僕の不適切な存在証明

Ikiron

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19話

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 「アヨウ、僕は君にさよならを言いに来た」

ついに来た。アヨウはそう思った。自分はカイメラにとってクリティカルな、女性の安全を脅かしてしまった。いや、傷ついたユハやアジュダハの様子を見るにそれ以上のことが起きてしまっている。彼らからしたら自分を生かしておく理由はないだろう。ユハは自分を殺しに来たのだ。

アヨウはこの”さよなら”を”殺す”の意と解釈した。生殺与奪の権を完全に握られたこの状態ではもはや唯々諾々と訪れる死を受け入れるしかない。アヨウは死を覚悟した。

 「そうか……」

 「ん?ああ……そうだった。ねえ、これ助かりそう?」

ユハは忘れていた用事を思い出した、といった風体でそう言うと顎をしゃくってボロボロのアジュダハを指示した。彼の怪我を見てほしいようだ。アヨウが己の運命を受け入れようとする一方で、それは至極軽い調子だった。実の兄の命がかかわっているとは思えないほど。

 「え……?あ……これは……」

即座に殺されると考えられていたアヨウは、面食らうが、とりあえず言われたとおりにアジュダハを見てみる。彼は両手で首を押さえつけており今にも消え入りそうな弱い息をしていた。首を押さえた指の隙間からはドクドクと血が流れている。医療の知識など必要ない、誰から見ても致命傷だ。即座に病院へ行かないと助からないか、もはや手遅れのように見える。

 「今すぐ病院へ連れて行っても助かるかどうかわからない」

アヨウは正直に答えた。それが社会から排斥されたカイメラにとって死の宣告に等しいことは理解していた。だがもはやアヨウにどう答えれば自分の存命につながるか、のような打算はない。もう覚悟を決めたのだ。そしてユハもまた、覚悟が決まっていたのか、兄弟に対して死を宣告されたにもかかわらず動揺する様子はなかった。最も元よりアジュダハの重傷にうろたえたりはしていなかったのだが。

 「フーン……そういうことだ、アジュダハ。今までお勤めご苦労様」

そしてそんな簡素な別れの言葉を言うと、ユハはスッと手を振り下ろした。すると触れられてもいないアジュダハの胸に穴が開き、彼はこと切れる。今際の際の表情はどこか微笑んでいるように見えた。

身内でさえ冷徹に殺して見せるカイメラの性はアヨウの心胆を寒からしめた。アヨウは死を覚悟していたはずだが、実際に人が殺される様を見ると封じ込めていたはずの恐怖が鎌首をもたげてくる。

 「スモクが死んだ」

 「え……」

驚愕に言葉を失うアヨウにユハが唐突に言った。

 「警官と戦ってね。フレムは裏切りそうだったからアジュダハが殺した。これはざまあみろって感じ?アジュダハはラミャエルを逃がすときに首に弾を受けてこのざま。僕だって……」

そう言うとユハはは自身の折れた角をさする。

先ほどから余りにも淡々と扱われる人の死にアヨウの感情は理解に追いつかなかった。

 「生き残った男は女たちを連れて逃げてる。だからここにはもう誰も帰ってこない」

只々、告げられる深刻過ぎる事実にアヨウは呆然とするしかない。彼が一生かけて味わうはずだった悲劇や惨劇がほんの数日のうちに起こっているようだった。

 「僕は君にアジュダハを診せに来た、助かるなら助けようとして。そして……」

ユハは一瞬躊躇したように言葉を切る。

 「君を殺して来る、皆にそう言ってここにきた」

 「そう、か……そうか」

アヨウはかすれた声で何とか首肯して見せたが、それ以上のことはできなかった。言葉で語られた色々な人たちの死と、目の前で起きたアジュダハの死が、今まで抽象的な概念でしかなかった自分の死を具体的な感覚に変えていた。

きめた筈の覚悟が揺らぎ、恐怖が心を満たしていく。体が独りでに震え、心臓が早鐘のように鳴り、全身が油あれでぐっしょりと濡れた。

そして無情にもユハの手が持ち上がる、先ほどアジュダハにしたように。

 (ついに来た……!!)

