堕ちた令嬢と冥界の契約

第1話 逃亡の始まり

クロエ・ハートフィリアは、部屋の窓から庭を見下ろしていた。美しく整えられた花々が風に揺れ、静かな夜の空気が漂う。華やかな生活に囲まれながらも、彼女の胸には深い孤独と怒りが渦巻いていた。貴族としての地位、贅沢な生活、それらがどれほど虚しいものか、今のクロエには痛いほど分かっていた。

「こんなところに、もういられない……」

静かにそう呟いたクロエは、ベッドの脇に用意していた服を手に取った。それは黒いフード付きのパーカーとホットパンツ。動きやすさと変装のために選んだ庶民的な服装だった。華やかなドレスとは対極の姿だが、今の彼女にとっては必要なものだ。

「誰も私を見つけられない……」

クロエはフードを深くかぶり、鏡の前に立つ。黒髪はそのまま肩に自然に流し、金色の瞳はフードの陰に隠れていた。まるで別人のように変装した姿を確認すると、彼女は少しだけ安堵の息をついた。普段の侯爵令嬢の姿とはかけ離れた今の彼女なら、誰にも気づかれないだろう。

「イステリア……あそこなら、誰も私を追ってこないはず……」

クロエはイステリアの街のことを思い浮かべた。東の果てにある辺境の街。王都からは遠く離れており、貴族の目が届かない場所だ。クロエはそこで新たな人生を始めるつもりだった。冒険者として、自分の力で生き抜くために。もう誰にも支配されることなく、自由な人生を求めて。

荷物は最小限にまとめた。革製の小さなバッグに入れたのは、金貨と冥界とのつながりを感じるための象徴――冥界からスケルトンを召喚するための儀式に使う黒曜石の小さなペンダント。クロエが持つ闇の力は、生まれながらにして彼女に宿っていた。彼女はその力を使い、冥界からスケルトンを召喚することができる。強大な力を持つわけではないが、彼女にとっては貴重な戦力だった。

「これで十分……」

クロエは自分にそう言い聞かせ、準備を終えた。魔法書や大掛かりな道具は必要ない。彼女の力は冥界との契約に基づくものであり、必要なのは心の集中と意志の強さだけだった。

クロエは静かに部屋を抜け出し、廊下を慎重に歩いた。屋敷は今夜の宴で賑わっており、使用人たちも客人の世話に追われていた。誰も彼女の動向に気づいていない。裏口までの道を進む中、彼女は一瞬だけ振り返った。生まれ育ったこの家――もう二度と戻らないことを決意して、クロエは扉を開けた。

冷たい夜風がクロエの頬を撫で、彼女はその瞬間、自由を感じた。もう誰にも縛られない。自分の足で未来を切り開くために、彼女は家を出たのだ。

「これで、すべてが始まる……」

クロエは自らに言い聞かせながら、夜の街を急いだ。魔導列車が発車するまで、もう時間はない。駅に向かう彼女の足は、思いのほか軽かった。列車に乗れば、イステリアまでは何日かかるか分からないが、それでも彼女にとっては希望に満ちた旅路だった。

駅に着いたクロエは、夜遅くの静かなプラットフォームに立っていた。乗客は少なく、深夜の列車を待つ人々は皆、疲れた表情をしている。クロエはその中に紛れ込み、目立たないようにフードをさらに深くかぶった。

「誰にも気づかれない……」

そう思った矢先、列車が滑るように駅に到着した。クロエは列車のドアが開くのを見て、急いで中に乗り込んだ。車内はほとんど空いており、彼女は窓際の席に静かに腰を下ろした。列車がゆっくりと動き出し、クロエは一息つく。彼女の目の前には、果てしなく続く夜の闇が広がっていた。

クロエは窓の外に目を向け、静かな街並みが遠ざかっていくのを見つめていた。この街に戻ることはない――もう彼女は過去を捨て、新しい未来に向かって進んでいるのだ。

「これからは、私の力で生きる……」

クロエはそう決意を新たにし、ペンダントを軽く握りしめた。彼女の中で、冥界とのつながりが微かに脈打つのを感じる。必要な時が来れば、スケルトンを召喚し、彼女の手となり足となるだろう。

「イステリア……新しい世界で、すべてを変えてみせる。」

列車は夜の闇を切り裂き、クロエを遠く東の果てへと運んでいった。これが、クロエ・ハートフィリアの新たな冒険の始まりだった。貴族としての束縛から逃れ、冥界の力を使って自分自身の未来を切り開くための旅が、今、始まろうとしている。