時雨太夫

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第八話 

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 喜瀬屋きせやから裸足で走り出した時雨しぐれは全速力で大門おおもんの方へ走り出した。
大門おおもんとは吉原よしわら唯一の出口のことだ。
一応裏口はあるのだが厳重に管理されており年に一回しか開かない。夜間用の出入り口もあるがそこも厳重に管理されている。
また吉原よしわら全体は少し高めの板塀いたべいに囲まれ、その外側には幅およそ五間ごけんのおはぐろどぶとよばれる堀が取り囲んでいる。
 時雨は、乱れた着物のすそを直そうとはせず、そのまま走り続けた。はだけた太股が見え隠れし、吉原よしわらの客達の視線を集めている。
大門おおもんの近くに数人の廓者くるわもの達が六尺棒ろくしゃくぼうを抱え、雑談していた。大門おおもんはすでに片門かたもんが閉まっていた。
男達の一人が、異様な姿で走ってくる時雨しぐれに気づいた。

「おい、そこの女、止まれ!」

 気づいた廓者くるわもの達は大門おおもんを塞ぐように立ちはだかった。
八人が扇形になって隙間を埋める。
しかし、時雨しぐれの速度は一向に落ちない。それどころかさらに加速する。
廓者くるわものの一人が呼び子を咥えた。

 ぴー ぴっ ぴっ ぴっ ぴー


 吉原よしわらの夜空に甲高い音が響き渡る。足抜あしぬけ発見の合図の音だ。吹き終えた廓者くるわものが前を向いたとき、目の前に肌色の物体が迫っていた。
 呼び子を吹いた廓者くるわものの顔に時雨しぐれひざが喰い込み凄まじい音を立てる。
時雨しぐれはそのまま身体を一回転させる。
真横に伸ばされた腕の先には二振りの太刀がさらに間合いを伸ばすように握られていた。
つむじ風のような速度の回転は同時に三人の廓者くるわものを吹き飛ばす。
扇状になっていたうちの半数がすでに吹き飛ばされ、意識を失っている。
吉原よしわらに来た客達は危険を察知して遠くへ逃げ出している。
残った廓者くるわもの達は六尺棒ろくしゃくぼうを各々構え、取り押さえにかかった。
時雨しぐれの身体が少し低くなったと同時に、残った四人が身体の一部を押さえ崩れ落ちる。
すでに大門おおもんを守る廓者くるわものはいない。
時雨しぐれはそのまま大門おおもんを越え、ふたたび東雲とううんの診療所の方へ走り出した。

かん・かん・かん
かん・かん・かん

 火災を知らせる半鐘はんしょうが鳴り響いている。時雨しぐれは全速力で走っていた。

(ちくしょう。証拠を無理矢理消しやがった)

 時雨しぐれは走りながら帯を巻き、一振りの太刀たちを帯の間に差していた。もう一振りは左手に持ったままだ。
走り続けると、どんどん人が増えてくる。火事見物の野次馬と江戸の火消し衆が集まっているのだ。
 次第に人混みをかきわけるようになると時雨しぐれは方向を変えた。
狭い路地に積んである水桶を利用し、屋根の上にあがる。そのまま瓦の上を走り屋根伝いに目的地を目指した。目指す方向には煙が上がり、空は赤く照らされている。屋根の先にはちらちらと赤い炎が見て取れた。

(火の勢いが強すぎる……)

 屋根伝いに走り、あと一町という距離に近づいたとき、時雨しぐれの鼻にきつい匂いが入り込んだ。
つんっと頭に響く匂いが周囲に立ちこめている。下を走る火消し達も濡らした布で口と鼻を覆っていた。

「なんだ? この匂い?」
「この火、消えないぞ!」
「水じゃあ駄目だ、周りの建物を全部壊せ!」

 火消し達の怒号が飛び交っている。すでに消火は諦めたらしく、各々が斧やまさかりを手に走っている。
一瞬、ぱっ と赤い光が走った。
凄まじい音とともに診療所の辺りから黒煙が上がり、強い衝撃が走る。一瞬、時雨は走っていた足を止めた。その後、熱風が辺り一面に渦を巻いた。
 時雨しぐれの着物も捲り上げられ、白い太股が露わになる。時雨しぐれの眼には赤い炎が渦を巻き、天に昇っているように視えた。

