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草津の宿
漆
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「何があった?」
真之介が口を開く前にお豊が座ったまま声を掛ける。怒鳴りつけそうな勢いで立ち上がった真之介はお豊が先に声を掛けたことで気勢を削がれた。
二人はふるふると震えながらお互いを支え合い、息も荒い。二人が歩いてきた廊下からは数人の走ってくる足音が聞こえていた。
「申し訳ございません。二人を取り逃がしました……」
識の身体ががくりと崩れ、それを支えきれなかった霊もその場へ崩れ落ちる。お豊の視線の先に座るようになった二人の視線が交叉する。
当然、真之介からは見下ろした形だ。
「報告しろ……」
気勢を削がれた真之介の声が投げかけられる。霊は真っ青な顔で口を開きかけた。
「先に二人を治療しなさい。識と言ったか? 命に関わる」
お豊の声に霊は識の方へ視線を向ける。識の意識は既に無い。身体から血を流しすぎているのだ。それは霊も同じなのだが、識には大きく裂けた傷跡が太股にある。
「お豊の方様、ご無事で!」
陣屋を警護していた者達が識と霊の後ろへ立ち、刀を首元へ押しつける。警護の者を指揮している初老の男は自らの失態を隠すように、座り込む二人の首を掻き斬ろうとした。
真之介が慌てて止めようとする。しかし初老の男は走ってきて焦った様子だったが汗も掻かずに引き斬る動作をした。しかし刀は動かない。それどころか初老の男が引いた腕はそのまま真後ろへと動いた。手首から先を宙に残したまま……。
唖然とした表情で自らの手首を見つめる初老の男。その男は鳩尾の辺りから身体をくの字に曲げる。
低音の声が初老の男の口から漏れる。真之介も何が起こったのか分かっていない。ただ、初老の男の鳩尾に長刀の石突きがめり込んでいたのが見えた。その石突きが真之介の視界から消える。
次の瞬間、気を遣った霊に斬りかかろうとした別の者の側頭部に長刀の刃がめり込んでいた。頭蓋の中程までめり込んだ長刀はそのまま男を持ち上げる。
「……真之介、反応が遅い。そやつらはうちのものでは無い」
真之介の後ろから聞こえてきた声に視線だけを動かす真之介。時雨が眠る蒲団の横に座ったままのお豊から長刀が伸びていた。
真之介が崩れ落ちかけている初老の男の脇をすり抜けざまに後頭部へ一撃を加え、初老の男の意識を刈り取った。そのまま丸腰で後ろの者へと迫る。初老の男の後ろへ陣取るのは四人。真之介が初老の男を消されぬように間に入る。
賊はぬらりと光る短刀を構え真之介に飛びかかった。水平に構えられた短刀が真之介に迫る。同時にその後ろからもう一人が躍り出た。真之介は突き出された短刀が身体に近づく寸前に相手の右腕の手首より少し上を左手で取り、指で押さえる。
男の口から悲鳴が漏れ、身体が浮き上がる。真之介は押さえた男の身体を捻り、通り過ぎようとする男の脇腹へと短刀を捻り込む。男はびくりと身体を震わせ、その場に崩れ落ちる。腕を掴んだ男の首に腕を回し身体の移動を利用して斜め上に頭を捻り上げた。骨の捻じ切れる音が廊下へ響く。
あっさりと二人が動きを止められたことに戸惑いを見せた一人に真之介が迫る。ゆっくりと突き出された拳が賊の脇腹へ吸い込まれた。賊は慌てない。身体には油を塗り込んだ鎖を着込んである。その下には綿を詰めた衣服。斬撃も衝撃も通るはずは無い。
しかし衝撃は身体の中を駆け抜けた。
男は【何故?】という表情を浮かべる。打撃が、痛みが背中から……襲ってきたからだ。それだけでは無い。痛みは背中から前へと抜けていた。呼吸が止まる。吸い込めず、吐き出せない。苦しみのみが男の全身を襲っていた。
「そいつ、生かしておきな」
真之介の背中にお豊から声がかかる。賊の最後の一人は左袈裟に斬り裂かれ、臓腑を撒き散らし崩れ落ちていた。その先にはお豊の持つ長刀が血に濡れている。
「上の奴、医者を呼べ。それと警護の者も数名。寝ている者もたたき起こせ。……急げよ」
お豊の抑揚の無い声で指示が下ると天井裏から二つ気配が消える。
「さて、医者が来るまでに話せることはあるかぃ?」
気を残している霊にお豊がにこりと笑い話しかける。霊は全身から流れる血が冷たくなるのを感じながら話を始めるのであった。
■□■□■□■□
「う……、ぅん」
部屋の中に小さな呻き声が上がる。時雨は暑さでゆっくりと目を覚ました。見知らぬ天井が目に入る。【ぼぅっ】とした頭のままもう一度微睡みの世界へと意識を落とし……覚醒する。
自分の意識が途絶える最後の記憶が時雨の頭を過ぎる。小吉が抱きつき、熱い物が身体を貫いた。慌てて起き上がろうとする。
(はぁ? 何故?)
