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第5章 婚前交渉ヤバ過ぎる
(12)アルマスキャビア・ベルーガ
しおりを挟むイサドラ・ナリスは薄く笑って頷いた。
「そう、失敗したの。それはどうして」
エマルが奥方を庇うように答えた。
「ショーファーが車を割り込ませたのです。しかもバックで。其れがなければ……いいえ、あのお嬢様も銃を構えて、空に向けてダダダと撃って……驚きました。其れで探偵さんが車に乗り込んで、というのは、奥様に近づいたのは探偵さんだけだったのです。其れで、みんなで追いかけたのですが追い付けませんでした」
イサドラはファーを掛けた長椅子に横座りになってキセルの煙を吐き出した。陰りのある部屋に浮き立つ美貌は、紫煙の向こうで猫の目のように光る。
「向こうは用心深かったって訳ね。それじゃあ事務所を張り込ませても無駄ね。用心して警察に行ったでしょうから。奥様、有り難うございます。エマル、ご苦労様。失敗にもメリットがあるわ。あの人たちが私を追ってくるのは確実ね」
丸テーブルに片肘を乗せてアンニュイを纏っている奥方が、重い口を開く。
「私の知り合いの別荘が放置されたまま買い手もなくて、持ち主は入院中なの。其処に呼び出せば捕らえることが出来るわ。ええ、そうよ」
自分のアイデアに生き生きと眼を輝かせる。
「しかも、あの方は確かあなたのファンよ。一緒にお見舞いに行きましょう」
エレベーターのドアも特別仕様になっている。金色のアールヌーボー調の枠の中に丸鏡風の窓があり、到着と同時に鏡が硝子に替わる。ドア正面の廊下が見える。広いホールになっているが、三面から機関銃で狙われていることに気づく。
「伏魔殿だなぁ」
「俺様の城だぜ」
「げ、どこまで腐っているの、此のジゴロ。カナンデラ城じゃなくてシャンタン城でしょう」
「ははは、ラナンタータ、甘いな。シャンタンは俺様のもの。俺様はシャンタンのもの。シャンタンのものはぜえぇんぶ俺様のもの」
「ふうん。さぞかしカナンデラを撃ち殺してやりたいだろうね。もし、私たちが敵対者だったら此処で撃ち殺されるのかな」
「ラナンタータ、聞かずもがなだよ。所長がジゴロで良かったかも」
「ふははは、素直で宜しい」
会長室からツェルシュが出迎えた。
「エレベーター前でお待ちするつもりでしたが」
「良いの良いの、そんなこと。正面玄関から入ったのに直ぐにバレたのか」
「会長がレストランにご案内するようにと」
ラナンタータがラルポアに「わあい、来て良かったね」と小声で言うのを、ツェルシュが微笑む。
「あ、何だ、エレベーターに逆戻りか」
「申し訳ありません。今日は特別なアペロをご用意させていただきます。勿論、ディナーも」
ツェルシュは廊下を案内して曲がった。会長専用エレベーターらしい宝飾品とピンクの薔薇の内装に合わせてピンクの薔薇が表と内部にも生けられている。
「豪華ぁ……」
ラナンタータがため息を吐く。
ドアが開くと目の前に薔薇のパーティションがあり、レストランのVIPルームに直結していた。大きな硝子窓から真正面にステージが見える。
「前会長がシャンタン会長の為にお造りになった部屋です。どうぞ、お好きなお席へ。オペラグラスもございます。お使いください」
ツェルシュが説明してノックの音に足を向かせた。重厚なドアの内鍵を開く。パティシエがワゴンを押して入ってくる。
「会長じきじきのお勧めで、ロマネ・コンティとアルマスキャビアベルーガをご用意しました。」
目の前に世界最高のワインと、金のキャビアと呼ばれる希少な金色の粒が、ピンクの小ぶりのつる薔薇を足に配した広口のカクテルグラスにこんもりと盛られて皿の上に立っている。
「おお、ペルシャの王様御用達の……」
「作用でございます。金とほぼ同じ価値と言われるほどの希少な品です。色素の薄いチョウザメからしか採れません」
「チョウザメの世界でも色素異常は希少なの」
ラナンタータが複雑な顔になる。ツェルシュが慌てた。それを横目にカナンデラが助け船を出す。
「ラナンタータ、アルビノは金と同じだってさ。おいらたちは道端の石ころなのにさ。だがな、おいらは酒はアポステルホーフェときめているんだ」
「私はロマネ・コンティ飲みたかったから嬉しい」
「僕は……」
「飲むの。私も飲むから。だからラルポアも飲んで。だって今日は帰らないもん」
「「えええ……」」
「今夜はシャンタンと徹底的に話し合うの。この世界を変えることを」
ツェルシュが眼をしばたく。
此のアルビノのお嬢様は
何を語った……
世界を……変えると……
ツェルシュの脳内チョコレートが爆発して雷に打たれたように身体が奮えた。βエンドルフィンが溢れ出る。
ソムリエがパーティション裏のワインセラーからアポステルホーフエを出した。ラナンタータは嬉しそうに片方の頬を痙攣させている。
「何か、お気になりましたか」
ワインを注ぐ手を止めてソムリエが尋ねた。
「あ、お嬢様は楽しんでおられるらしい。気にしないでね。微笑んでいるつもりだから」
畏まりましたと言ってソムリエがワインを注ぎ終えた。
「では、乾杯といくか。シャンタン会長の太っ腹な御慈悲と世界を変える目標の為に」
「「「チンチン」」」
香りを確かめる。喉に通す前に舌先を動かす。
「ああ、ロマネ・コンティ初めて飲んだけど、ふわっと鼻孔に香るね。重くないよ、これ、私向きだ」
「でも、キャビアは綺麗過ぎて手出ししにくいな……」
「ラルポア、可哀想に。人間ベルーガのラナンタータは共食いしてるぞ、共食い。遠慮を知らん悪魔だな」
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