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8) 物理的に存在する場所
しおりを挟む激しい縦揺れと横揺れが連続して、病院内部も阿鼻叫喚の地獄と化している。五階建ての三階部分の西側が崩れて斜めになった上階に、奈利子は滑って来た。
大勢の怪我人と死人が出た。医師も看護師も無事な人は現場で怪我人を救護したが、間に合わない。見舞い客や患者まで動ける者は総出で怪我人を助け、診療室に運ぶ。
地震が鎮まって奈利子は西側の階段を下りた。三階への踊り場からもう潰れている。無機質なコンクリートの天井が信じられない曲線を描く。既に崩れ落ち鋭く尖った灰色の落下物の向こうに、目が釘付けになった。
血……
赤いのは血だ
紺色のスカート
足……
割落したコンクリートの下に人らしき一部が見えたが、その様相は複数の身体が互い違いの向きに倒れたためだと思える。
「生きてますか……」
声がでない
喉が痛む
返事はない
割れた硝子の細かな光の粒が、傾斜した廊下の一方で存在を明らかにしている。
奈利子は踊場を諦めて階段を上り始めた。その踊場を下れば、階段から落ちた死体を発見することになったはずだった。
私はどこに行くつもりだったの
ここが病院だとしても
これは夢よね
こんな現実って想像できない
私は結婚していて
一緒に暮らしている夫がいて
なんとなく老後も
一緒だろうと思っているんだけど
でも清正は……
清正も夢だったの
私はどこにいるべきなの
夫は何をしているの
時間がわからない
ここはどこ、ここが元の世界なの
疲れた……脚が疲れた
階段を上りきれない
崩れ掛けて斜めになった階段
あと三段……
手すりがほしい、杖がほしい
声が聞こえる
芥川龍之介の蜘蛛の糸はね
お釈迦様は無能だと言う話なんだよ
気まぐれで予知能力がないから
蜘蛛の糸を地獄に垂らしたのさ
もしも予知能力があって
あれをやったのなら性格残忍だよね
カンダタが失敗するのがわかっていて
希望を持たせて落とすのだもの
だから世の中にはこんな無惨なことが
違う……お釈迦様なんていない
もっと違う存在だ
闇……悪夢……魔……
揺れる、細かな揺れが……
私はカンダタだ
蜘蛛の糸でも良いから
救いを垂らしてほしい
★★★★★★★★★★
見目麗しく立ち居振る舞いも流麗で言葉の控えめな若い宦官、清正。数ヵ月の間に夜伽に長け、微笑みも自然になった。
天皇の目に清正の変貌は好ましくも畏怖なものに思える。
魔物のように美しい
あれは日々美しくなる
この頃は
あれの腕が絡まるだけで
朕はおかしくなる
白蝋の腕と糖蜜の唇
天皇の耳に不穏な知らせが届く。
離宮の正門を守る宦官兵士が斬り殺されており、数名の侍女の服毒死体が発見されたとのこと。
「清正は無事か」
「はっ。忍びが守っておりますゆえ」
「今日の政務はこれ迄じゃ。離宮に参る」
大臣たちは頭を下げ溜め息を堪えた。下手に大きな息を吐いて天皇のご尊耳を汚したとして罰を下されたら堪らない。
天皇は後ろを構わずに大股で議政堂を出た。
★★★★★★★★★★
奈利子は所々鉄筋だけになった半壊した階段を這いつくばって上りきった。薬が効いていても、僅かだが痛みはわかる。それが地震の惨劇を現実だと知らせる。
あの階段は天井が崩壊して
降りることができない
外に出たいのに
エレベーターも使えない
何処の階段が無事なのだろう
急いで探さなければ
ああ、この廊下は滑り台みたい
どうやって上るの
片側に人間が折り重なって
呻いている
恐ろしい……
清正の世界に戻りたい
清正の中でいい
身体を持たなくてもいい
阿鼻叫喚の世界より
天皇に認められなくても
愛されなくても
妾姫たちに命を狙われても
身体を持たない存在でも
清正以外には知られてなくても
物理的な存在ではないから
誰にも認められないけれど
こんな恐ろしい世界よりも
向こうの方が……
こんなのが現実だなんて
何で……
私の物理的に存在する世界は
恐ろしい処だ
奈利子の夫が瓦礫の下から救助された。
★★★★★★★★★★
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