時雨は起き上がろうとするが起き上がれない……。それはどのように足掻いても無駄であった。
「だ、誰か。だれかいます~」
声は出る。しかし誰も姿を現さない。小吉すらもだ。時雨は自分の身体の状態を確認するため心を落ち着かせようとする。
明鏡止水。
一点の曇りも、心の動きも澱みも無い澄みきった世界に意識を落とし、身体の先端から徐々に力を入れてゆく。
(足の先、駄目か……。指先……も駄目。足、脛、腿、腕、胸肉……。首は動くか。声は出た。首から下は全くか……)
時雨は全身を隈無く探ると深い溜息をついた。今まで鍛え上げてきた物が全て崩れ去ったのだ。とりあえず人と会うことが、原因が何なのかを知ることが最善であると時雨は考えていた。
部屋の中であることは間違いない。それもそこそこ豪華な造りのようだ。あの戦いの後、真之介が運んでくれたのかもしれない。そう思いながら時雨が思い出すのは小吉の唖然とした表情だ。
(油断したよね、まったく。小吉に近づく者がいるとは分かっていたが……、手を打たなかったのは私の落ち度だねぇ)
時雨は再度溜息をつく。小吉の事は危うい存在だとは分かっていた。それは紅笑芙蓉を抜きにしての話だ。しっかりとした教養と物事を教え込むことで小吉の剣の腕を押さえ込むつもりだった。
本来ならば問屋の丁稚としていずれは時雨が潰した見世の者として平穏無事に天寿を全うしたのかもしれない。ただその居場所を時雨が奪った。その事にも時雨は負い目を感じていたので旅に連れて来た。結果的にそれが最悪の状態で小吉の人生を狂わせることになったのだが。
(次、があるのかねぇ。この身体がどうなっているのか把握しないことにはね。放り出すような事はしたくないがなぁ。とにかくまずは休もう)
時雨は疲れた身体と頭を休めるためゆっくりと目を閉じるのであった。
■□■□■□■□
時雨は不意に目を覚ました。小さな足音が時雨の寝ている部屋へと近づいてきたからだ。そこそこ訓練された者の歩き方。男の歩き方ではない。草に近いが、腰元の歩き方も混ざっている。武の嗜みもあるようだ。しかし普通の歩き方では無い。違和感がある。
すうっと襖が開く。時雨は目を閉じたままじっとその者の行動を観察していた。本来の時雨ならばすぐに相手をねじ伏せ、話を聞き出すのだが今は首から上以外、全く動かない。正直様子見しか出来ないだけだ。
ぱしゃぱしゃと水音が響く。そしてすぐに時雨の額に冷たい何かが乗った。冷たすぎないそれが濡れた布だと分かるまでさほどの刻はかからなかった。濡れた布でゆっくりと顔全体が拭かれてゆく。それは徐々に身体の下へと動いてゆくが首を通り過ぎた辺りからは何も感じられくなった。唯一分かったのは首元に掛かっていた蒲団が剥ぎ取られたことだ。
たぶん、首から下も拭いてくれているのだろう。時雨はこの歳で全身を拭いてもらっていることに気がつき顔に血が上るのを感る。吉原で色々なことを経験していて大概のことにはなれたつもりだった。しかし何故か今は恥ずかしかった。何故かは分からない。
そうこう考えているうちに身体を拭き終えたのか、首元に蒲団が掛けられる感触が伝わってきた。
「……ありがとう」
襖が開き、身体を拭いてくれた者が外に出ようとしたとき時雨は思わず呟いていた。ゆっくりと目を開け、身体を拭いてくれた者の方に顔を向けにこりと笑う。
