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第3章 ブガッティの女、猛烈に愛しているぜ
(8)スピークイージー・歌麿
しおりを挟む建物に明かりが点った。闇が一層深くなる。明かりを頼りに歩いていると、明かりの届かない石畳のでこぼこが急に怖くなる。
イサドラはデルタン通りに差し掛かり、左手に黒いフォルクスワーゲンを見た。此の国ではドイツ車は珍しい。花屋夫婦殺人事件の際にまみえたアントローサ警視総監が、アパルトマンから出て後部座席に乗り込む。
イサドラは通りに入らずに川沿いを歩いた。
フランスのような先進国は既に電気の街灯だが、此の街では大通りにガス灯が点在しているだけだ。
9月の夜は歯の根も合わなくなるほど冷え込む。薄着で出歩くのは南国からの旅行者か命知らずの洒落者、或いは娼婦と相場が決まっている。ストールで鼻と口を隠しても、冷気は否応なく肌を締め付ける。
イサドラの足元に枯れ葉が舞い降りた。風に吹かれ乾いた音をたてて石畳を走る枯れ葉に、イサドラの視線が止まり、離れる。
イサドラは宛先の読めない手紙のように彷徨った。何処に行けば良いのかわからない。
此の近くだったかしら。
娼婦が殺されるという現場は……
誰もいないわ。
犯人は、本当に現場に戻るものなのかしら……
私はそんな気持ちにならないけれど……
黒いブガッティが目の前に止まる。
金髪の若い男が、左ハンドルの車窓からイサドラ・ナリスに話しかけた。
「あなた、イサドラ・ダンカン……天才ダンサーの」
「いいえ、私は偽物よ。知らないかしら、殺人鬼のサディを……」
「サディ……花屋夫婦殺人事件の……どうしてあなたがこんな処に……良かったら、ですけど、僕と飲みに行きませんか」
「ええ、後部座席で良いなら」
金髪の男は嬉しそうに笑って車を降りた。後部座席のドアを開いて、イサドラ・ナリスを招き入れる。
「有り難う。紳士ね、あなた。足を引き摺っているようだけど、どうしたの」
「戦争さ。戦争の怪我が、こんな冷える季節には痛むんだ」
男は運転席に戻ると静かに車を出した。デルタン通りの一本脇道を郊外に向かう。
「あなたが殺人を犯したのは本当ですか」
「ええ。知りたいのなら話してあげても良いわよ。でも、出来れば人目につかない暖かな処で」
「ああ、僕は今日、彼女と喧嘩して、家に戻れないんだ。ホテルに行くか、其れともバーに行くか」
「ホテルは止めて。娼婦じゃないわ」
「其れは良かった。例えあなたでも、ホテルと答えたら殺すつもりでしたよ、イサドラさん」
「あら、そんな物騒な冗談、笑えないわ」
「殺人鬼のサディでも笑えませんか」
「あなたはどんなことをしたの。ただ者ではなさそうね」
「いえね、其処のデルタン通りのアパルトマンで知り合いの女を殺ってしまって……彼女が俺の正体に気づいてしまって言い争いになって」
「正体って……」
「あなたと同じですよ。世の中の法律で裁けない腐った連中に鉄槌を下すのが、俺の使命だ。俺は連続娼婦殺害事件の犯人さ。あなたも似たようなことを企んでいるんでしょう、サディさん。新聞で知ってますよ。あなたは満月会Rに復讐したいはずだ。悪は悪を知り、善は善を知る。俺にはあなたの気持ちがわかる。手伝いますよ」
「そう、有り難う。でも……」
「遠慮はいらない。あなたは顔を知られ過ぎている。此の国であなたを知らない者はいない。あのアロムナワ子爵に恋した殺人鬼として、映画にもなるとか……」
「アロムナワ子爵……」
イサドラ・ナリスの胸に痛みが走る。
「満月会Rは分裂して復讐しようにも手掛かりがないわ」
デルタン通りのアパルトマンで拷問して死なせた男は、満月会Rにいた使い走りの男だ。身体中の皮膚を削いでも口を割らなかった。
満月会Rへの見せしめに敢えて残酷な殺し方を選んだ。
『あなたは5月にもミンクを着ていましたよね。何故、今は着ていないのですか。ミンクの方があなたらしい』
みすぼらしいコートの下を見透かしたかのようなラナンタータの質問に、身体に付いた血まで透視されているような畏怖を抱いた。
眠っていない。夕べ、デルタン通りのアパルトマンにあの男を訪ねてから、一睡もしていない。いや、其の前からほとんど眠っていない。
「イサドラさん、満月会Rを炙り出すのは簡単ですよ。警察と新聞に手紙を出せば良いんです。満月会Rのメンバーを皆殺しにするという予告を。そうすれば警察も新聞も満月会Rのメンバーを必死に探してくれるでしょう。メンバーからも保護を求めて警察に連絡をとる者が出てくると思いますよ」
「ふふふ、面白い作戦ね。退屈しのぎにはなるわ」
あのアルビノの少女ラナンタータの鼻を空かすことができるかもしれない。此の男を上手く使えば、犯行時刻の私の不在証明は成り立つ。
デルタン通りのアパルトマンで
此の男は女を殺し、私は男を殺した。
ほぼ同じ日に。
偶然とは不思議なものね。
あの時、あのアパルトマンに
此の男もいたなんて……
何かの縁かしら。
アントローサ警視総監は
あのアパルトマンで起きた
2つの事件をどう解析するかしら。
楽しみだわ。
ランプの灯った看板は『スピーク・イージー・ウタマロ』と読める。
「スピーク・イージーなんて英語でしゃらくさい謳い文句なんですけどね、要は禁酒法アメリカの隠れ家風に作ったバーなんですよ。フォレステンというお調子者が富くじに当たって、其れまで世話になった女に買ってやった代物でね、俺とのいきさつもお話しますよ」
元の持ち主はシャンタン会長の親戚筋だ。高額で買い取った店を、そう若くもないバーテンダーレスに『長年食わせてもらった礼だ。田舎の親父に会いに帰ろうと思うんだ。今まで有り難う』と言って譲った。
其のフォレステンの女房と親父を殺した俺が
なに食わぬ顔で現れたら
あの女はどんな顔をするだろうか。
客の反応は……
いやいやいや、田舎の事件など
知るはずもない。
しかし
イサドラ・ダンカンの偽物のことは
新聞の1面ネタとして
毎日のように世間を騒がせていた。
面の割れた極悪非道の殺人鬼を
匿ってくれるだろうか……
イサドラの目の前にすっとサングラスが出た。
「夜なのに……却って怪しまれるわ」
「そんなことはない。此の店は悪の吹きだまりだ。この世の皺寄せの為にあるような店だ。
『ウタマロ』なんてジャポニズムを掲げていても、ステージの上でキモノの女が股を広げてヤって見せる。あんたの芸術的なダンスとは大違いさ。それを、貸した金返さない男を沈めてきたばかりの奴等がヒーヒー喜んで見ている。殺したい奴等ばかりだ。店中サングラスさ。あんたにサングラスを掛けさせるのは、あんたがイサドラ・ダンカンの偽物だとバレたら、ステージに立たされるか、輪姦されるかのどちらかだからさ」
「そんな店に私を案内するのは何故」
「俺も其の店でなければヤバいんだ」
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