歯を食いしばり目をきつく瞑ってアヨウは必死に恐怖に耐えた。

そしてユハの指先が素早く振られると、はらりと何かがアヨウの足元に落ちた。

アヨウが恐る恐る目を開くと、手足を縛っていた縄が切り裂かれ戒めが解かれていた。

 「え……?」

 「だけど僕は君を逃がそうと思う」

 「そ、それは、どういう……意味だ?」

自分の身に起こったことが理解できず、アヨウは思わず聞き返す。

 「?言葉通りの意味だよ。僕は君を自由にする」

突然の待遇の変化をアヨウは信じられなかった。この期に及んで何か裏があるのだろうか?

 「お……俺が逃げた先でお前たちのことを喋ったらどうするつもりだ?」

 「それくらいじゃもうどうにもならないさ。知ってるよ、血の一滴からでも人を見つけ出すようなことが警察には出来るんだろ?僕らは死体さえ残している。君が何か言ったところでこれ以上に状況は悪くなるの?」

だからといってそれはアヨウが解放される理由にはならない、殺してしまっても同じだからだ。アヨウはユハの言っていることが到底信用できなかった。

 「一体、何を企んでいる?これはどういうつもりだ?」

そう言われてユハは少しだけ悲しそうな顔をした。そしてつらつらと語りだした。

 「僕は最初にあったころの君とずっと一緒に居たかった」

 「何だと……?」

 「君と一緒にいるときだけ……自分がカイメラじゃないって思えたんだ。君たちと同じ未来の開かれた人間だと思うことができた」

 「……」

 「だけど、自分の人生が呪われたものである実感もより強く感じた。自分は一生この行き詰まりから抜け出せないんだって」

ユハの語りをアヨウは黙って聞いている。

 「そのうちに僕はそのままではいられなくなった。君にだってあっただろ?子供のままではいられない、そんな時が。だけど僕は君をどうしても手放したくなかった、だからとっておこうとしたんだ。スクラップブックを作るみたいに」

 「……」

 「だけどそのままを取っておくことなんてできる訳がなかった。花は摘まれれば枯れてしまうみたいに君はどうしようもなく変わってしまった。そして何もかもうまくいかなくなり、挙句の果てにこのざまさ」

ユハは言い切るとフウっと息を吐くと再び話し出した。

 「僕たちは最初から出会うべきでなかったんだ。だから出会う前に戻さなければならない」

アヨウはユハの言葉を黙って聞いていたが、ユハの身勝手な主張に困惑が解けた代わりに怒りがわいてきた。

 「何だそれは……出会う前に戻るってそんなことできる訳ないだろ!!」

アヨウは潰された片目に手を当てながら叫ぶ。

 「もう取り返しがつかないだろ!俺は……俺は大切な人まで裏切ってしまったんだぞ!!……それをそんな気まぐれみたいに……」

怒りを込めた叫びが、悲しみによって嗚咽に変わっていく。アヨウはあの夜のことを思い出していた。自分を思って待っていてくれるはずの恋人のこと裏切ってしまった、たとえ不可抗力だとしても、そのことを思うと後悔がアヨウの心に満ちて行った。あの暖かい場所に自分はもう戻る資格はないのだ。

