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草津の宿
陸
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「小吉! 刀を取らぬか!!!」
大音声。
小吉は反射的にはね飛ばされた得物の方へ身体を動かす。小吉を囲んで今にも止めを刺そうとする三人の攻撃を避けるなどは一切考えなかった。本当に、本当に反射的に身体が動いたのだ。
拳二つ分の距離が縮まり、愛用していた刀に手が届く。身体を捻りながら片手で刀を握り、もう片手で砂を掴む。
起き上がるには刹那の間が入る。この者達相手に時間稼ぎになるかどうかは分からないが、とにかく掴んだ砂を投げた。砂が舞い、その砂の壁を白刃が斜めに下から上へと斬り裂く。肉のぐにゅりとした感触が小吉の手に伝わった。刃筋が通っていない。小吉はこれが終わって生きていたら時雨に殴られると考えていた。
「小吉! まだ終わっておらぬぞ!」
もう一度声が響く。時雨の声では無い。しかし聞き覚えのある声。そう草津の宿で聞いた時雨の知り合いである桂真之介の声だ。小吉はすぐにその場を離れる。入り乱れる六つの影。血飛沫が舞い、三つの影が同時に倒れた。一つの影が近づいてきて、残り、立っている二つの影は倒れた三人の首を斬り落としている。
「小吉、大丈夫か?」
若く、優しい声が聞こえる。小吉は刀を構えたまま黙って頷いた。ゆらりと目の前の影、桂真之介が動く。
小吉の頭に拳骨が落ちる。
「戦場で諦める奴があるか! まだ五体は満足であろう!」
容赦ない怒声が響く。小吉は力が抜け、時雨を見て安心し、死に身を委ねかけた自分を恥じる。その二人の後ろに足音もさせずに先程から倒れた三人の処理をしていた一人が近づき真之介の耳元にそっと何かを囁いた。
小吉はぞっとする。真之介を挟んでいたとはいえ、この距離まで接近していたこの者に気づけなかったからだ。真之介は気がついていたのか黙って聞いていた。何事かを聞き、頷く真之介。
真之介は【わしっ】と小吉の頭を掴むと無理矢理頭の向きを変えた。そこには立ち尽くしている時雨ともう一人女が立っている。見覚えのある顔だ。
「ふむ、江戸の草であった美津か……、しかし、なぁ」
時雨と真正面から向かい合う美津。その立ち姿を見ながら真之介はぼそりと呟いた。
「勝て……ぬなぁ」
その言葉を聞き、背後にいた者の目線がぴくりと動く。その頃にはもう一人も真之介の後ろにたたずんでいた。
「お前達二人がかりに私の三人でもきついな」
真之介の言葉に【心外な】という雰囲気を出す二人組。小吉は真之介には多少見てもらっていたので実力は分かっている。その真之介と先程ぞっとするほど気配を殺せる者、三人がかりでも勝てないと真之介は言った。小吉にはまだ美津と呼ばれた女の実力は見ただけでは分からない。それが自分の実力だと感じ刀を地に向けた。
「小吉、しょぼくれることは無い。私もこの二人も時任家の中では最強の部類だ。お主には才能があるがこの段階で抜かれてては私もこの者達も面目が無い。そして美津、あれもそこそこの腕の持ち主ではあったのだがな。本当にそこそこだったのだが……」
真之介は動かない二人をじっと見つめている。動きたいと前面に感情を出している配下らしき二人は真之介に制されていた。
「……動くぞ」
真之介の口から言葉が出た瞬間、時雨と美津はお互いの距離を縮めていた。
■□■□■□■□
「……お美津」
時雨は自らの喉からこれだけの言葉を絞り出すのが精一杯であった。目の前のお美津の表情は江戸で暮らしていた刻とさほど変わらない。今まで狐面として殺りあっていた刻よりも表情がある。そして先程の言葉。
