時雨太夫(通常版)

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第三十五話

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時雨しぐれ殿、いかがなされた」

 吉原よしわらから離れた待合茶屋まちあいちゃや。そこに時雨しぐれ桂真之介かつらしんのすけはいた。
 今朝方突然、時任ときとうけ上屋敷かみやしき時雨しぐれが現れ、桂真之介かつらしんのすけを呼び出した。それで、そのまま待合茶屋まちあいちゃやへ連れてこられた。
真之介しんのすけは戸惑っていた。
ただ、よほどのことだな、とは感じていた。
 時雨しぐれはここへ来て半刻あまり経った今も何も話そうとはしない。ただただじっと窓の外を見ている。

安岐姫あきひめ様」

 真之介しんのすけは敢えて挑発してみた。
 少し危険だが仕方が無い。それでも時雨しぐれの反応は変わらなかった。ただぼーっと外を見ていた。しかし、その沈黙は突然破られた。

真之介しんのすけ、抱いて」

切ない、何かを覚悟した声だ。それは今までに聞いたことがない声だった。

「はぁ、何故でしょうか?」

 真之介しんのすけは取りあえず聞き返した。
朝早く、突然現れ、一刻近く待合茶屋まちあいちゃやでただいたずらに刻を過ごしたのだ。
それくらい理由を聞いても良いだろう。真之介しんのすけはそう思っていた。

「約束、したでしょう。今がいい」

ただそれだけの答えしか返ってこなかった。

「もしかして、肥前松風ひぜんまつかぜ家のことでしょうか?」

 真之介しんのすけは再度聞き返していた。返事は無い。ただ、黙っていた。少しの沈黙の後、時雨しぐれ真之介しんのすけに唇を重ねる。

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真之介しんのすけ、私、旅に出ようと思うの」

 最初に口を開いたのは時雨しぐれだった。真之介しんのすけは一瞬何が聞こえてきたのか理解できなかった。

(旅? どこへ? まさか西国さいごくへ?)

 真之介しんのすけは半身になり時雨しぐれの目を見た。それは遠いところを見ていた。

「……どちらへ。いや、聞きますまい」

 真之介しんのすけにはある程度の予想が出来ていた。そして、あえてそれを口にしなかった。それは、もともと自分たち武士の仕事であったからだ。

「ねぇ、真之介しんのすけ。あの人とはうまくいっているの?」

 時雨しぐれが口にしたのは真之介しんのすけの想い人、亜紀あきのことだろう。
真之介しんのすけが想いを寄せる後家であり、その右腕を切り落とした女である。
 真之介しんのすけは答えなかった。
いや答えることすら出来なかった。それは自分が逃げ回り、亜紀あきと向き合わず、己の気持ちを伝えていなかったからだ。
時雨しぐれはそれを察したかのように言葉を続けた。

「はやく、言っちゃいなさいよ、自分の気持ち。でないと後悔するから」

 時雨しぐれの顔はいつの間にか真之介しんのすけの方を向いていた。そこには八年前まであった屈託の無いやさしい笑顔と、大人になった時雨しぐれの包み込むような笑顔があった。
そしてまた、時雨しぐれはもとの時雨しぐれに戻った。すべてを決意し、未練を断ち切った顔だった。

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 幕府は迅速な動きを見せていた。各地に指示を飛ばし、密偵を放っている。それは上方かみがたであり、肥前ひぜんであり、そして、江戸市中だった。
同時に御殿医と東伯とうはくの元、紅笑芙蓉こうしょうふようの再現も行われていた。
 作られたそれは、死罪を待つ者達に使われ、効用と実態が徐々に明らかにされていった。そしてそれは今まで中毒を起こした物の中で最悪のものであった。

「ここまで酷いものとはのぅ」

 地下牢で暴れ、もがき苦しみ、泣き、笑う者達を目にし、東伯とうはくは頭を抱えていた。阿芙蓉あふようどころの騒ぎでは無かった。
 自分で自分を傷つけ、衰弱してゆく、それでもなお紅笑芙蓉こうしょうふようを求め続ける。そのような姿が目の前で繰り広げられていた。
 最初は男女五名ずつに使った。効果は半日後には現れ、全員が互いの肉体を貪り合い、嬌声きょうせいを上げた。
 二回目の紅笑芙蓉こうしょうふようを渡したとき、そこは地獄と化した。少なくなった紅笑芙蓉こうしょうふようを奪い合い、素手で殺し合いを始めたのだ。
そして、つぎの投与は無かった。それが、現在の状況を生み出していた。

「これでも口から飲んでいるだけだからのぅ。これを体内に直接入れられていたのじゃから気の毒じゃった」

 あれから、氷雨太夫ひさめだゆうはもがき苦しみながら死んでいった。
最後は全員が目を背けるほどであった。それは楼主ろうしゅである勘左衛門かんざえもん、医者である東伯とうはく、そしてあの不適な岡崎さえもである。

公儀こうぎはこの件をどう片付けるつもりかのぅ」

 東伯とうはくは、まだ回復せず、禁断症状に苦しむ東雲とううんの回復を願いながら呟いた。
その問いに誰も答えられる者はいない。
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