声を掛けられた者は突然のことに驚いたようで抱えていた桶を落とす。からんという音と水が床を叩く音が大きく響き、ゆっくりと腰元らしき女が時雨の方へ向き直った。
目が合う。
時雨の知らない女だ。だが目には何故か見覚えがある。女の表情は驚きに満ちあふれていた。時雨は女の姿から情報を読み取ろうとする。腰元はそこそこの身分というわけではないようだ。着ている物も着物、腰元が常に着ている物ではなく簡略化された小袖。帯もきっちりと巻いてあるわけでは無い。短刀は帯びているがそれも前では無く横に刺してある。
時雨の世話をするために普段の服装と違う……、という訳ではなさそうだ。これがこの女の素なのだろう。
「あ、あ、あ……」
女は百面相をしながら何事かを呟く。しかし言葉にはならない。ゆっくりと後ずさっているのが分かる。
「落ち着いて、ね。ここがどこで私が倒れてからどれ位が立ったのか教えてくれない?」
時雨は一瞬威圧をかけて女から情報を聞き出そうとしたが、何故かそれをしなかった。昔の、吉原で旦那衆や禿達を相手にしていた刻の声色で話かけていた。
「あ、え、あの、すぐに上の者を呼んで参ります」
若干震える声をやっとの事で吐き出した女は急いで部屋の外へ振り返ろうとする。しかしその身体が動くことは無かった。視線だけで時雨を視る女。目には畏怖の表情が浮かんでいた。
「ごめんなさいね。私も早く状況を確認したいの。逃げないで……、ね。たぶん何も出来ないから……」
恐慌状態に陥りかけている女になるべく優しい声色で声を掛ける。それでも女は目を逸らし身体を動かそうと必死になっているようだ。
「ねぇ、少しだけでいいから。それとお水を戴けないかしら? 喉が渇いてしまって」
実際、時雨の声は掠れていた。時雨と女の視線が再度合う。女は視線で解放してもらわないと何も出来ないと訴えているようだ。
時雨の目つきが一瞬鋭くなる。その瞬間、女の身体は真下に崩れ落ちた。小さな水音が響き、女の股下に黒い染みが拡がってゆく。
「どうした? 何事か?」
時雨の目が驚きに見開かれる。襖の向こう側、廊下に一人の女が立っていた。気配も感じず、足音も感じなかったのだ。そしてゆっくりと顔を動かし視線をその者に向け、時雨は固まった。
「……母上」
国元を放逐され十年ぶりの母との再会であった。
■□■□■□■□
「あんた、変わってないねぇ」
お豊が時雨の枕元に座る。時雨はお豊と真逆の方を向いていた。先程の腰元と他の者は部屋を出、部屋の中も綺麗になっている。
「…………」
「…………」
お互い何も発しない。僅か、僅かであるが時雨の首元は震えていた。
「時雨殿、大変じゃったのう」
時雨の聞いた声が聞こえる。それでも時雨はその声の主を視ようとしなかった。
「お豊の方様。暫し席ををお外しくだされ。理由は……察していただけると」
若くは無い男の声に気配が動く。静かに音も無く閉じられた空間には時雨と男が取り残されていた。
「ぐすっ……、うぁぁ……」
時雨の口から堰を切ったように嗚咽が漏れる。男は暫く口を開かず時雨の嗚咽が止まるのを待った。