「殺してください……」
言葉には感情が籠もっていた。切ない感情。願いを叶えて欲しいという感情。偽りとも演技とも思えない感情がほとばしっていた。
お美津はゆらりと身体を揺らす。その顔に涙と悲しみを浮かべて。
下から突然斬り上げられた時雨は身体を仰け反らせながら刀で勢いを逸らす。感情に包まれていた時雨の失態。間合いの中に完全に踏み込まれ先制まで許していた。今までの時雨では考えられないことだ。
(戦場では感情を殺せ)
時雨の師の言葉が頭を過ぎる。時雨は素早く体を入れ替えるとお美津の身体に密着した。鍔を鍔に当てる。そのまま体格を生かし上に弾いてお美津の体を崩し、柄を握る指を狙う。お美津は鍔と身体に掛かった時雨の剛力を利用し宙へと跳ねた。時雨の左手が柄から離れお美津の肝を狙い振り降ろされる。その腕にお美津の足が迫った。
きらりと光る物がある。時雨は小袖の袖でその足を絡め取ろうとするが宙で器用に身体を捻ったお美津はそれを躱した。
普段はここで畳みかける時雨が後ろへと下がる。体勢が上手く取れていないお美津もそのまま時雨から距離を取った。
無言で見つめ合う二人。
時雨はお美津を見つめたままゆっくりと刀を鞘へと収めた。重心が下がる。お美津は構えない。顔を伝う涙はまだ流れていた。
「ごめんね、お美津」
時雨の呟きと同時に土煙が上がった。お美津の右脇腹を抜き上げられた刀身が斬り裂く。肋の辺りまで喰い込んだ刀身はいつの間にか抜け、弧を描きながらお美津の左肩に袈裟懸けで近づいた。そしてお美津の身体に吸い込まれ……。
刀身の半分ほどが喰い込んだところで時雨の強烈な一太刀が止まる。お美津の着る濃紺の服は衝撃で飛び散り、その下から鎖が飛び出した。そしてお美津の身体に沿って垂直に上がった刀身が時雨の刀を受け止めていた。そのまま柄を離し、時雨に抱きつくお美津。その光景に何が起こったか分からず全員が固まり、動けなかった。
「小吉! 私を貫きなさい!」
お美津の口から呪詛のような、言霊のような言葉が響く。
お美津の身体が揺れ、口から血の塊が吐き出され時雨の胸元を染める。先程までの様々な表情は無い。そしてお美津の顔とその先にいる者の姿を見て【きょとん】とした表情を作る時雨。そこには何が起こったのか理解できていない唖然とした小吉の顔があった。
【つぅーーー】と時雨の唇の端から赤い液体が流れ出る。時雨の身体の中に熱い芯が一本通ったからだ。痛みは無い。ただただ熱いだけだ。しかし気にはならない。時雨の視線の先にそれを遙かに凌駕する存在ものがあったからだ。
「こ……きち……?」
お美津の背中に張り付いているのは間違いなく小吉であった。そして小吉の握る刀はお美津の身体を確実に貫いていた。更にそこから生えている刀身は当然自分の身体をも貫いている。
「安芸姫様———!」
時雨の耳に聞き慣れた声が聞こえる。
(その……名で呼ぶ……なって……言った)
近づいてくるいくつかの足音を聞き、熱い物が身体から抜けるのを感じながらもう一度小吉の顔を見た時雨は、闇の中に意識を飛ばすのであった。
■□■□■□■□
「ちくしょう! 何故、何故動けなかった! 時任家の剣術指南ともあろう者が何故!」
あれから三昼夜。時雨は草津の陣屋に寝かされていた。未だに目を覚まさない時雨。医者の見立てでは時雨の体力次第だということだ。そして……。
『もう、刀を振るうことは出来ないでしょう』
これが医者の下した判断だった。
小吉の放った突きは美津の身体を貫き、時雨の臍の辺りから肺の裏側の骨で止まっていた。普通の人なら確実に死んでいる傷だ。それでも未だに生きている時雨の驚異的な生命力に医者は驚いていた。