「……綺麗」

 時雨しぐれは思わず立ち止まり、狂い立つ炎をじっと見つめていた。しかし、すぐに正気に戻る。
時雨しぐれは診療所に近づくのを諦め、周辺の屋根に眼をこらした。左手に五人の人影が隠れるように移動している。
時雨しぐれ脱兎だっとのごとく五人の方へ走り出した。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「はぁ、やれやれ。この男と女だけで良かったんだよなぁ」

 暮染くれいろの服を着た者が隣を移動している者に声をかけた。声をかけられた者は黙って頷いた。

「しかし、ただの医者じゃねぇな。こっちは二人殺られた、誤算もいいところだぜ。これから大名屋敷を襲うってのにな」

 五人は全員、暮染くれいろの服を着ている。夜の闇に紛れるにはこの手の色の方が良い。
黒が良いように思えるが意外と目立つ。五人のうち二人は各々一人ずつ人を抱えている。

「さっさと引き上げ……」

 五人のうちの一人が突然黙った。
他の四人は怪訝そうな目で黙った男の方を見ている。

「どうした?」

 黙った男が前のめりになって倒れ込んだ。そのまま瓦を引きずりながら地面へ落ちた。派手な音が辺り一面に響き渡る。落ちた男が立っていた場所に長髪の女らしき存在が立っていた。手には反り返った太刀たちが握られている。太刀たちの先からぽたりぽたりと雫が落ちていた。

(こいつ……、やべえ)

 戦い慣れた者達の本能が危険と判断していた。遠くで揺らめく炎の光りで、立っている存在の認識は出来た。とてつもなく背が高い女。手には太刀たち。腰にも刀を下げている。

「行け。こいつは……、止めてみる」

 一人が直刀を引き抜き、もう一人は鎌を取り出した。残りの二人は振り返りもせず地上に降りて走り出す。すぐに下の方で火の手が上がった。また、頭を刺激する匂いが立ちこめた。
時雨は一度、太刀を鞘の中に収る。
 
「逃がすか!」

 収めて刹那、時雨しぐれ直刀ちょくとうを持った男の首に下から太刀を振るった。致命傷に三分足りていない。しかし、確実に戦闘力は奪っている。
見事な抜き打ちだ。
直刀ちょくとうを持った男の喉に太刀たちの切っ先が喰い込んで顎の骨で止まっている。鎌を持った暮色くれいろが半歩動いた。
炎の赤い光りが刀身に光り、真っ赤な刀身はを描き直刀の男を叩き斬った。男の身体は斜めにずれ、徐々に上半身のみずり落ちていく。
 鎌を持った暮色くれいろは動けなかった。
赤い刀身がを描き直刀ちょくとうの男を切りつけたとき、斬られた男の身体はすでにずれはじめていたのだ。
かまをもった暮色くれいろは反射的にただ、自分の持てる最高の技を繰り出していた。
何かが闇夜を切り裂いてゆく。
しかし、狙った場所に女はいなかった。
慌てて左手に持った鎖を引き戻し円をえがくように振り回す。ただ、それはまったく意味をなさなかった。
鎖を振った瞬間、腕が鎖ごと屋根の上に落ちたのだ。
時雨しぐれの肘が鎖鎌くさりがまを使う暮色くれいろあごを思いっきりいでいた。覆面の上からでも顎の骨がずれたのが分かる。
その暮色くれいろはそのままその場に沈みこんだ。
 時雨しぐれは手早く足を縛り、左腕の止血をし、猿ぐつわをかませ、柄頭つかがしらを猿ぐつわの上から二回三回と叩きつけた。
からからという音が口の中から聞こえてくる。
それだけのことを済ませると鼻をひくひくとさせ、逃げた二人の行方を追って走り出した。
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