 「俺にはもう……帰る場所なんて無いんだ……」

アヨウは俯きながら絞り出すように言った。

ユハはそれを黙って聞いていたが、やがて意を決したように口を開いた。

 「ハラエルが妊娠した。君の子だよ」

それを聞いてアヨウは思わず顔を上げた。

 「僕たちと一緒に育てる?やだよ。僕は君を連れて行く気なんてない、だけど殺してやる気もない。君が自由を望んでいないのなら、僕は君を置いていくだけさ。それに……」

ユハは一呼吸置き静かに続けた。

 「僕らについていったって帰る場所がないのは同じだよ。カイメラに居場所何て無いんだから」

ユハはアヨウを殺害するつもりはないが、しかし見殺しにしてもかまわないようだ。そしてアヨウがもとの社会に戻るつもりがない場合、それはアヨウに孤独で、緩慢な死をもたらすだろう。アヨウがそのことを考えたとき、先ほど味わった死の実感がありありと心身に蘇ってきた。

死にたくない。

その恐怖がアヨウの体を動かした。身を地面から引きはがすように立ち上がると、やがてよろよろと歩き出す。

 「人里に行きたいのなら山道を進むより、右手の森を真直ぐ下った方が近い。しばらく進むと沢があってそれを抜ければ別荘地がある。そこなら助けも呼べるだろう」

 「ありがとう」

ユハの助言にアヨウは軽く会釈をすると、かすれた声で答えた。それは絞り出したような小さな感謝の言葉だった。

 「ねえ、ハラエルのこと……怒ってる?」

そのまま立ち去ろうとするアヨウに対してユハは声をかける。

アヨウは歩みを止めると暫く考え、やがて意を決したように口を開いた。

 「解らない。ただ、そのことを抱えて生きていくのはとても……後ろめたい」

 「後ろめたいか、いいね」

 「いいだって?」

 「そうさ、だって僕たちの歴史の始まりはきっとそんな後ろめたいものだったはずだから……ちょっと話過ぎたね、僕はもう行くよ」

そう言って立ち去ろうとするユハに今度はアヨウが声をかけた。

 「待て、忘れものだ」

アヨウはそういうと何か黒いものをユハに向かって投げて寄越した。それはユハのスクラップブックだった。開いて中を見ると余白にアヨウの言葉で添削が書かれていた、ユハにもわかるようにできるだけ簡単な言葉で。それを見てユハは思わず涙が出そうになった、しかし……

 「ありがとう、でもこれはここに置いていくよ」

そう言うとノートを床に置き、踵を返す。

 「ユハ、俺たちはもう会うことはないのか?」

アヨウの問いにユハは背を向けたまま答える。

 「ああ、もう会うことはないだろう」

そうはっきりと断定した。

 「だが、何世代か後にこの蟠りと折り合いをつけることができればあるいは……アヨウさよならだ」

そして振り返ることなくどこかへ飛び去って行った。

 「さよなら、ユハ」

そしてアヨウもその場を去った。後には黒いスクラップブックだけが残された。


山林の獣道を一人の青年が駆け降りる。生い茂る木々の枝葉が日光を遮り辺りは平間だというのに薄暗い。萎えた足を無理やり動かし、道なき道を必死に進んだ。

彼は酷いありさまだった。身にまとった衣服はボロボロ、靴すら履いていない。体中は傷だらけで誰かに手ひどく痛めつけられたようだ。右目に巻かれた布からは血膿が滲みだしていたどうやら潰れているらしい。

満身創痍の体に鞭を打ち彼は道を急いだ。夜になる前に人里にたどりつかなければ、森に生息する竜に襲われるかもしれない。

 (このまま進めば沢に出るはずだが……)

彼はここへ来る前に言われたことを思い出していた、だが一向に水の気配はない。

 (一度引き返すべきか……)

そう思って来た道へ視線を向けたその時、右側の死角にあった枝に頭をしたたかに打ち付けた。そして受け身もとれぬまま派手にすっころんだ。倒れた体の下敷きになった尾の骨が軋み、打ち付けた角が痛む。まさに泣きっ面に蜂だが、打ちのめされている暇はない。体を地面から引き離し、再び走り出す。

引き返すことはできない、引き返すわけにはいかない。自分はもう彼らと決別したのだから。引き返すことはできなくても生きていくことを選んだのだから。
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