「で? 美津とその小吉という小僧はどうしたんだい?」
着物を着た美しい中年の女性が時雨の横に座って悔しがっている桂真之介に声を掛けた。声は穏やかだが背筋が凍るような雰囲気を醸し出している。
「……お豊の方様。現在、京、大坂一帯に散っていた草全てを追跡に回しております。問題は捕まえきれるか……でございます」
真之介は唇を噛み締めながら答えた。唇から血が滲んでいる。
「そうかい、それほどかぃ」
あの後、すぐに動いたのは真之介が連れていた二人の草だった。崩れ落ちる時雨の両側から速攻を仕掛けたのだ。しかし時雨と美津から抜き取られた刀で攻撃はあっさりと弾かれた。小吉はその後すぐに気を飛ばし倒れかかったが、それを深手を負ったはずの美津が担ぎ逃げ出し、一人は逃げた美津と小吉を追い森の中へと消えた。もう一人の草は真之介が時雨に応急の手当てをしている間に草津へと戻り人を集めてきた。そして草津の代官の元へ行き、陣屋を借りたのだ。陣屋にはすでに時任家が入っており、時雨はそこで治療を受けた。そして現在に至る。
「少なくとも私と識と霊の三人で掛かっても倒せなかったでしょう」
真之介の時任家剣術指南として見た小吉の動きはそれほどだった。草を上方一円に放つとき真之介は草達に一つの指示を出していた。それは【絶対に手を出すな】だ。本来単独、もしくは二人で動く草達は今回三人体勢で動かしている。上方に配置している草の八割の数が動いていた。
「そうかい。じゃあ殿にだけ岩見に戻ってもらおうかねぇ。そいつの相手は私がやろう」
【にたり】と笑うお豊の方。その笑みは真之介の背筋に大量の汗を湧かせるのに十分だった。しかしこれを止めるのが真之介の仕事だ。
「お方様、それはお止めいただきたく存じまする。もしお方様に万が一がございましたら私どもは腹を斬らねばなりませぬ」
とりあえずお豊が動いて何かがあると困るということを訴える真之介。その真之介をお豊は鼻で笑った。
「ふん。数で囲って始末するつもりかね。それで時任の力がどれだけ落ちるか分かっているのかえ?」
時任家の強みは三つ。
一つは本拠である岩見の銀山。幕府の直轄地ではあるがその内の二割は時任家へ入っている。
二つ目は西国全ての家と事を構えられるだけの軍事力。戦国の世が終わってもなお模擬合戦を行い、死傷者を出す訓練は他家からも、幕府からも恐れられていた。
そして三つ目は全国全てに散らばった草達の情報収集能力。これは大坂の陣前後から、今は吉原喜瀬屋の主人をしている鬼柳勘左衛門が民、百姓に配下を潜り込ませ土着させた成果だ。これにより既に世代交代もおこり地元に溶け込んでいる。
桂真之介はこの中の一つ、草全てを使い二人を捕縛、もしくは始末するつもりだった。感情を優先し、家のことを考えていなかったからだ。それを前当主の正室であるお豊に指摘され、黙って俯いていた。
「まあ、若いから分からないでも無いけどね。でもさぁ、あんたは現当主を支え時任家を護り、そして徳川幕府を護る為に力を使わないといけない。もう少し大きい視野で見なよ、そうしないと今の役職は任せられないねぇ」
お豊の言葉に黙って俯くしか無い真之介。
「それにさ、安芸、いや、時雨だったかね。この子が油断したとはいえこれだけの手傷を負っだんだ、普通の奴では始末できないよ」
時雨の髪を撫でながらお豊は笑みを浮かべた。放逐したとはいっても自分の腹を痛めて生んだ娘。深手を負い眠っているとはいえ、二度と会うことは無いと思っていた娘が目の前で眠っている。それだけでもお豊は嬉しかったのだ。