四半刻も経つと落ち着いたのか鼻を啜る音だけが部屋に響く。男はそっと顔を見ないように時雨の顔、口から鼻の辺りを拭きながら口を開いた。
「時雨殿、まずは礼を。この東雲の命をお救いくださり誠に有り難うございました」
東雲。
時雨が吉原で働いていた頃からの付き合いがある町医者だ。彼もまた紅笑芙蓉の犠牲者で時雨に助けられた者だ。今は江戸で東伯という町医者と共に紅笑芙蓉の研究に携わっていたはずだ。その者がいま時雨の枕元に座っていた。
「東雲先生、ここは……、江戸でございますか? どれ位経ったのでしょうか?」
時雨の声はまだ震えていた。ゆっくりと東雲の方へ顔を向けようとするが上手く動けない。東雲がそっと時雨の肩を抱き身体ごと向きを変える。
「いえ、ここは草津でございます」
東雲はそこで一度話を区切る。二人は視線を合わせた。時雨の眼の中にある覚悟の光を確認した東雲は時雨の眼を視てゆっくりと話し始めた。
「まずは、刻でございます。時雨様が刺されまして半年が経過しております」
東雲の言葉に時雨が大きく目を見開いた。時雨の視線がめまぐるしく動く。
(半年? 半年も寝ていたと言うことか! 道理で身体が動かないわけだ。それに小吉、美津はどうなった? 西国の方は?)
時雨が続きを聞きたそうに口を開こうとするのを東雲が遮る。
「時雨殿、まずは心をお鎮めください。順を追ってお話しいたします。それから時雨殿の疑問にお答えいたしますので」
東雲は時雨の口元、鼻、そして涙の跡が残る頬を水で濡らした手拭いでそっと拭く。
「まず時雨殿の身体のことをお話致します。正直に申しますとこれが一番重要でございます」
時雨は再度身体を動かそうとしたがぴくりともしない。半年寝ていたと聞いたので無理矢理にでも動かしたかったのだが何故か動かなかった。その様子を見た東雲の顔が悲しそうに曇る。
「まず、時雨殿の身体は二度と動くことはございません」
東雲の言葉に時雨はただ口を開いて見つめることしか出来なかった。
真之介が口を開く前にお豊が座ったまま声を掛ける。怒鳴りつけそうな勢いで立ち上がった真之介はお豊が先に声を掛けたことで気勢を削がれた。
二人はふるふると震えながらお互いを支え合い、息も荒い。二人が歩いてきた廊下からは数人の走ってくる足音が聞こえていた。
「申し訳ございません。二人を取り逃がしました……」
識の身体ががくりと崩れ、それを支えきれなかった霊もその場へ崩れ落ちる。お豊の視線の先に座るようになった二人の視線が交叉する。
当然、真之介からは見下ろした形だ。
「報告しろ……」
気勢を削がれた真之介の声が投げかけられる。霊は真っ青な顔で口を開きかけた。
「先に二人を治療しなさい。識と言ったか? 命に関わる」
お豊の声に霊は識の方へ視線を向ける。識の意識は既に無い。身体から血を流しすぎているのだ。それは霊も同じなのだが、識には大きく裂けた傷跡が太股にある。
「お豊の方様、ご無事で!」
陣屋を警護していた者達が識と霊の後ろへ立ち、刀を首元へ押しつける。警護の者を指揮している初老の男は自らの失態を隠すように、座り込む二人の首を掻き斬ろうとした。
真之介が慌てて止めようとする。しかし初老の男は走ってきて焦った様子だったが汗も掻かずに引き斬る動作をした。しかし刀は動かない。それどころか初老の男が引いた腕はそのまま真後ろへと動いた。手首から先を宙に残したまま……。
