青い傘と君の香り

マッシー 短編小説家

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青い傘と君の香り

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駅前の古びた喫茶店で、初めて彼女を見たのは、雨が降り続いていた梅雨の午後だった。
窓際の席に座る彼女は、テーブルの上に青い傘を立てかけて、手帳に何かを書き込んでいた。ぼんやりとした雨音と、店内の静けさの中で、彼女だけが光って見えた。

僕はいつも決まった席に座り、同じホットコーヒーを注文する。けれどその日は、気がつけば彼女から二席離れたところに腰を下ろしていた。

「すみません、砂糖ありますか?」
ふとした瞬間に彼女が声をかけてきた。柔らかく響く声だった。
僕は急いでテーブルの上の砂糖を彼女に差し出した。
「ありがとうございます」
そう言って微笑んだ彼女の笑顔は、雨空が嘘みたいに晴れるようだった。

それから僕たちは、偶然を装って何度も同じ時間に喫茶店に通うようになった。会話は少しずつ増え、名前を交換し、彼女が美大生だということを知った。彼女の手帳には、青い傘のスケッチや、短い詩のような言葉が書かれていた。

「雨って好きなんです」
ある日、彼女がぽつりと言った。
「小さい頃、母がいつも青い傘を持って迎えに来てくれたんです。それが、すごく安心する色で」
僕は彼女の傘を見て、なるほどと頷いた。

それから何度か、彼女と一緒に雨の中を歩いた。青い傘の下で、彼女の近くにいると、不思議と心が温かくなった。

けれど、夏が来る頃、彼女は突然喫茶店に現れなくなった。連絡先も知らなかった僕は、彼女を探す手がかりを失った。ただ、青い傘を持った彼女の姿が、記憶の中で鮮やかに残ったままだった。

数ヶ月が過ぎ、喫茶店の窓から見える街並みが冬の冷たい風景に変わった頃、僕はある美術展で偶然彼女の名前を見つけた。展示されていたのは、大きなキャンバスに描かれた雨の日の街角だった。青い傘をさした二人が並んで歩いている後ろ姿。その絵の中で僕は、彼女と自分が一緒にいることを知った。

絵の片隅に、小さく書かれた文字があった。
「雨が降るたび、あなたを思い出す」

その瞬間、胸の奥に眠っていた彼女の笑顔が、再び鮮明に浮かび上がった。もう一度会いたい。そう強く思ったのは、彼女の残した言葉が、僕へのメッセージに思えたからだ。

そして僕は、次の雨の日を待つことにした。
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