呼吸を始めた社長に「信じられない……」と呟きながら胸を撫で下ろす。
(ああ、肝が潰れる処だった。死なれたと思ってドゥマンギたぁ。良かった、生きててくれて。しかし社長が死んだら誰に連絡すれば良いのだろう。あ、町田さんがいた。町田さんにお願いしよう)
勝手に決めた。
大影には日々の暮らしにおいて大切な時間や神経や脳ミソや体力その他諸々を使うのは、金儲けを企む時だけにするというポリシーとかモットーがある。
だから自分の利益に直接関係のないことには無関心で、社長の年齢さえ知らない。大年増の年齢を追及しないのは何も大影が紳士だからというのではない。暇だから雀の涙ほどの給料でも兎に角頂けるのであれば文句はない。
(それにしても、給料日が近いというのに、今死なれるのは本当に怖いやし。夢やあぶくを売ってでも儲けたいボク様が勤労しているんだからなぁ。死なんけぇよぉ)
予備校に通っていないことがバレてからと言うもの、冷血銀縁眼鏡の父親は碌な小遣いもくれないし、町にはもっと実入りの良いバイトがゴロゴロ転がっていそうな気もするし、健全な浪人生活をエンジョイしたい気分もある。
それなのに大影は馘首を言い渡されない限り毎日定刻にはきちんと出勤するのだ。そして雑務に追われ、奴隷のように身を粉にして労働に勤しんでしまう。
(一体ボク様のポリシーはどうなったんだぁぁ。出社拒否できる奴が羨ましいよ。学校にもいたっけ、当校拒否できる奴がぁぁ……あいつ、遊びまくってたなぁ、金髪で)
自己批判と反省の毎夜を送る大影は、ある感慨を込めて社長の寝顔を見つめた。
いきなり社長の瞼が開いた。しかも黒目がちの目玉をギョロギョロ光らせて三白眼になり、大影の顔とゴルフクラブを交互に見る。
「殺す気ぃぃ」
「まっ、まさかっ……社長ぉ、誤解ですっ」
「じゃあ何、そのゴルフクラブはっ」
「蠅が、そうです、蠅がいたのです」
「私の頭の上にっ」
「社長ぉぉ……」
女社長は緩慢な動作で身を起こすと、オットマンの上に乗せていた太めの両足を疎らに下ろして社内用のサンダルを履く。
「なあに、このFax」
「町田さんの処からです」
町田さんは県内最大手の某有名興信所の所長で、探偵小説家志望の社長の為に『オマケ』のような仕事を寄越してくれる。四十代半ばの悪役キャラ俳優に雰囲気が似ていて、ラガーメンタイプの大柄な体驅に大影は憧れとコンプレックスの入り雑じった思いを抱いている。
「何なの、これって地図のつもり……電話しなきゃ」
社長はスマホで町田所長に直通ライン電話を掛けた。
「えっ、ホーシューがごじゅうまんえんっ。ごじゅうまんえんねっ、ゴジュウマンエン……」
頭の中で○をいくつも数えそうな雰囲気でしどろもどろになった社長は直ぐに普段の上から目線を取り戻しておほほと笑う。声が乾いている。
「ゴジュウマンエンでしょ。小遣いくらいにはなるわ。今まで大忙しだったけど丁度時間ができた処なのよ。オーケーよ。その二人を奪い返すくらい任せて」
大影は頭を抱えた。
(……良いのかな、そんな恐ろしいことを言って。相手は元893系列なのに……あぎじゃびよう)
できれば夢やあぶくを売ってでも儲けたい大影が、年増の為に頭を抱える。
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