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第5章 婚前交渉ヤバ過ぎる
(8)嫌だ、嫉妬じゃないから
しおりを挟む階段を、重いトランクを滑らせながら降りると、ラルポアはエンジンをかけたまま待っていた。カナンデラは助手席、後部座席の足元にトランクを置きラナンタータは胡座を組む。イスパノスイザが静かに走り出した。
「あの子は嘘を吐いた。エルダヨと言えばノーヴェスラウナなのに。しかもあんな長文を何処で覚えたと言うの。イサドラに其処らで頼まれたみたいに言っていたけど、全て嘘だね」
ラナンタータがまくし立てる。
「わかっているさ。あんな長文を覚えておきながらノーヴェスラウナとイヴンゼリクスを間違えるなんて有りっこない。あ、見えたぞ。あの車だ」
「プジョーだ。イサドラ・ナリスが乗っているかも知れないね」
「だとしたら、気づかれているかな。イスパノスイザは目立つからな」
「私、一度見られてる。イサドラのブガッティとすれ違った時に。ね、ラルポア」
「大丈夫だよ。前に馬車がいるから、気にしていないと思うよ。イサドラは運転できないから」
「何でわかるの」
「ショーファーだからさ。サニーが運転席に座っただろ。人質に取られたふりしてもイサドラが運転できないから、仕方なかったんだね」
「ねえ、サニーは運転出来たのかな」
「まさか。見ようみまねだから結局は激突したんだろ。ラナンタータも運転の練習をしておいた方がいいよね」
「嫌だ。其れはラルポアのお仕事だ。私は少し震瞳があるから運転は嫌っ」
アルビノのよく知られた症状に震える眼球がある。それを震瞳、あるいは眼球震盪と言う。
子供の頃は小さなラナンタータの頬を両手で挟んで、その揺れる瞳をじっと見つめた。そして、目蓋にキスしたものだ。
「俺様ですら運転出来るぞ、ラナンタータ」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ永遠に嫌だ」
「ふうん、ラルポア可哀想に。悪魔ちゃんに見初められてさ、一生縛られるのね、ショーファーとして。哀れ。おいら、同情しちゃうわ」
ラルポアはふっと笑った。
「ちょっと嬉しかったりして。あ、今のは心の声だから気にしないで」
「悪魔ちゃん、ラルポアの言う通りだぞ。女殺しの言うことを真に受けるんじゃないぞ」
大通りに出た。馬車の前のプジョーは国際駅に向かっている。
「イサドラはフランスに行くのかな」
「え、入国管理の手続きはどうするの」
「ラナンタータ、変だと思わないか。何故、イサドラは病院から抜け出せたのだ。しかも誰も傷つけずに。精神病院では女医を殺して逃げたのにだよ」
「大勢いたからこそ紛れ込めたとか。それもあり得ないね、有名な『美しき稀代の殺人鬼イサドラ』に関しては。じゃあ、支援者がいるとか。あ、精神病院にも支援者がいたかも」
「可能性高いな。エマルは何処かのお屋敷の小間使いだ。見ただろう。エマルが座った時マントの裾が割れて、白いエプロンが」
「見た。イサドラの支援者に仕えているとして、支援者とは誰」
「イサドラファンは何処にでもいるよ、ラナンタータ。娼館の女の子は匿ってあげたいと言ってたし」
「ふうん、娼館は隠れ蓑になりやすいからね。ふうん……」
「あれ、我が儘天使は毒舌吐かないの。お前さんの独占欲は娼婦の前では俯いちゃう訳ね」
「私は弱い者の味方だ。世の中を変えて、女が弱い立場から解放されるように男女平等の法律を作る。いつかそうなる。ラルポアが買い春したら許さないけどね」
「買わないよ。プレゼントなら貰うけど」
「プレゼント。何で弱い立場の女性からプレゼント貰うのよっ」
1927年には、売春禁止の条例は此の国だけではなく、世界各国及び日本にもなかった。日本は1956年、昭和31年の5月から施行された。
「嫌だわ、ラナンタータお嬢様ったら。素直に愛していると言えば良いのに。おいら、ラナンタータが歪んで見える」
「僕はアントローサ家のショーファーだから身綺麗でなければとは思ってるよ。でも、クリスマスには誰かにプレゼントあげたいのかも」
「ラナンタータ、良かったな。ラルポアはそこら辺の女が行列作って予約しているから買い春するほど暇じゃないんだ」
「カナンデラのバカぁ。何も解ってないっ。コロンを替えろ」
「へ、何でコロンを。俺はミッドナイトジョッキーを使っているが」
「ヤバい臭いだ。アホが使う臭いだ」
「ラルポア、そんなことないよな。おいら悪魔に苛められているみたい。八つ当たりか」
「ラルポアは森と花の匂いだ」
「グリーンノートとフラワーノートのミックスか。ザカリアンローゼを使ってるな。そりゃ嫌う者はいないよな」
「母が……」
「やるな、ショアロナ」
実は女の子からのプレゼントだが、空気を読んで方便を使う。その選択は、後にラナンタータにバレて、ラルポア嘘吐きのレッテルを貼られる。
「ふうん。小母さんのセンス好きだな」
何故嘘を吐かれなければならないの
失礼ね
今更隠さなくても
ラルポアがモテモテなのは知ってるから
まるで私が嫉妬するみたいに
嘘吐くなんて、ショック……
ラナンタータは此の時のラルポアの嘘を一生根に持って、ラルポアに近づく女性を『はいはい、小母さんね、小母さん。また小母さんだよね』と済ませるようになる。
上手くいっていない夫婦のようだとラルポアは頭を振り、母娘に見えたりギクシャクした夫婦に見えたり、お前ら実の兄妹じゃないから面白い……とカナンデラは嗤う。
「あ、ヤバいんじゃないか」
四辻を馬車が右折する。オゥランドゥーラ橋が見えた。イスパノスイザは右ハンドルで此の国は当時の諸外国と同じく右側通行だから、カナンデラが先にプジョーを見た。
「大丈夫だ。オゥランドゥーラ橋の先は国境駅だ。民家は少ない。公共施設は出入国管理のビルと郵便局だけだ。プジョーの行き先は直ぐに分かる」
煉瓦造りの瀟洒な建物の近くにプジョーが停まる。エマルが降りて、後部座席のドアを開けた。
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