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第三章 純愛と天使と悪霊

(87)出る

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「お前、いけない子だな、お仕置きしちゃうぞ」

扉が開くなり無遠慮に入って来たのはダネイロだ。暗い水車小屋の中でもダネイロの雰囲気と声は本人に間違いない。

「ダネイロさん、違います。これは……」

シーツで押さえた勃起したままのものが静かになる。

「聞こえた。外まで聞こえる声だったから、全部聞いた。勘違いでやったのか」

「いいえ、私は何もしてはおりませんわ。聞き間違いですとも。私はここにいても仕様がありませんわね」

女は、ヴェルナールを絡めとる前に騒ぎ立てても利益にはならないと踏んだ。ここは退散するが勝ちだとばかりに急いで出口に向かう。

「外に、あんたの旦那さんらしき貴族の方が待っておられるが」

「まあっ。わかりました。それでは、あの、今夜のことは内密にお願いできますか。私がここに来たことを」

「ふふん、あんたが何処の誰かわからない以上は。しかし、上には報告させてもらう。不振人物が出入りしているとな」

「それは……」

「勝手に出入りしてもらっては困ると言っているんだ。知らないのか。ここら辺に出るのを」

「何が出るんです」

暗い中で、ダネイロとレネッティが顔を見合わせたのを感じて、女は青くなった。

「まさか」

「まさかだが、出るんだよ。有名な話だ。もし、領主館の客人なら」

「いえ、いえ、私は通りかかった旅の者です。泊まりたかっただけ。もう、帰ります」

「送ろうか」

「いえ、しゅ、主人が」

「そうだったな」

慌てふためいて出ていく女の後ろ姿が出口の枠にシルエットで浮かび、片側にそれて見えなくなった。暫くして水車小屋から爆笑するダネイロの声が響いた。


月が東の山影から顔を出している。

「とんだ大恥をかいたわ」

女は木陰で待っていたノエビアに愚痴をこぼした。

「済まなかった。しかし、ヴェルナールは遅いな」

「まだ待つつもりなの。今夜はやめた方が良いわ。それにここら辺には……」

ノエビアの背にしている木の後ろから、背の高い男が現れた。青白い顔に鋭い眼光。長い金髪は結ばずに肩から垂らしたままだ。

「ふふふ。話は聞いたぞ」

「あ、あなたはどなたですか」

「私か。名乗るほどの者でもないがルネ・ド・ナバールというフランス流民だ。お前たちの計画に力を貸してやろうではないか」

ノエビアは戦慄を覚えた。

「私たちの計画とは……何故、何故ですか」

「ふふふ、何故と問われれば、亡き領主ジグヴァンゼラに恨みがあるのだと答えよう。奴はヨハネセンを暗殺の危機から護り王位に就けたのだが、同じ方法でヘンゼルを護り続けていた。そのジグヴァンゼラが死んでやがて一年になるのだが、ジグヴァンゼラの取った手段が何か分かるか」

ノエビアと女は顔を見合わせた。

「いいえ、皆目」

「ふふふ、わからないか。それはな、毒殺だ」

「あっ」と声を上げたのは娼婦だった。確かに以前、献酌した酒に……と冷や汗が滲む。

それを知ってか知らずかルネは女ににやりと笑いかけた。

「あなたは使えそうなレディだ」

目的の悪霊が近くにいるのにも気づかずに、ダネイロとレネッティは小屋の中にいた。

レネッティは着替えを済ませ「俺がイカセてやろうか」とからかうダネイロをかわして小屋を出た。

「勘違いと無理矢理」の問題でくさくさする。

月明かりがふっと曇った。レネッティの目に金髪の男が浮かび上がる。黒い人影は二つ見える。三人の人間がいるようだったが、金髪の背の高い方だけがはっきりと見えた。

「モーナスさん。モーナスさんですか」

何故か胸が奮える。声が女のように上ずって可愛い声になっているのに気づいたが、小走りに近づく。

「モーナスさん。僕です。レネッティです」

くさくさした気分は何処へやら、口角が上がり笑顔を止められない。近寄るレネッティに、金髪が振り向きかけて消えた。

「きゃあああ」「うわああああ」

女と男の悲鳴が同時にあがる。

「モ、モーナスさん……」

レネッティは茫然としたまま歩を緩めた。

消えた
完全に消えた
何故……

『ここら辺には出るんだ。有名な話だ』



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