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第三十五話
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「時雨殿、いかがなされた」
吉原から離れた待合茶屋。そこに時雨と桂真之介はいた。
今朝方突然、時任家上屋敷に時雨が現れ、桂真之介を呼び出した。それで、そのまま待合茶屋へ連れてこられた。
真之介は戸惑っていた。
ただ、よほどのことだな、とは感じていた。
時雨はここへ来て半刻あまり経った今も何も話そうとはしない。ただただじっと窓の外を見ている。
「安岐姫様」
真之介は敢えて挑発してみた。
少し危険だが仕方が無い。それでも時雨の反応は変わらなかった。ただぼーっと外を見ていた。しかし、その沈黙は突然破られた。
「真之介、抱いて」
切ない、何かを覚悟した声だ。それは今までに聞いたことがない声だった。
「はぁ、何故でしょうか?」
真之介は取りあえず聞き返した。
朝早く、突然現れ、一刻近く待合茶屋でただいたずらに刻を過ごしたのだ。
それくらい理由を聞いても良いだろう。真之介はそう思っていた。
「約束、したでしょう。今がいい」
ただそれだけの答えしか返ってこなかった。
「もしかして、肥前松風家のことでしょうか?」
真之介は再度聞き返していた。返事は無い。ただ、黙っていた。少しの沈黙の後、時雨は真之介に唇を重ねる。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「真之介、私、旅に出ようと思うの」
最初に口を開いたのは時雨だった。真之介は一瞬何が聞こえてきたのか理解できなかった。
(旅? どこへ? まさか西国へ?)
真之介は半身になり時雨の目を見た。それは遠いところを見ていた。
「……どちらへ。いや、聞きますまい」
真之介にはある程度の予想が出来ていた。そして、あえてそれを口にしなかった。それは、もともと自分たち武士の仕事であったからだ。
「ねぇ、真之介。あの人とはうまくいっているの?」
時雨が口にしたのは真之介の想い人、亜紀のことだろう。
真之介が想いを寄せる後家であり、その右腕を切り落とした女である。
真之介は答えなかった。
いや答えることすら出来なかった。それは自分が逃げ回り、亜紀と向き合わず、己の気持ちを伝えていなかったからだ。
時雨はそれを察したかのように言葉を続けた。
「はやく、言っちゃいなさいよ、自分の気持ち。でないと後悔するから」
時雨の顔はいつの間にか真之介の方を向いていた。そこには八年前まであった屈託の無いやさしい笑顔と、大人になった時雨の包み込むような笑顔があった。
そしてまた、時雨はもとの時雨に戻った。すべてを決意し、未練を断ち切った顔だった。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
幕府は迅速な動きを見せていた。各地に指示を飛ばし、密偵を放っている。それは上方であり、肥前であり、そして、江戸市中だった。
同時に御殿医と東伯の元、紅笑芙蓉の再現も行われていた。
作られたそれは、死罪を待つ者達に使われ、効用と実態が徐々に明らかにされていった。そしてそれは今まで中毒を起こした物の中で最悪のものであった。
「ここまで酷いものとはのぅ」
地下牢で暴れ、もがき苦しみ、泣き、笑う者達を目にし、東伯は頭を抱えていた。阿芙蓉どころの騒ぎでは無かった。
自分で自分を傷つけ、衰弱してゆく、それでもなお紅笑芙蓉を求め続ける。そのような姿が目の前で繰り広げられていた。
最初は男女五名ずつに使った。効果は半日後には現れ、全員が互いの肉体を貪り合い、嬌声を上げた。
二回目の紅笑芙蓉を渡したとき、そこは地獄と化した。少なくなった紅笑芙蓉を奪い合い、素手で殺し合いを始めたのだ。
そして、つぎの投与は無かった。それが、現在の状況を生み出していた。
「これでも口から飲んでいるだけだからのぅ。これを体内に直接入れられていたのじゃから気の毒じゃった」
あれから、氷雨太夫はもがき苦しみながら死んでいった。
最後は全員が目を背けるほどであった。それは楼主である勘左衛門、医者である東伯、そしてあの不適な岡崎さえもである。
「公儀はこの件をどう片付けるつもりかのぅ」
