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第1章 狂人の恋

(6)マレットの女神

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  ラルポアも訝しく思う。ラナンタータの勘は間違いない。あとは犯人がどう出るかだ。隣接するアパルトマンに入る。暗い廊下の階段を、ラナンタータは何かに追われているように駆け上がった。ラルポアは三段跳びで追い抜く。

  ラナンタータは三階の角部屋のドア前で息を調えながらノックした。ラルポアが、静かにラナンタータの背後に立つ。

「はぁい、どなたぁ……」

  出てきたのは見るからに夜仕事の蝶々だ。酔っている。ラナンタータに驚き、ラルポアを見た。

「失礼します。私はラナンタータ・ベラ・アントローサと申します」

  挨拶しながらラナンタータは肩で女を圧して室内に強引に入った。「なぁに、今から彼氏が来るのよ」と言う声を無視してズカズカと部屋を横切り、窓に直行する。出窓の雨戸を開いた

「夜分にすいません、美しい方」と女に挨拶したラルポアが「危ない、ラナンタータっ」と叫んだ。

  ラルポアが捕まえる前にラナンタータは出窓を飛んでいた。

  黒紫天鵞絨こくしビロードマントのフードが風圧で外れ、銀色の髪の毛が春の月影にふわりと美しく靡く。宵闇の宙に輝く一瞬の芸術。

  花屋のベランダの手摺を蹴って壁に激突したが、ラナンタータは無事に着地した。

「早く来て」

  言い捨てて花屋の部屋に入る。ベッドが目についた。何か光るものが見えた。ラルポアも窓から飛んだ。

「ラナンタータっ。女の自覚が無さすぎる。危ないっ」

  暗がりでナイフが光る。ラナンタータのマントが翻った。マントの重さと風圧をかましてナイフの相手に蹴りを入れた。柔らかい身体が崩れる。

「こいつめ」

  ラルポアが背後に回って狼藉者の腕を捕らえた。予想を裏切るか細い手首。

「ああっ……」

  高音の艶めいた声。

「ん……あれ……」

  小柄な身体に驚いてラルポアは力を緩めた。ラナンタータが壁近くのスタンドの灯りを灯す。

  ほやあと暖かな色味が室内に広がり、ラナンタータのアルビノの特徴を露にし、ラルポアの乱れた甘い金茶髪の髪の掛かる顔と上質のツィード・スーツ、そして赤黒い刺繍タフタの品の良いポンパドールが浮かび上がった。

「「あなたは……」」

  女とラナンタータは互いを見て驚き、女は顔を背けたが、ラナンタータは無遠慮に近づく。

マ・メィラ・わたしはラナンタータ・ベラ・アントローサ」

  黒紫マントの中でスカートの裾を軽く摘まんでカーテシーの略式で会釈した。

「元公爵アントローサ警視総監のお嬢様。存じております」

  ふっくらと結い上げたポンパドールの白い顔が、驚きのままラナンタータに向き合う。

「はい、私も存じ上げております。マヌエラ夫人」

「私をご存知……ああ……」

  ラナンタータはラルポアに顎をしゃくってみせた。ラルポアが頷いて女の手を離す。

「はい。マレットスティックの女神。あなたはこの町のポロ名手のお一人で、あなたのマレットには魔力があると云われております。それに、あなたのサクセス・ストーリーは有名です。お目にかかれて光栄です」

  サランドラ・ダ・マヌエラ夫人。マヌエラ家に嫁ぐ前はこの花屋の従業員であったが、富豪に見初められて田舎に嫁ぎ、若くして寡婦となり町に舞い戻って娼館のマダムに収まった、曰く付きの美女。

  1920年代、この国ではまだ売春禁止法が制定されていない時代。彼女は従業員30数名を抱える事業家として名を馳せており、そしてボールをスティックで打ち合う乗馬スポーツのポロの名手でもある。

「アントローサ警視総監のお嬢様。私もあなたのことは噂をお聞きしました。とても有能なお嬢様だと」

「それはどうも。処で夫人、お聞かせ願えませんか。先ずは、どうやってこの部屋に入ることが出来たのでしょう」

  ラナンタータは珍しく優しげな声色で尋ねながら、花屋の屋根裏部屋があると言う壁に向かって歩く。大きな本棚とドレッサーに覆われた壁。

「いけません、そこは……」

  マヌエラ夫人の悲鳴に近い懇願が終わる前に、本棚がドアのように開いた。





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