暫くの間沈黙が続く。ふとお豊は顔を上げた。少し遅れて真之介も顔を上げ刀に手を掛ける。
「真之介。自分の部下の気配くらい覚えていなさいよ」
お豊の言葉に真之介はゆっくりと刀を置く。音も無く開いた襖の向こうには血まみれでお互いを支え合い、今にも倒れそうな識と霊の姿があるのだった。
大音声。
小吉は反射的にはね飛ばされた得物の方へ身体を動かす。小吉を囲んで今にも止めを刺そうとする三人の攻撃を避けるなどは一切考えなかった。本当に、本当に反射的に身体が動いたのだ。
拳二つ分の距離が縮まり、愛用していた刀に手が届く。身体を捻りながら片手で刀を握り、もう片手で砂を掴む。
起き上がるには刹那の間が入る。この者達相手に時間稼ぎになるかどうかは分からないが、とにかく掴んだ砂を投げた。砂が舞い、その砂の壁を白刃が斜めに下から上へと斬り裂く。肉のぐにゅりとした感触が小吉の手に伝わった。刃筋が通っていない。小吉はこれが終わって生きていたら時雨に殴られると考えていた。
「小吉! まだ終わっておらぬぞ!」
もう一度声が響く。時雨の声では無い。しかし聞き覚えのある声。そう草津の宿で聞いた時雨の知り合いである桂真之介の声だ。小吉はすぐにその場を離れる。入り乱れる六つの影。血飛沫が舞い、三つの影が同時に倒れた。一つの影が近づいてきて、残り、立っている二つの影は倒れた三人の首を斬り落としている。
「小吉、大丈夫か?」
若く、優しい声が聞こえる。小吉は刀を構えたまま黙って頷いた。ゆらりと目の前の影、桂真之介が動く。
小吉の頭に拳骨が落ちる。
「戦場で諦める奴があるか! まだ五体は満足であろう!」
容赦ない怒声が響く。小吉は力が抜け、時雨を見て安心し、死に身を委ねかけた自分を恥じる。その二人の後ろに足音もさせずに先程から倒れた三人の処理をしていた一人が近づき真之介の耳元にそっと何かを囁いた。
小吉はぞっとする。真之介を挟んでいたとはいえ、この距離まで接近していたこの者に気づけなかったからだ。真之介は気がついていたのか黙って聞いていた。何事かを聞き、頷く真之介。
真之介は【わしっ】と小吉の頭を掴むと無理矢理頭の向きを変えた。そこには立ち尽くしている時雨ともう一人女が立っている。見覚えのある顔だ。
「ふむ、江戸の草であった美津か……、しかし、なぁ」
時雨と真正面から向かい合う美津。その立ち姿を見ながら真之介はぼそりと呟いた。
「勝て……ぬなぁ」
その言葉を聞き、背後にいた者の目線がぴくりと動く。その頃にはもう一人も真之介の後ろにたたずんでいた。
「お前達二人がかりに私の三人でもきついな」
真之介の言葉に【心外な】という雰囲気を出す二人組。小吉は真之介には多少見てもらっていたので実力は分かっている。その真之介と先程ぞっとするほど気配を殺せる者、三人がかりでも勝てないと真之介は言った。小吉にはまだ美津と呼ばれた女の実力は見ただけでは分からない。それが自分の実力だと感じ刀を地に向けた。
「小吉、しょぼくれることは無い。私もこの二人も時任家の中では最強の部類だ。お主には才能があるがこの段階で抜かれてては私もこの者達も面目が無い。そして美津、あれもそこそこの腕の持ち主ではあったのだがな。本当にそこそこだったのだが……」
真之介は動かない二人をじっと見つめている。動きたいと前面に感情を出している配下らしき二人は真之介に制されていた。
「……動くぞ」
真之介の口から言葉が出た瞬間、時雨と美津はお互いの距離を縮めていた。
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「……お美津」