東伯は、まだ回復せず、禁断症状に苦しむ東雲の回復を願いながら呟いた。
その問いに誰も答えられる者はいない。
吉原から離れた待合茶屋。そこに時雨と桂真之介はいた。
今朝方突然、時任家上屋敷に時雨が現れ、桂真之介を呼び出した。それで、そのまま待合茶屋へ連れてこられた。
真之介は戸惑っていた。
ただ、よほどのことだな、とは感じていた。
時雨はここへ来て半刻あまり経った今も何も話そうとはしない。ただただじっと窓の外を見ている。
「安岐姫様」
真之介は敢えて挑発してみた。
少し危険だが仕方が無い。それでも時雨の反応は変わらなかった。ただぼーっと外を見ていた。しかし、その沈黙は突然破られた。
「真之介、抱いて」
切ない、何かを覚悟した声だ。それは今までに聞いたことがない声だった。
「はぁ、何故でしょうか?」
真之介は取りあえず聞き返した。
朝早く、突然現れ、一刻近く待合茶屋でただいたずらに刻を過ごしたのだ。
それくらい理由を聞いても良いだろう。真之介はそう思っていた。
「約束、したでしょう。今がいい」
ただそれだけの答えしか返ってこなかった。
「もしかして、肥前松風家のことでしょうか?」
真之介は再度聞き返していた。返事は無い。ただ、黙っていた。少しの沈黙の後、時雨は真之介に唇を重ねる。
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「真之介、私、旅に出ようと思うの」
最初に口を開いたのは時雨だった。真之介は一瞬何が聞こえてきたのか理解できなかった。
(旅? どこへ? まさか西国へ?)
真之介は半身になり時雨の目を見た。それは遠いところを見ていた。
「……どちらへ。いや、聞きますまい」
真之介にはある程度の予想が出来ていた。そして、あえてそれを口にしなかった。それは、もともと自分たち武士の仕事であったからだ。
「ねぇ、真之介。あの人とはうまくいっているの?」
時雨が口にしたのは真之介の想い人、亜紀のことだろう。
真之介が想いを寄せる後家であり、その右腕を切り落とした女である。
真之介は答えなかった。
いや答えることすら出来なかった。それは自分が逃げ回り、亜紀と向き合わず、己の気持ちを伝えていなかったからだ。
時雨はそれを察したかのように言葉を続けた。
「はやく、言っちゃいなさいよ、自分の気持ち。でないと後悔するから」
時雨の顔はいつの間にか真之介の方を向いていた。そこには八年前まであった屈託の無いやさしい笑顔と、大人になった時雨の包み込むような笑顔があった。
そしてまた、時雨はもとの時雨に戻った。すべてを決意し、未練を断ち切った顔だった。
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幕府は迅速な動きを見せていた。各地に指示を飛ばし、密偵を放っている。それは上方であり、肥前であり、そして、江戸市中だった。
同時に御殿医と東伯の元、紅笑芙蓉の再現も行われていた。
作られたそれは、死罪を待つ者達に使われ、効用と実態が徐々に明らかにされていった。そしてそれは今まで中毒を起こした物の中で最悪のものであった。
「ここまで酷いものとはのぅ」
地下牢で暴れ、もがき苦しみ、泣き、笑う者達を目にし、東伯は頭を抱えていた。阿芙蓉どころの騒ぎでは無かった。
自分で自分を傷つけ、衰弱してゆく、それでもなお紅笑芙蓉を求め続ける。そのような姿が目の前で繰り広げられていた。
最初は男女五名ずつに使った。効果は半日後には現れ、全員が互いの肉体を貪り合い、嬌声を上げた。
二回目の紅笑芙蓉を渡したとき、そこは地獄と化した。少なくなった紅笑芙蓉を奪い合い、素手で殺し合いを始めたのだ。
そして、つぎの投与は無かった。それが、現在の状況を生み出していた。
「これでも口から飲んでいるだけだからのぅ。これを体内に直接入れられていたのじゃから気の毒じゃった」
あれから、氷雨太夫はもがき苦しみながら死んでいった。
最後は全員が目を背けるほどであった。それは楼主である勘左衛門、医者である東伯、そしてあの不適な岡崎さえもである。
「公儀はこの件をどう片付けるつもりかのぅ」
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