宦官情話

藤森馨髏 (ふじもりけいろ)

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7) 夫の独り言

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奈利子の身体が酸素を欲し、水分を欲し養分を欲し言葉を欲する。


治療に万全を期した設備と『安らげる空間』は別物だ。


集中治療室から一般病室エリアに移されて、所謂いわゆる「植物人間」「生ける屍」としての意識不明状態が続いていた。


見舞いに来るのは夫だけだ。意識不明の状態とはいえ、夫には、奈利子が声を聞き分けているように思われた。



「奈利子、こんなことになってから言うのも遅いのかもしれないが……そうさ、遅いよな。遅すぎるくらい遅い。でもな、奈利子。俺は決してお前との生活に不満があったわけではない。寧ろ、こういうことになって初めて、お前がしてくれていたことに気づいた。お前が支えていてくれたことに……聞こえているか。お前に届くか、この声が……」



そうさ、遅いんだ
お前と生活していた頃に
普通の暮らしの有り難さを
実感できていれば
感謝の一言も伝えることがて来ていれば……

お前がいない今、家庭のことは
通いの家政婦に頼んでいる

家のことは何の不自由もない
女もいる

奈利子、お前が元気な頃から
付き合っている若い女だ
だからお前とは離婚するつもりだった

お前に感じないものを
彼女には掻き立てられる

ところが、お前が植物人間になってから
彼女に興ざめした
何故か醒めたんだ

妻がいたからこその火遊びだったのか
最低だろう、自分でもクズだと思う

しかしはっきり言って今のお前も荷が重い

俺は一生お前という
植物人間を背負わされるのか

社長の座はお前のもの
俺はしがない代理にすぎん
そんな会社など辞めて
ベンチャーするさ

試すのは良いが試されるのは御免だ

だがな、奈利子
ここに来ずにはいられない

今日こそは目覚めるか
今日こそは目覚めるかと
ぼろ切れのように
疲れはてても来てしまう

頼むから俺を試すのは止めてくれ
目覚めてくれないか
もう、うんざりなんだ

願っても祈っても叶えられないことを
いつまでも待ち続けるのはうんざりだ

そうだろう、奈利子
お前もいつまでも死んだふりなんか
していられないだろう
たった一度の人生なんだ

もし死んでやり直せるなら
いっそ呼吸器を外そうか
お前の呼吸器を外してしまおうか

安楽死……

お前に生きていてほしいと
思ってしまうのは何故なんだろう

愛とか恋とかそんな甘い言葉は
使いたくない

彼女はお前より可愛いし、若くてセクシーだ
お前に萎えたものが彼女には燃えたぎる
それを愛だの恋だのと恥ずかしげもなく
さんざんほざいてきたよ
だからなのか

あまりにも軽くて言葉も感覚も
空しく通りすぎるんだ
掌からホロホロと千切れた紙屑のように
風に吹き飛ばされるそんな無価値なもの
言葉とセックスがまるで男女の繋がりの
王道のように勘違いしていた

だって男だからな
仕事の他は恋だの愛だのと
明るく楽しい気分になって
現実逃避したいのさ

お前は俺のストレスの種だ
ストレス発散くらいしてもいいだろう
他の女じゃなければ勃たないんだから

そろそろ新しい女の子と
関係したい気分だよ

俺はそういう男だから
お前が俺を見下げるのも無理はないさ
最低だろう

俺は愛だの恋だのとお前には言えない
言えなくなってしまった

ただ大切にしたい
このままで終わらないでくれ

お前の人生をもう一度

もう一度
笑顔にさせてくれないか
頼む



★★★★★★★★★★



奈利子の夫は陸橋を渡る際の地震によって意識を失うほどの大怪我をしたが、入院するまでに数時間を要しただけで、大勢が死亡した災害の生き残りとしてはまだ恵まれている。


愛人と歩いているところだった。


「奥さんに会わせて。植物人間だったら私が面会してもわからないでしょ」


そう言った愛人は地割れの中に落ちてまだ救出されず、安否確認も取れないままに細かな地震が何度も起きて、地面は再び閉じられようとしている。


ビルの窓辺から吹き飛ばされた人々は落下の衝撃でほぼ死亡した。


奈利子の入院先の病院も悲惨な状態だった。


地震で奈利子の身体はベッドから振り落とされた。


ベッドの拘束帯は元々外されていたから、奈利子の痩せた身体はぐらりときた瞬間にベッドの手すりを越えた。


呼吸器に繋がっていた気管挿管チューブが無理に外れて、喉から血が出た。身体に繋がっていた様々な色の線が跳び跳ねて散る。


奈利子はベッドから壁に叩きつけられてそのまま床に落ち、そこから滑って開いたドアの前で目覚めた。



痛い……あれ、ここは……
ここはもしかしたら病院かな
私は戻ってこれたの
うう、う……



痛み止が効いているはずの身体に、細かい揺れが痛みを意識させる。揺れが収まるまでに奈利子はゆっくり立ち上がって揺れる亡霊のように部屋を出た。


喉から出た血が口元を汚して、奈利子の水色のストライプの病着に滴る。いつ噛んだのか覚えがないが、舌の端っこも痛い。


病院中が大騒ぎする中で、奈利子は誰の注意も引かずにふらふらと歩き回る。


家族が食事をしたり入院患者が気晴らしに来たりするデイスペースでは、椅子やテーブルが乱雑に移動した形跡があって、倒れた人が意識を失ったまま看護士に呼び掛けられていた。



ここは現代なのね
私は入院していたのか
記憶にないけど

清正……
清正、返事して……










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