唖然とした表情で自らの手首を見つめる初老の男。その男は鳩尾の辺りから身体をくの字に曲げる。
低音の声が初老の男の口から漏れる。真之介も何が起こったのか分かっていない。ただ、初老の男の鳩尾に長刀の石突きがめり込んでいたのが見えた。その石突きが真之介の視界から消える。
次の瞬間、気を遣った霊に斬りかかろうとした別の者の側頭部に長刀の刃がめり込んでいた。頭蓋の中程までめり込んだ長刀はそのまま男を持ち上げる。
「……真之介、反応が遅い。そやつらはうちのものでは無い」
真之介の後ろから聞こえてきた声に視線だけを動かす真之介。時雨が眠る蒲団の横に座ったままのお豊から長刀が伸びていた。
真之介が崩れ落ちかけている初老の男の脇をすり抜けざまに後頭部へ一撃を加え、初老の男の意識を刈り取った。そのまま丸腰で後ろの者へと迫る。初老の男の後ろへ陣取るのは四人。真之介が初老の男を消されぬように間に入る。
賊はぬらりと光る短刀を構え真之介に飛びかかった。水平に構えられた短刀が真之介に迫る。同時にその後ろからもう一人が躍り出た。真之介は突き出された短刀が身体に近づく寸前に相手の右腕の手首より少し上を左手で取り、指で押さえる。
男の口から悲鳴が漏れ、身体が浮き上がる。真之介は押さえた男の身体を捻り、通り過ぎようとする男の脇腹へと短刀を捻り込む。男はびくりと身体を震わせ、その場に崩れ落ちる。腕を掴んだ男の首に腕を回し身体の移動を利用して斜め上に頭を捻り上げた。骨の捻じ切れる音が廊下へ響く。
あっさりと二人が動きを止められたことに戸惑いを見せた一人に真之介が迫る。ゆっくりと突き出された拳が賊の脇腹へ吸い込まれた。賊は慌てない。身体には油を塗り込んだ鎖を着込んである。その下には綿を詰めた衣服。斬撃も衝撃も通るはずは無い。
しかし衝撃は身体の中を駆け抜けた。
男は【何故?】という表情を浮かべる。打撃が、痛みが背中から……襲ってきたからだ。それだけでは無い。痛みは背中から前へと抜けていた。呼吸が止まる。吸い込めず、吐き出せない。苦しみのみが男の全身を襲っていた。
「そいつ、生かしておきな」
真之介の背中にお豊から声がかかる。賊の最後の一人は左袈裟に斬り裂かれ、臓腑を撒き散らし崩れ落ちていた。その先にはお豊の持つ長刀が血に濡れている。
「上の奴、医者を呼べ。それと警護の者も数名。寝ている者もたたき起こせ。……急げよ」
お豊の抑揚の無い声で指示が下ると天井裏から二つ気配が消える。
「さて、医者が来るまでに話せることはあるかぃ?」
気を残している霊にお豊がにこりと笑い話しかける。霊は全身から流れる血が冷たくなるのを感じながら話を始めるのであった。
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「う……、ぅん」
部屋の中に小さな呻き声が上がる。時雨は暑さでゆっくりと目を覚ました。見知らぬ天井が目に入る。【ぼぅっ】とした頭のままもう一度微睡みの世界へと意識を落とし……覚醒する。
自分の意識が途絶える最後の記憶が時雨の頭を過ぎる。小吉が抱きつき、熱い物が身体を貫いた。慌てて起き上がろうとする。
(はぁ? 何故?)