時雨は自らの喉からこれだけの言葉を絞り出すのが精一杯であった。目の前のお美津の表情は江戸で暮らしていた刻とさほど変わらない。今まで狐面として殺りあっていた刻よりも表情がある。そして先程の言葉。
「殺してください……」
言葉には感情が籠もっていた。切ない感情。願いを叶えて欲しいという感情。偽りとも演技とも思えない感情がほとばしっていた。
お美津はゆらりと身体を揺らす。その顔に涙と悲しみを浮かべて。
下から突然斬り上げられた時雨は身体を仰け反らせながら刀で勢いを逸らす。感情に包まれていた時雨の失態。間合いの中に完全に踏み込まれ先制まで許していた。今までの時雨では考えられないことだ。
(戦場では感情を殺せ)
時雨の師の言葉が頭を過ぎる。時雨は素早く体を入れ替えるとお美津の身体に密着した。鍔を鍔に当てる。そのまま体格を生かし上に弾いてお美津の体を崩し、柄を握る指を狙う。お美津は鍔と身体に掛かった時雨の剛力を利用し宙へと跳ねた。時雨の左手が柄から離れお美津の肝を狙い振り降ろされる。その腕にお美津の足が迫った。
きらりと光る物がある。時雨は小袖の袖でその足を絡め取ろうとするが宙で器用に身体を捻ったお美津はそれを躱した。
普段はここで畳みかける時雨が後ろへと下がる。体勢が上手く取れていないお美津もそのまま時雨から距離を取った。
無言で見つめ合う二人。
時雨はお美津を見つめたままゆっくりと刀を鞘へと収めた。重心が下がる。お美津は構えない。顔を伝う涙はまだ流れていた。
「ごめんね、お美津」
時雨の呟きと同時に土煙が上がった。お美津の右脇腹を抜き上げられた刀身が斬り裂く。肋の辺りまで喰い込んだ刀身はいつの間にか抜け、弧を描きながらお美津の左肩に袈裟懸けで近づいた。そしてお美津の身体に吸い込まれ……。
刀身の半分ほどが喰い込んだところで時雨の強烈な一太刀が止まる。お美津の着る濃紺の服は衝撃で飛び散り、その下から鎖が飛び出した。そしてお美津の身体に沿って垂直に上がった刀身が時雨の刀を受け止めていた。そのまま柄を離し、時雨に抱きつくお美津。その光景に何が起こったか分からず全員が固まり、動けなかった。
「小吉! 私を貫きなさい!」
お美津の口から呪詛のような、言霊のような言葉が響く。
お美津の身体が揺れ、口から血の塊が吐き出され時雨の胸元を染める。先程までの様々な表情は無い。そしてお美津の顔とその先にいる者の姿を見て【きょとん】とした表情を作る時雨。そこには何が起こったのか理解できていない唖然とした小吉の顔があった。
【つぅーーー】と時雨の唇の端から赤い液体が流れ出る。時雨の身体の中に熱い芯が一本通ったからだ。痛みは無い。ただただ熱いだけだ。しかし気にはならない。時雨の視線の先にそれを遙かに凌駕する存在ものがあったからだ。
「こ……きち……?」
お美津の背中に張り付いているのは間違いなく小吉であった。そして小吉の握る刀はお美津の身体を確実に貫いていた。更にそこから生えている刀身は当然自分の身体をも貫いている。
「安芸姫様———!」
時雨の耳に聞き慣れた声が聞こえる。
(その……名で呼ぶ……なって……言った)
近づいてくるいくつかの足音を聞き、熱い物が身体から抜けるのを感じながらもう一度小吉の顔を見た時雨は、闇の中に意識を飛ばすのであった。
■□■□■□■□
「ちくしょう! 何故、何故動けなかった! 時任家の剣術指南ともあろう者が何故!」
あれから三昼夜。時雨は草津の陣屋に寝かされていた。未だに目を覚まさない時雨。医者の見立てでは時雨の体力次第だということだ。そして……。
『もう、刀を振るうことは出来ないでしょう』
これが医者の下した判断だった。
