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第1章

『心の奥のずっと深く』

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 入月くんがトイレに行ったきり戻ってこない……

 本当に彼は人の気持ちも知らずに、トイレにばかり行って!
 もう、ライブ開始時間になってしまうじゃないの!

 そう、橘時雨は焦っていた。

 普段、学友たちから『鉄仮面』とか『鋼鉄の女王』と呼ばれるほどに、異彩を放っていた彼女だが、所詮は齢17の女子、鋼鉄と呼ばれるほどにまでは精錬されてはいなかった。

 人生初のライブに参加するという特別感、憧れの男子と偶然に出会った運命。そして、一緒に話をして、ライブにも一緒に参加するという非日常感。
さらに、初めてのライブ会場での裏切り放置プレイ……
 彼女は、まだ本番のライブが始まる前に、既にオーバーヒート寸前であった。
 それに加えて、ライブ開始時刻が間近に迫り、会場内の熱がどんどん高まっていく。
 常に他人と肌を合わせているような窮屈さと、人の汗とその匂いで息苦しい。
 この広くて狭い空間に1人きりという状況は、学校のクラスにいる自分自身と大差がないことに、ふと頭の中で結び付いた。

 結局、私は……  私という人間は……

 あの時と同じように、また仮面を被ればいい、自分他人を隔てるように仮面を被ればいい。
 誰も傷付かないし、私も傷付かない。鉄の仮面を被った私こそが|。

 そう、心の中で決意した瞬間、突然全ての照明が落ち、会場がざわめきに包まれた。

 自分の息を呑む音が聞こえる。
 心臓の鼓動も……

「ついに、始まる……」

 会場全体をレーザービームが走り、フラッシュライトが高速で明滅する。
 ステージ後方の白い壁には【Godly Place】のロゴが大きく映し出され、大音量でイントロが流れ始めた。

 次第に早まるテンポ、呼吸と脈もそれに合わせて早まっていく。

 【Godly Place】のライブが……
 始まった!

  明かりが戻ると同時に爆発するリズムとサウンドが、広く狭かった空間を駆け抜けて『至福』で満たしていく。
 時雨と 【Godly Place】の間には最早何の妨げも存在しなかった。
 間近に見る5人の姿は、テレビやネットで観ていたものより大きく、迫力があった。その動き一つひとつに、彼らのパワーと息遣いを肌で感じている。
 【Godly Place】を近くに感じる。いや、そんなものじゃない。同じ場所で、同じ空間で今、。そんな感覚に時雨は一瞬で支配されてしまった。
 
 身体の芯が震えるベース音とバスドラムの重低音。
 掻き鳴らすギターの心地良さと、心に響く歌声……
 そのどれもが、彼女の心を掴んで離さない。

 ライブが始まる前、色々なことがあり過ぎて頭の中がパンクしそうだったことが、嘘のようにクリアになって、思考から欠除された。
 時雨は今までの人生で、間違いなく一番の感動と喜びを味わっていると実感していた。

 そして……
 最高の時間は瞬く間に過ぎていった……

 「次が最後の曲になります……」
(えッ!? ユウさんが喋った?)

 次が最後という事実よりも、ユウがMCをしているということに、時雨は驚いていた。
 時雨の記憶では、ユウは歌う時以外は殆ど話さない。それはファンの間でも有名な話だったはずだ。

 変ね……  ユウさんの優しい声、何処かで聞き覚えがあるような気がするわ……

「えー……  これから歌う最後の曲は、僕がどうしても演奏したくて、本番の直前にメンバーに無理を言って、急遽演奏させてもらえることになりました」

 わざわざMCで言わなくてもいいことを律儀に話しているユウは、本当に優しい人なのだろうと、時雨は想像した。だからこそ、尚更どうしてあんな変な仮面マスクを被っているのか疑問で仕方がない。

 ユウというキャラクターと凶悪な仮面マスクとのギャップがあり過ぎて、何とも言えない不思議な気持ちになってしまう。それがいいというファンも少なくないけれど……

 しかし、時雨にとってはユウの素顔が分からないからこそ、父親の面影を重ねられるのかもしれない……

 「それでは聴いてください……【限りない蒼の世界】」
「――あっ(私の大好きな曲だ……)」

 ユウさんがどうしてもやりたかった曲というのは、この曲のことだったんだ……

 ミュアの弾く鍵盤が流れるような伴奏を奏でる。ユウがそっと顔を上げマイクに近付く、そっと儚いけれど力強い声で歌い始めた。
 鍵盤と声の旋律がぶつかることなく溶け合い混ざり合う。もともと1つの楽器だったように、自身の肋骨から創造されたイヴとアダムが重なり合うように……