時雨は起き上がろうとするが起き上がれない……。それはどのように足掻いても無駄であった。
「だ、誰か。だれかいます~」
声は出る。しかし誰も姿を現さない。小吉すらもだ。時雨は自分の身体の状態を確認するため心を落ち着かせようとする。
明鏡止水。
一点の曇りも、心の動きも澱みも無い澄みきった世界に意識を落とし、身体の先端から徐々に力を入れてゆく。
(足の先、駄目か……。指先……も駄目。足、脛、腿、腕、胸肉……。首は動くか。声は出た。首から下は全くか……)
時雨は全身を隈無く探ると深い溜息をついた。今まで鍛え上げてきた物が全て崩れ去ったのだ。とりあえず人と会うことが、原因が何なのかを知ることが最善であると時雨は考えていた。
部屋の中であることは間違いない。それもそこそこ豪華な造りのようだ。あの戦いの後、真之介が運んでくれたのかもしれない。そう思いながら時雨が思い出すのは小吉の唖然とした表情だ。
(油断したよね、まったく。小吉に近づく者がいるとは分かっていたが……、手を打たなかったのは私の落ち度だねぇ)
時雨は再度溜息をつく。小吉の事は危うい存在だとは分かっていた。それは紅笑芙蓉を抜きにしての話だ。しっかりとした教養と物事を教え込むことで小吉の剣の腕を押さえ込むつもりだった。
本来ならば問屋の丁稚としていずれは時雨が潰した見世の者として平穏無事に天寿を全うしたのかもしれない。ただその居場所を時雨が奪った。その事にも時雨は負い目を感じていたので旅に連れて来た。結果的にそれが最悪の状態で小吉の人生を狂わせることになったのだが。
(次、があるのかねぇ。この身体がどうなっているのか把握しないことにはね。放り出すような事はしたくないがなぁ。とにかくまずは休もう)
時雨は疲れた身体と頭を休めるためゆっくりと目を閉じるのであった。
■□■□■□■□
時雨は不意に目を覚ました。小さな足音が時雨の寝ている部屋へと近づいてきたからだ。そこそこ訓練された者の歩き方。男の歩き方ではない。草に近いが、腰元の歩き方も混ざっている。武の嗜みもあるようだ。しかし普通の歩き方では無い。違和感がある。
すうっと襖が開く。時雨は目を閉じたままじっとその者の行動を観察していた。本来の時雨ならばすぐに相手をねじ伏せ、話を聞き出すのだが今は首から上以外、全く動かない。正直様子見しか出来ないだけだ。
ぱしゃぱしゃと水音が響く。そしてすぐに時雨の額に冷たい何かが乗った。冷たすぎないそれが濡れた布だと分かるまでさほどの刻はかからなかった。濡れた布でゆっくりと顔全体が拭かれてゆく。それは徐々に身体の下へと動いてゆくが首を通り過ぎた辺りからは何も感じられくなった。唯一分かったのは首元に掛かっていた蒲団が剥ぎ取られたことだ。
たぶん、首から下も拭いてくれているのだろう。時雨はこの歳で全身を拭いてもらっていることに気がつき顔に血が上るのを感る。吉原で色々なことを経験していて大概のことにはなれたつもりだった。しかし何故か今は恥ずかしかった。何故かは分からない。
そうこう考えているうちに身体を拭き終えたのか、首元に蒲団が掛けられる感触が伝わってきた。
「……ありがとう」
襖が開き、身体を拭いてくれた者が外に出ようとしたとき時雨は思わず呟いていた。ゆっくりと目を開け、身体を拭いてくれた者の方に顔を向けにこりと笑う。
声を掛けられた者は突然のことに驚いたようで抱えていた桶を落とす。からんという音と水が床を叩く音が大きく響き、ゆっくりと腰元らしき女が時雨の方へ向き直った。
目が合う。
時雨の知らない女だ。だが目には何故か見覚えがある。女の表情は驚きに満ちあふれていた。時雨は女の姿から情報を読み取ろうとする。腰元はそこそこの身分というわけではないようだ。着ている物も着物、腰元が常に着ている物ではなく簡略化された小袖。帯もきっちりと巻いてあるわけでは無い。短刀は帯びているがそれも前では無く横に刺してある。
時雨の世話をするために普段の服装と違う……、という訳ではなさそうだ。これがこの女の素なのだろう。
「あ、あ、あ……」
女は百面相をしながら何事かを呟く。しかし言葉にはならない。ゆっくりと後ずさっているのが分かる。
「落ち着いて、ね。ここがどこで私が倒れてからどれ位が立ったのか教えてくれない?」
時雨は一瞬威圧をかけて女から情報を聞き出そうとしたが、何故かそれをしなかった。昔の、吉原で旦那衆や禿達を相手にしていた刻の声色で話かけていた。
