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11) ひび割れた硝子
しおりを挟む殺したい人と言って浮かぶのは、奈利子にとっては夫しかいない。いや、正確に表すなら夫と浮気相手の女がセットになっている。
だからといって誰かに殺してもらおうなどとは思っていない。ただ、夫と相手の仲が壊れればよいと思い、壊れてもよりは戻さないからねと嫌悪感が叫ぶ。
奈利子は、夫を捨てるつもりでいる。
「集団ストーカー………ですか」
「あら、ご存知。まさかあなたも集団……」
男は慌てた。
「いえいえ、ネットで調べただけですよ。僕が集団ストーカーなんてとんでもない話です。逆に、これからその集団ストーカーを、専門的に暴く仕事をするつもりなんですから」
「え、ホントに、凄い」
奈利子の表情が明るくなった。
「心強い味方だわ。私が依頼してもいいかな」
奈利子は、集団ストーカーによる安眠妨害が原因の事故によって、ついさっきまで「植物人間」「生ける屍」として眠っていたのだ。
奈利子の夫は、奈利子の呼吸器を外そうかとまで悩んでいた。偶然起きた地震は奈利子にとって再び目覚めるチャンスになった。
「良いですよ。僕でよければお話伺います。でも、僕を直ぐに信用できますか」
「あなた、見知らぬ私にゲイだとカミングアウトしたでしょう。私、主婦なんだけどね、実は会社を幾つか持ってるの。嘘だと思う。実権は夫に奪われていて、私は名ばかりのお飾り」
「名ばかりのお飾りとは、代表と言うことですね」
「そうね。親から引き継いだの。結構いろいろやってて……でも、夫は女遊びが激しくて、いい加減クビにしたいの。その矢先に事故に遭って入院ってことになったみたいね。よく覚えてないのよ、自分の身に何が起きたのか。気付いたらこんなだもの。悪夢かと思った」
話しながら四階まで階段を下りきると、三階への階段には上り下りする人々の姿があった。忙しなく動く人々の足元で、割れた硝子が粉々に砕けシャリシャリと音が鳴る。
『名ばかりのお飾り』として踏み付けにされていた自分の心の抵抗。そんな気がする。
奈利子は、細やかな音に自分を重ねたが、ふと、薄く赤い線に気付いた。
血だ……
誰かが踏んだのね
奈利子は裸足だ。ここまで足裏に傷をつけずに来れたのは驚きだ。不思議な思いで足を踏み出そうとするするところへ、男が「おぶりましょう」と背を向けた。
男もまた床の血痕に気付いた。一般人がゲイとして堂々と生きるには、まだ開かれていない社会。家族へのカミングアウトや愛する人への告白は、裸足で硝子を踏むような辛いものだ。
心が硝子になって、石つぶてを受ける
大小のひび割れから血を流す
僕は叫んでいた
誰にも聞かれず届かない叫び
口をつぐんでも心は叫ぶ
僕は人間だ
男だ女だと言う前に
ひとりの人間だ
何故、自由に生きられない
異質なものに対する
鋭い硝子の欠片のような
同性からの反応
LGBTだけじゃない
マイノリティは千差万別だ
奈利子も叫んでいた。誰にも届かない叫びだった。人の心は硝子に似て、二人の脳裏に同じ感覚が過る。
「背に腹は代えられないですものね。でも、お願いしたくても、この通り……」
奈利子の病着は血がついている。それを見せた。
喉が痛いのも舌が痛むのも
口のなかに何かしらの
問題があったからかも
「気にしませんよ、こんなときに……」
男は背中を向けた。奈利子の体重が男の背中に掛かる。いくらダイエットに励んでも落ちなかった体重が、半年の入院期間に半分近くに落ちた。
「御免なさいね」
「軽いですね」
男は、奈利子の痩せ細った身体に、母親を重ねた。
眼下に意識を移す。床の血痕は薄く引き摺られて、その先から一本足になったのか、ポタポタと滴る血痕を幾つか残して途切れている。
誰かに助けられたのか
歩行器か車椅子か
大人しく背負われて、奈利子はブラジャーをしていないことに初めて気付いた。
恥ずかしい
けど……
そんなこと意識していられない
今はここから脱出することよ
再びベッドに
縛り付けられないように
一刻も早く出なくては
夫に見つかる前に
私の現実は
生易しいものではない
誰でも私の立場に立ったら
きっとみんな集団ストーカーや
私の夫を憎んでくれるわよね
浮気相手のことだって
憎んでくれるわよね
当たり前のことよね
私は私として
置かれた立場で抵抗する
集団ストーカーの企みを受け入れない
男は後ろ向きになって階段を軽やかに下り始めた。
「器用ですね」
「でしょう。毎日のようにやってたんですよ。母が階段を怖がるので、身に付いた技です。母の部屋は二階なのにトイレは一階にしかなくて。年寄りは、動けなくなって部屋を代えるとボケると聞いたことがあったので、頑張りましたよ」
「親孝行ですね」
「いや、僕にとっては軽い運動でしたね。ジムより安い。ははは」
男は過去形で話している。奈利子には両親も子供もいない。若い頃に兄が早逝して、親の会社の為に選んだ相手と結婚した。家族と言えるのは裏切り者の夫だけだ。
裏切り者でも家族と言えるのかな
こんな人が夫だったら良かったのにな
この人はまだ若いのに母親の介護
私は夫に浮気されて
集団ストーカーの被害に遇っている
誰にでも何かしらのことはあるものよね
でも、何かしらあると言っても
ゲイは犯罪ではないし社会は変わる
どんなに社会が変わっても
集団ストーカーは犯罪に違いないから
私もいつかは救われるよね
二階まで下りていた。
この階段を下りきれば外に出られる
タクシー乗り場に行って……
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