宦官情話

藤森馨髏 (ふじもりけいろ)

文字の大きさ
11 / 21

11) ひび割れた硝子

しおりを挟む


殺したい人と言って浮かぶのは、奈利子にとっては夫しかいない。いや、正確に表すなら夫と浮気相手の女がセットになっている。


だからといって誰かに殺してもらおうなどとは思っていない。ただ、夫と相手の仲が壊れればよいと思い、壊れてもよりは戻さないからねと嫌悪感が叫ぶ。


奈利子は、夫を捨てるつもりでいる。



「集団ストーカー………ですか」

「あら、ご存知。まさかあなたも集団……」



男は慌てた。



「いえいえ、ネットで調べただけですよ。僕が集団ストーカーなんてとんでもない話です。逆に、これからその集団ストーカーを、専門的に暴く仕事をするつもりなんですから」

「え、ホントに、凄い」



奈利子の表情が明るくなった。



「心強い味方だわ。私が依頼してもいいかな」



奈利子は、集団ストーカーによる安眠妨害が原因の事故によって、ついさっきまで「植物人間」「生ける屍」として眠っていたのだ。


奈利子の夫は、奈利子の呼吸器を外そうかとまで悩んでいた。偶然起きた地震は奈利子にとって再び目覚めるチャンスになった。



「良いですよ。僕でよければお話伺います。でも、僕を直ぐに信用できますか」

「あなた、見知らぬ私にゲイだとカミングアウトしたでしょう。私、主婦なんだけどね、実は会社を幾つか持ってるの。嘘だと思う。実権は夫に奪われていて、私は名ばかりのお飾り」

「名ばかりのお飾りとは、代表と言うことですね」

「そうね。親から引き継いだの。結構いろいろやってて……でも、夫は女遊びが激しくて、いい加減クビにしたいの。その矢先に事故に遭って入院ってことになったみたいね。よく覚えてないのよ、自分の身に何が起きたのか。気付いたらこんなだもの。悪夢かと思った」



話しながら四階まで階段を下りきると、三階への階段には上り下りする人々の姿があった。忙しなく動く人々の足元で、割れた硝子が粉々に砕けシャリシャリと音が鳴る。


『名ばかりのお飾り』として踏み付けにされていた自分の心の抵抗。そんな気がする。


奈利子は、細やかな音に自分を重ねたが、ふと、薄く赤い線に気付いた。



血だ……
誰かが踏んだのね



奈利子は裸足だ。ここまで足裏に傷をつけずに来れたのは驚きだ。不思議な思いで足を踏み出そうとするするところへ、男が「おぶりましょう」と背を向けた。


男もまた床の血痕に気付いた。一般人がゲイとして堂々と生きるには、まだ開かれていない社会。家族へのカミングアウトや愛する人への告白は、裸足で硝子を踏むような辛いものだ。



心が硝子になって、石つぶてを受ける
大小のひび割れから血を流す

僕は叫んでいた
誰にも聞かれず届かない叫び
口をつぐんでも心は叫ぶ

僕は人間だ
男だ女だと言う前に
ひとりの人間だ
何故、自由に生きられない

異質なものに対する
鋭い硝子の欠片のような
同性からの反応

LGBTだけじゃない
マイノリティは千差万別だ



奈利子も叫んでいた。誰にも届かない叫びだった。人の心は硝子に似て、二人の脳裏に同じ感覚が過る。




「背に腹は代えられないですものね。でも、お願いしたくても、この通り……」



奈利子の病着は血がついている。それを見せた。



喉が痛いのも舌が痛むのも
口のなかに何かしらの
問題があったからかも



「気にしませんよ、こんなときに……」



男は背中を向けた。奈利子の体重が男の背中に掛かる。いくらダイエットに励んでも落ちなかった体重が、半年の入院期間に半分近くに落ちた。



「御免なさいね」

「軽いですね」



男は、奈利子の痩せ細った身体に、母親を重ねた。


眼下に意識を移す。床の血痕は薄く引き摺られて、その先から一本足になったのか、ポタポタと滴る血痕を幾つか残して途切れている。



誰かに助けられたのか
歩行器か車椅子か



大人しく背負われて、奈利子はブラジャーをしていないことに初めて気付いた。



恥ずかしい
けど……
そんなこと意識していられない
今はここから脱出することよ
再びベッドに
縛り付けられないように
一刻も早く出なくては
夫に見つかる前に

私の現実は
生易しいものではない

誰でも私の立場に立ったら
きっとみんな集団ストーカーや
私の夫を憎んでくれるわよね
浮気相手のことだって
憎んでくれるわよね
当たり前のことよね

私は私として
置かれた立場で抵抗する

集団ストーカーの企みを受け入れない



男は後ろ向きになって階段を軽やかに下り始めた。



「器用ですね」

「でしょう。毎日のようにやってたんですよ。母が階段を怖がるので、身に付いた技です。母の部屋は二階なのにトイレは一階にしかなくて。年寄りは、動けなくなって部屋を代えるとボケると聞いたことがあったので、頑張りましたよ」

「親孝行ですね」

「いや、僕にとっては軽い運動でしたね。ジムより安い。ははは」



男は過去形で話している。奈利子には両親も子供もいない。若い頃に兄が早逝して、親の会社の為に選んだ相手と結婚した。家族と言えるのは裏切り者の夫だけだ。



裏切り者でも家族と言えるのかな

こんな人が夫だったら良かったのにな

この人はまだ若いのに母親の介護
私は夫に浮気されて
集団ストーカーの被害に遇っている
誰にでも何かしらのことはあるものよね

でも、何かしらあると言っても
ゲイは犯罪ではないし社会は変わる
どんなに社会が変わっても
集団ストーカーは犯罪に違いないから
私もいつかは救われるよね



二階まで下りていた。



この階段を下りきれば外に出られる
タクシー乗り場に行って……














しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

創作BL短編集

さるやま
BL
短編まとめました。 美形×平凡、ヤンデレ、執着・溺愛攻め多め

寂しいを分け与えた

こじらせた処女
BL
 いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。  昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

囚われた元王は逃げ出せない

スノウ
BL
異世界からひょっこり召喚されてまさか国王!?でも人柄が良く周りに助けられながら10年もの間、国王に準じていた そうあの日までは 忠誠を誓ったはずの仲間に王位を剥奪され次々と手篭めに なんで俺にこんな事を 「国王でないならもう俺のものだ」 「僕をあなたの側にずっといさせて」 「君のいない人生は生きられない」 「私の国の王妃にならないか」 いやいや、みんな何いってんの?

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...