「あ、え、あの、すぐに上の者を呼んで参ります」
若干震える声をやっとの事で吐き出した女は急いで部屋の外へ振り返ろうとする。しかしその身体が動くことは無かった。視線だけで時雨を視る女。目には畏怖の表情が浮かんでいた。
「ごめんなさいね。私も早く状況を確認したいの。逃げないで……、ね。たぶん何も出来ないから……」
恐慌状態に陥りかけている女になるべく優しい声色で声を掛ける。それでも女は目を逸らし身体を動かそうと必死になっているようだ。
「ねぇ、少しだけでいいから。それとお水を戴けないかしら? 喉が渇いてしまって」
実際、時雨の声は掠れていた。時雨と女の視線が再度合う。女は視線で解放してもらわないと何も出来ないと訴えているようだ。
時雨の目つきが一瞬鋭くなる。その瞬間、女の身体は真下に崩れ落ちた。小さな水音が響き、女の股下に黒い染みが拡がってゆく。
「どうした? 何事か?」
時雨の目が驚きに見開かれる。襖の向こう側、廊下に一人の女が立っていた。気配も感じず、足音も感じなかったのだ。そしてゆっくりと顔を動かし視線をその者に向け、時雨は固まった。
「……母上」
国元を放逐され十年ぶりの母との再会であった。
■□■□■□■□
「あんた、変わってないねぇ」
お豊が時雨の枕元に座る。時雨はお豊と真逆の方を向いていた。先程の腰元と他の者は部屋を出、部屋の中も綺麗になっている。
「…………」
「…………」
お互い何も発しない。僅か、僅かであるが時雨の首元は震えていた。
「時雨殿、大変じゃったのう」
時雨の聞いた声が聞こえる。それでも時雨はその声の主を視ようとしなかった。
「お豊の方様。暫し席ををお外しくだされ。理由は……察していただけると」
若くは無い男の声に気配が動く。静かに音も無く閉じられた空間には時雨と男が取り残されていた。
「ぐすっ……、うぁぁ……」
時雨の口から堰を切ったように嗚咽が漏れる。男は暫く口を開かず時雨の嗚咽が止まるのを待った。
四半刻も経つと落ち着いたのか鼻を啜る音だけが部屋に響く。男はそっと顔を見ないように時雨の顔、口から鼻の辺りを拭きながら口を開いた。
「時雨殿、まずは礼を。この東雲の命をお救いくださり誠に有り難うございました」
東雲。
時雨が吉原で働いていた頃からの付き合いがある町医者だ。彼もまた紅笑芙蓉の犠牲者で時雨に助けられた者だ。今は江戸で東伯という町医者と共に紅笑芙蓉の研究に携わっていたはずだ。その者がいま時雨の枕元に座っていた。
「東雲先生、ここは……、江戸でございますか? どれ位経ったのでしょうか?」
時雨の声はまだ震えていた。ゆっくりと東雲の方へ顔を向けようとするが上手く動けない。東雲がそっと時雨の肩を抱き身体ごと向きを変える。
「いえ、ここは草津でございます」
東雲はそこで一度話を区切る。二人は視線を合わせた。時雨の眼の中にある覚悟の光を確認した東雲は時雨の眼を視てゆっくりと話し始めた。
「まずは、刻でございます。時雨様が刺されまして半年が経過しております」
東雲の言葉に時雨が大きく目を見開いた。時雨の視線がめまぐるしく動く。
(半年? 半年も寝ていたと言うことか! 道理で身体が動かないわけだ。それに小吉、美津はどうなった? 西国の方は?)
時雨が続きを聞きたそうに口を開こうとするのを東雲が遮る。
「時雨殿、まずは心をお鎮めください。順を追ってお話しいたします。それから時雨殿の疑問にお答えいたしますので」
東雲は時雨の口元、鼻、そして涙の跡が残る頬を水で濡らした手拭いでそっと拭く。
「まず時雨殿の身体のことをお話致します。正直に申しますとこれが一番重要でございます」
時雨は再度身体を動かそうとしたがぴくりともしない。半年寝ていたと聞いたので無理矢理にでも動かしたかったのだが何故か動かなかった。その様子を見た東雲の顔が悲しそうに曇る。
「まず、時雨殿の身体は二度と動くことはございません」
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第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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