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第8章 泣き虫な王子様
(6)記憶喪失
しおりを挟むゲルトルデは留守だった。ラナンタータは残念に思いながら屋敷を後にした。
二頭立ての馬車を一日借りて三人の明日の分まで衣服を調達し、ドイツ産の白ワイン、トロッケンベーレンアウスレーゼを一本手土産にして、グルーネヴアルトの森の近くにある赤い屋根の別荘に向かう。既に空は赤く、森は黒い、食餌を獲り終えた鳥たちが賑やかに帰還する。
ローランの別荘には赤々と燃える暖炉があった。ラナンタータは真夏のように暖められたリビングのソファーを勧められた。
「招待有り難う。素敵な別荘だね」
「流石はタワンセブの坊っちゃんだ。セレブ暮らしが羨ましいよ。ローラン、ドイツ産の白ワインだ。これを味見しよう」
カナンデラが甘口ワインを差し出す。
「あ、トロッケンベーレンアウスレーゼ。これはまた珍しいものを。とても素晴らしい甘口だとか。高額だから僕はなかなか味見もできなかったんだけどね、嬉しいよ、有り難う」
ラルポアはベランダに人影を見つけ、さりげなくベランダとラナンタータの間に立つ。
ローランがベランダに声をかけた。
「ジェレメール君、君も来て」
ラナンタータはソファーに座ったまま、カナンデラはローランの近くでベランダを注視するなか、呼ばれたジェレメールが硝子張りの格子戸を開けて部屋に入ってきた。
「こちら、僕の食客のジェレメール・ラプソール君。実は記憶喪失で」
ジェレメール・ラプソールは細身の身体に白い上下のチュニックスーツ、ローランの趣味で胸まで垂れる金のごついネックレスをしている。彫りの深い褐色の肌と目眉の濃さは、インド人かアラビア人の血をひいていると思われる。瞳孔の開ききった目が子供のように美しい。
ラナンタータは立ち上がって、母国に伝わる正確なカーテシーで挨拶した。
「ラナンタータ・ベラ・アントローサです、殿下」
「「殿下……」」
ジェレメール・ラプソールとローランは驚いた。
カナンデラが一歩出た。
「殿下、ドイツの戦争孤児の為にご寄付をされたとか。カナンデラ・ザカリー探偵所所長です」
カナンデラが新聞ネタを披露して、ジェレメールは目をぱちくりと開いた。
カナンデラの横でボウ・アンド・スクレイプを決めてラルポアが微笑む。
「僕は」
「私の婚約者ですわ、殿下」
「ラルポア・ミジェールと申します。お会いできて光栄です」
ローランが微笑んで席を勧める。
「殿下、もうジェレメール君とは呼べなくなりました」
ジェレメールは戸惑ってカナンデラを見る。
「記憶喪失は本当なのか」
「何も記憶がないらしくて」
ラルポアはラナンタータの隣に座った。婚約者と紹介された立場では当たり前のことだが、ラナンタータの虚偽に合わせてのことだからラナンタータは頬を痙攣らせている。手をラルポアの膝頭に置いてみた。
ラルポアはその手を引き取って膝の上で手を繋ぐ。ラナンタータはぷるぷる震えてラルポアの肩に顔を隠した。ラルポアが左手で肩を抱く。
カナンデラは黙殺した。
「ローラン、取り敢えず乾杯でも」
細長いテーブルの上座にジェレメール。主催のローランが右隣。向い合わせの主客の席に座るのはカナンデラだ。この中でカナンデラが一番年上だからか、客なのにふんぞり返っている。
ラルポアが口を開いた。
「この建物内には何人いますか」
「え……使用人のこと」
「ええ、僕たち以外に」
「五人かな。御者と小間使いと親が付けてくれた警備の者たち。何か……」
「ラプソール殿下は新聞記事によるとお国の方で後継者争いの最中だとか。記憶喪失になるほどの恐怖体験をされたのでしたら……」
ラナンタータが「あっ」と叫ぶ。
「エレベーター殺人事件。ナイフが高額な代物だ。ルビーとかサファイアとか、あれは飾り用のナイフだ。実際に使用するものではない」
ジェレメールが頭を抱える。
「エレベーター……」
カナンデラが「ホテル・ムーランクラージュです、殿下」と言う。
ふと上げた顔は涙ぐんでいる。ジェレメールは苦痛に眉をひそめ、呟いた。
「ホテル……確かにホテルにいたかもしれません。でも、雪しか覚えていません。雪が……僕は走って、何で走っていたのか、走っていたようです。そんな気がする」
ラナンタータが席を立ってジェレメールの傍に行った。
「殿下、息を吐いてください。ゆっくりたくさん吐いて、吸って、吐いて、吸って……」
「聞いたことがあるぞ。脳の中の酸素が足りなければ記憶喪失になると。ストレスで息が浅くなる」
「では、殿下の記憶喪失は治る」
「どうかな、脳が寝ている状態なら……」
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