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第7章 投獄されたお姫様
(9)ミュンヒナーデュンケルかベルリーナヴァィセ
しおりを挟むラナンタータの姿どころか龍花の姿も見えない。美容院予約を確かめて一旦近くのバーに腰を下ろす。一区画おきに居酒屋があるから、道に迷っても食いはぐれない。
既に夕方近くになっている。
「アペロだ。ワインにするか」
「ラナンタータが探せたら」
「取っ捕まえるさ。必ず」
「もし、龍花さんと一緒でなければ……」
「飲め。お前と一緒に飲む機会は滅多にないからな。ギャルソン、シルブプレ」
カナンデラはフランス語でカフェのスタッフを呼んだ。戦勝国フランスに対するアレルギー反応なのか、スタッフは無視した。数人の客もチラチラと目をやる。
「カナン、フランス語は不味いみたい。エントシュルディゴンすみません……」
スタッフの顔ががにわかに綻ぶ。朴訥で媚を売らないドイツ人が、ラルポアのドイツ語に思わず歩み寄った。
「はい、何にいたしますか」
「ドイツワインを」
「カナン。麦の酒にしよう。ビスケットの風味で旨いんだ。黒ビールください。ミュンヒナーデュンケル ビッタ」
「お客様、うちは白ビール専門店です。ベルリーナヴァィセでは如何ですか」
ドイツ人スタッフは真面目な顔つきで勧める。
「では、それを二つ。ラズベリーシロップで」
「お前、何処でドイツ語を習ったんだ」
「アントローサ邸に住む前はドイツにいた。三才くらい迄だから、三才児の喋る範囲内ならなんとなくわかるような気がする。難しい単語はすっ飛ばすしかないけど」
「お前の親父さん、何をやってたんだ、ドイツで」
「数学者やってたのさ」
「マジか。なのにショーファーか」
「まあ、怪しい話だ」
ラルポアの父親はフランス政府のスパイだった。第一次世界対戦前のドイツの動きをフランス政府に通信する役目を負って、一市民としてドイツで生活していたが、派手な活躍でその身が危険に晒されたために一時退去、暫くフランスの属国に配置され、どういうわけかスパイから足を洗い、アントローサ邸のショーファーになった。
そのことはラルポアだけでなく、妻のショナロアも雇い主の警視総監アントローサも知らない。彼は見事に口のチャックを閉めたまま身罷った。
「記憶があるのか」
「いや、全く」
ただ、リヒター・ツアイスは気にくわない。ラナンタータに対する態度なら、ゲルトルデ・シュテーデルの方が危ういはずだが、ツアイスという名前に何かしらの蟠るものを感じた。
深く眠っている記憶なのか……
「もしかしてあの男たちも一緒なのかな」
「おいおい、美容院に来るのに男連れで来ると思うか」
目の前に陶器のカップに注がれた泡の少ないラズベリーシロップの赤いビールが置かれる。
「ダンケ」
「さあ、乾杯しよう。ラナンタータの無事を願って……」
「願って」
地味な乾杯だったが、心底願った。
「おお、さすがにドイツビール。シャンパンカクテルみたいな色合いだが、ビールだ。これは我が国では敵わない」
「酸味があるし、シロップ入れなければ自然色だから、ナポレオン軍が北のシャンパンと呼んだらしいよ」
「それなら少し買って帰ろう。シャンタンにお土産を買おうと思っていたのさ。ナポレオンお薦めってことにしよう」
「ははは、全く。ラナンタータを探していながらシャンタンのお土産のことを考えていたんだね。従兄なのに」
温度差を感じてラルポアは笑顔ながらも不満を漏らす。
「ええと、私にこれを着ろと……」
さすがに二人での入浴は断ったが、ラナンタータの下着は洗濯に回されたのか、シルクの新しい下着が用意されていた。
ラルポアからもらったお古の上下もない。代わりにウエディングドレスと身間違う白いシフォンのドレスが置かれている。いつまでも裸でいるわけにもいかず、仕方なく袖をとおす。ゆるゆるのフォルムのドレスがストンと入る。
「へへ、可愛い。カナンデラに悪魔ちゃんとは呼ばせないぞ。天使ファッションの私の姿、ラルポアに見せたいな。お父さんにも。ふふっ、カナンデラとイサドラにも……」
広義に取れば、贅沢もノブレス・オブリージュ的な利益還元の活動となり、高い文化が経済と結び付いて国民生活を支えてきたことを、ラナンタータも知らないではない。
それでも、貴族制度が廃止される前にその身分を捨てたアントローサの娘は、贅沢を好まない。質素倹約と言うより、ケチである。
普段はラルポアやカナンデラからせしめた古着を着てマントを被っている。その事を手柄とでも思っている節があるのは確かだが、やはり女の子ではある。鏡のまえでくるくる右や左、背中まで確認して自分の変身を楽しむ。思わず鼻歌まで出そうな浮き足だった気分でウォークインのドアを開けた。
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