「声って……  楽器、だったんだ……」

 水の一雫が水面みなもに落ち、その波紋が遠く、広く伝わっていくように、時雨自身が蒼い世界の水面に立っていた。

 そして、ユウの歌に、声に、言葉に、心を探られていく…… 
 心の奥底に深く隠そうとしていた『想い』が、リボンの紐を解くように簡単に開かれてしまった。




……

………


 私は父の弾くギターが好きだった。

 いつも男の子のように走り回っていた私も、父がギターを弾いて歌う時だけは、隣に座り、大人しく聴いていた。
 父の歌声はとても心地良く、優しい歌声だった……

 私の12歳の誕生日を迎える目前の日、母は私に「父は遠いところへ行ってしまって、もう2度と帰って来ない」と話した。
 私を悲しませないようにと、必死に笑顔を作りながらも、時折言葉を詰まらせてしまう母の姿に、幼かった私でも「父は死んでしまったのだ」と直ぐに理解できた。
 私は、母に見つからないように布団に潜り、声を押し殺すようにして泣いた。
 父のギターや歌声だけでなく、父のことが大好きだったのだと、その時初めて気付いた。

 日に日に思い出が色を失っていく。忘れてはいけない大切な思い出なのに、思い出すと苦しいから、心の奥底にしまい込んだ。

 女手おんなてひとつで私を支えてくれている母のため、いい子になろうとずっと努力してきた。 
 苦手だった勉強も、運動も人並以上になり、クラスでは毎年学級委員をして、風紀委員では副委員長を任されている。

 先生やクラスのみんなからは、よく思われていないのは知っている。それでも、何より母が喜んでくれる!私にはそれが嬉しい……  誇らしい……  そのはずなのに! それだけでは、ぽっかり空いた心の隙間は埋まらなかった!

 だって今の私は鉄仮面偽りの感情を被った橘時雨。
 私の『喜び』も『怒り』も『哀しみ』も『楽しみ』も、全ての『感情』は父の思い出と一緒に心の奥底にしまってしまったからだ。
 その鍵を開けるつもりはない、開けられない!もし、心の奥底の扉が開いてしまったら、私はもう進めない、立っていられない!

 だって、どんなに頑張っても褒めてくれない! 悪いことをしても怒ってもくれない!心地良いギターの音色も、歌声も、もう何も! 何処にもいない!

 ねえ……  お父さん……?

 どうしてお父さんは……

 「死んじゃったの……?」




……

………


『限りない蒼の世界』は、私の心をさらけ出したまま終わってしまった……

 苦しくて今にも胸が張り裂けそう。

 この曲を聴くと、大切だったお父さんを思い出せるような気がして、好きだったのに、実際の演奏を聴いてしまうと、こんなにも自分の心が荒らされ、暴かれてしまうなんて思いもしなかった。

 もう二度と、この曲は聴けない……
 もう二度と【Godly Place】の曲は聴くことができない……

 時雨がそう思った時だった。

『――僕は此処にいるよ 』
「えっ……?」

 時雨が顔を上げると、照明が落ち、暗くなったステージの上で、ユウがギターを弾きながら、今まで聴いたことのない曲を歌い始めていた。

 確か、ユウさんは『限りない蒼の世界』が最後の曲と言っていたはずなのに……

『――君の心の中、辛いとき悲しいときも』

『――君の名前をずっと呼び続けているよ、ただ1人の愛する人』

『――この広い蒼の世界には、思い悩みも痛みもない』

『――空へと羽ばたいたその翼を、縛るものは何もない』

 初めて聴いたはずの曲なのに、ずっと前から知っていたような懐かしい感じがした。

「お父……  さん……?」

 ユウの姿が、あの日、陽の光が差し込む風通しの良い部屋で、時雨を励ますために歌っている父親の姿と重なって見えた。「――僕は此処にいるよ、時雨……」

 時雨は急に肩の荷が降りたような脱力感に包まれ、今まで心の奥底に溜め込んでいたものが、洪水のように溢れるのを感じながら、必死に身体が倒れないようにと気を張った。
 脚に力が入らない、寄り掛かって立っているのがやっとだ。
 いつの間にか、目の前の柵を強く握りしめていたその手に、何か冷たい物が当たった気がして見下ろす。
 その時、初めて自分が泣いていることに気付いた。

「えっ……?」

 泣いているの、私が?
 お父さんが亡くなった日から、1度も泣いたこと……  なかったのに……

 時雨の涙を留めていたものは取り去られた。
 時雨は、今まで閉じ込めていたものを精算するように、ただただ泣き続けた……


 曲が終わっても、誰ひとりとして歓声や拍手をする者はおらず、ただ静寂だけが会場を覆っていた。

 会場には、時雨と同じように目の周りを赤くして泣いている者や、座り込んで泣き崩れている者もいる。普段のライブのそれとは違う異様な光景だった。
 しかし、彼らは皆一様に、何処か清々すがすがしく、前を向いていた。

 ガップレのメンバーたちは、それぞれ顔を見合わせた後、全員がステージ前方に横並びになると、一斉に深々と頭を下げた。会場からは小さな拍手が起こり始め、直ぐに忘れていたように大喝采へと成長した。

「ありがとーう!」
「ありがとーッ!」
「ありがとう、ガップレー!」
 
時雨も、この気持ちをどうしてもガップレに、ユウさんに伝えたくて大きく息を吸い込んだ。

「ガップレ!ありがとーうッ!」

 きっとユウにその声が届いたのだろう。ユウは時雨の方を向いて、またお辞儀をして軽く手を上げた。まるで時雨のことを労うように……

 その後もしばらくの間、拍手と歓声は止まることを知らなかった。
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