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第3章 ブガッティの女、猛烈に愛しているぜ
(16)吐け、いや、ゲロじゃない
しおりを挟む埒が明かない。未明の地下室バーは取り調べ室。カナンデラ・ザカリーはサングラスを外した男、アトーの顎を掴んで眼を覗き込む。
「お前が切り刻んだ訳か、アトー。鋸で乳房を2つ切り離しただろう。それから子宮と心臓は……」
アトーの喉が異様な音を漏らす。胃液がこみ上げたのをぐっと呑み込んだようだ。涙目になる。カナンデラは掴んでいた顎を離した。
「そうか、やっぱりな。お前じゃないんだな、切り裂き魔は。しかしお前はそこにいた。見たんだろう、切り裂く現場を」
ぐわっ……と音が爆裂してアトーの胃の内容物が噴水のごとく飛び散る。
「わわっ」
カナンデラは飛び退いた。寸での処でゲロ塗れになる処だ。親と環境から身に付いた運動神経に感謝するでもなく「やっぱりなぁ、やっぱりなぁ」と叫ぶ。
「俺様の勘は当たるんだ。あぁ、危なかったぁ」
アトーは縛り付けられた椅子ごと引き摺られて移動させられた。その間も、うえっ、うえっ、と胃酸を吐いた。
「よっぽど酷いもんを見たんだろうよ」
人気のない『スピーク・イージー・ウタマロ』のホールに据えた臭いが漂い、色っぽいバーテンダー姿のサヨコがモップを出す。
「お前えぇぇぇ、い・た・ん・だ・なぁ、ゲ・ン・バ・にぃ。あの娼婦が切り裂かれた現場だよぉぉぉ」
「うぅぅ……何を言われても俺は……」
「吐いたじゃないか、お前。俺ぁ、気持ち悪くてゲロ吐けなんて言わないけどな、お前ってば見事に吐いたじゃないか、ほれ。うっ……おぇ……臭いな、しかし。これはお前が現場にいた証拠だろう、このゲロはよ。あの娼婦の乳房を鋸でギコギコだよな」
「止めろっ。うえっ……うぅぅ」
「その反応は、よほど凄惨な現場を目撃したんだな。腹はどうやって切り裂かれた。子宮を取り出したんだろ。あの女がお前の恋人だったら、母親だったら」
「止めろ。うえっ……止めてくれ……何を言われても、お、俺は」
「人質でも取られているのか。お前がチクらなければあいつらはまだ切り裂くつもりだろうよ、ヴァラケスピーはよ」
「ヴァルラケラピスだ」
「お前って弱虫だなぁ。ヴァルスケピーが恐ろしくて従っているんだよな。弱虫の癖にさぁ、社会的弱者に何の同情もないんかいな。切り裂かれた女はな、健気に生きていたんだぜ。この生きにくうぅい社会の片隅でさぁ、自分の身を犠牲にしてさぁ、お前、少しのお金くらい恵んでやれよ。殺さずにさぁ。何で殺したの」
「うぅぅ……」
「カナンデラ、警察が来た」
「何で警察が来るんだ」
「アントローサ総監だと思う」
「おいら、まだ事件なんて、なにも起こしてないのに」
「れっきとした事件だよ、所長。僕は帰る」
「ああ、悪魔ちゃんにお休みと伝えて」
「とっくに寝てたよ」
「ん、じゃあ何か、お前らは相手が寝ているかどうか確認できるくらい近くに……ひぇぇぇ。お前、あの悪魔とっ」
「考え過ぎ。お休み、カナンデラ所長」
「お休み、色男。オイラ何だかとっても村八分な気分」
カナンデラはアトーに聞いた。
「ところでな、心臓はさぁ、何に使ったのぉ」
「ぐぅぅぅ……」
「鳴かんか。やっぱりお前、共犯だわ。人肉ヴァルピーの」
「ヴァ、ヴァルラケラ、ピスだ」
紺色制服の警官が数名やって来た。腕章に国旗と六芒星の刺繍。1920年代後半にはこの国でも警察車両を用意している。まだパトカーと呼べるものではなく、サイレンも付いていないが、犯人や要人の護送には警察車両を使うようになった。
アトーが引っ立てられてゆく姿に、何故かシャンタンを重ねる。
シャンタンの涙目は可愛いんだけどな
アトー、お前は醜いなぁ
娼婦とはいえ
切り刻んで良い訳がないだろう
それを見ていたお前は
れっきとした共犯者だぜ
お前も切り刻まれりゃあ分かるんじゃないの
処で俺様は
シャンタンに会いたくて会いたくて
シャンタンの手下が悪さでもしたら
首根っこ掴まえてさ
堂々とシャンタン坊やを
いたぶりに行くんだけどなぁ
電話ではやんわり断られたし
退っ引きならない用事でもなければ
会ってもらえそうにないんだなこれが
やっぱり
あのカクテル・リンドバーグのキス事件の後
電気アンマが早すぎたかな
もう少し仲良くなってからだったかしら
クソ、独り苛々していてもつまらん
ボルテージ上がるのに何処に行こうかな
暇ひまヒマ、暇、ひま、ヒマラヤ
真夜中のストレンジャーなんてさ
ウタマロで終わったしさ
「兄さん、私も事情聴取だって。今夜はただにしとくからまた飲みに来てよ」
警察車両に乗せられる前に、サヨコは人懐こそうに笑った。
「おう、眠れなかったらまた来るよ」
「ただし、うちの繊細な客にゲロ吐かすのだけは金輪際やめてよね」
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