小吉の放った突きは美津の身体を貫き、時雨の臍の辺りから肺の裏側の骨で止まっていた。普通の人なら確実に死んでいる傷だ。それでも未だに生きている時雨の驚異的な生命力に医者は驚いていた。
「で? 美津とその小吉という小僧はどうしたんだい?」
着物を着た美しい中年の女性が時雨の横に座って悔しがっている桂真之介に声を掛けた。声は穏やかだが背筋が凍るような雰囲気を醸し出している。
「……お豊の方様。現在、京、大坂一帯に散っていた草全てを追跡に回しております。問題は捕まえきれるか……でございます」
真之介は唇を噛み締めながら答えた。唇から血が滲んでいる。
「そうかい、それほどかぃ」
あの後、すぐに動いたのは真之介が連れていた二人の草だった。崩れ落ちる時雨の両側から速攻を仕掛けたのだ。しかし時雨と美津から抜き取られた刀で攻撃はあっさりと弾かれた。小吉はその後すぐに気を飛ばし倒れかかったが、それを深手を負ったはずの美津が担ぎ逃げ出し、一人は逃げた美津と小吉を追い森の中へと消えた。もう一人の草は真之介が時雨に応急の手当てをしている間に草津へと戻り人を集めてきた。そして草津の代官の元へ行き、陣屋を借りたのだ。陣屋にはすでに時任家が入っており、時雨はそこで治療を受けた。そして現在に至る。
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「そうかい。じゃあ殿にだけ岩見に戻ってもらおうかねぇ。そいつの相手は私がやろう」
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「ふん。数で囲って始末するつもりかね。それで時任の力がどれだけ落ちるか分かっているのかえ?」
時任家の強みは三つ。
一つは本拠である岩見の銀山。幕府の直轄地ではあるがその内の二割は時任家へ入っている。
二つ目は西国全ての家と事を構えられるだけの軍事力。戦国の世が終わってもなお模擬合戦を行い、死傷者を出す訓練は他家からも、幕府からも恐れられていた。
そして三つ目は全国全てに散らばった草達の情報収集能力。これは大坂の陣前後から、今は吉原喜瀬屋の主人をしている鬼柳勘左衛門が民、百姓に配下を潜り込ませ土着させた成果だ。これにより既に世代交代もおこり地元に溶け込んでいる。
桂真之介はこの中の一つ、草全てを使い二人を捕縛、もしくは始末するつもりだった。感情を優先し、家のことを考えていなかったからだ。それを前当主の正室であるお豊に指摘され、黙って俯いていた。
「まあ、若いから分からないでも無いけどね。でもさぁ、あんたは現当主を支え時任家を護り、そして徳川幕府を護る為に力を使わないといけない。もう少し大きい視野で見なよ、そうしないと今の役職は任せられないねぇ」
お豊の言葉に黙って俯くしか無い真之介。
「それにさ、安芸、いや、時雨だったかね。この子が油断したとはいえこれだけの手傷を負っだんだ、普通の奴では始末できないよ」
時雨の髪を撫でながらお豊は笑みを浮かべた。放逐したとはいっても自分の腹を痛めて生んだ娘。深手を負い眠っているとはいえ、二度と会うことは無いと思っていた娘が目の前で眠っている。それだけでもお豊は嬉しかったのだ。
暫くの間沈黙が続く。ふとお豊は顔を上げた。少し遅れて真之介も顔を上げ刀に手を掛ける。
「真之介。自分の部下の気配くらい覚えていなさいよ」
お豊の言葉に真之介はゆっくりと刀を置く。音も無く開いた襖の向こうには血まみれでお互いを支え合い、今にも倒れそうな識と霊の姿があるのだった。
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