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37 朝のお支度
「――おい、起きろ。朝だ」
まどろみから目覚めるきっかけとなったその呼び声のあと、ローレントの唇に温かく柔らかいものが落ちてすぐ離れた。
その感触に「んー……」とかすかな目覚めの声を上げた。
さっき寝始めたばかりの気がして、またまどろみの中に戻ろうとしたが、「お前の元侍従が、もう部屋に来てるぞ」という声で一気に目が覚めた。
「もうそんな時間か!」
飛び起きると部屋は暗く、自室へと続く扉の隙間から漏れる朝の光は、まだわずかなものだ。
ローレントはいつもこの扉から漏れる光の長さで、朝のおおよその時刻を読んでいた。
この光の感じだと、まだ朝が明けたばかりといったところだ。
「なんだ。まだ明け方か」
ローレントは安堵し、バタッと枕に頭をつけるとあふっと小さく欠伸をした。
「久々にお前の元で、侍従の真似ごとができるとはいえだ。張り切り過ぎじゃないのか。いつもあんな感じなのか」
二度寝しそうなローレントとは対照的に、ガーディアスは困惑したように、ラミネットがいるだろうローレントのほう部屋を見て、声を潜めた。
「王宮の侍従たちは、僕が起きたと同時に支度を始められるように、早めに来て準備をしているんだ。それでも一応交代制だったんだけど、ラミネットは筆頭だったからこれが当たり前だったんだ」
「ってことは、お前が起きるまで部屋で待機しているってことか? にしても早すぎだろう。あいつ何時に起きたんだ。このあと普通に秘書官の仕事があるんだぞ」
ローレントの説明をガーディアスは納得できないようで、ブツブツ言っている。
「お前もお前だ。あんなに楽しみにしていたのに、なぜ早く起きないんだ」
「起きる時間が早すぎても、お小言を言われるんだよ。しっかり睡眠を取ることも、僕の仕事らしい」
睡眠時間の管理も侍従たちの仕事のひとつで、ローレントがそれに従わず夜ふかしや早起きで睡眠時間を削ろうものなら、総掛かりで小言を言われ、昼寝の時間を増やされてしまうのだ。
「だがここは王宮じゃない。お前の世話のせいで、秘書官の仕事が疲れでおろそかになるようなら、世話係をおろすと、そう言っておけ」
そう言いながらガーディアスが、ローレントに背を向けてベッドから降りていく。
ベッドがギシッと音を立てて、少し傾く。
こんなことで、他の仕事がおろそかになるラミネットではない。だからその心配はないだろう。
「もう起きるのかい」
君もさっき寝たばかりじゃないか。
そう広い背中に声をかけると、ガーディアスが振り返りニッと笑った。
「俺をベッドに引き戻してどうしたいんだ? 朝っぱらからお前のいい声をラミネットに聞かせたいなら、それでもいいぞ。俺は朝からでもイケるしな」
「そういう下品なことを言うなって言ってるだろ!」
ローレントは頭の上に立てかけてあった小さなクッションを掴むと、ガーディアスめがけて投げつけた。だが羽の入ったクッションはガーディアスまでは届かず、上にふわっと舞って、すぐそこにポスッと落ちただけだった。
ガーディアスはハハッと笑うと踵を返し、ベッドの上にのし上がると、ローレントに軽くキスをした。
「俺はもう仕事に行く。まだ仕事が山積みなんだ。起きたら執務室へラミネットと来い。朝食を一緒にとろう」
そう言ってガーディアスは、今度こそベッドから降りた。
そしてドアノブに手をかけたと思ったら振り向き、「わかっているとは思うが、もうラミネットに素肌を見せるんじゃないぞ。あと触らせるのもナシだ。あいつはもうお前の侍従じゃないんだからな」
と念を押して部屋を出ていった。
「まったく。忙しい奴だな」
ラミネットもラミネットだが、ガーディアスもガーディアスだ。昨日は一緒に寝たのだから、睡眠時間が足りていないのは、ガーディアスも同じだというのに。
ひとりになった部屋で、ローレントはもう少し寝ようと、目をつむる。
左右の扉からは、2人のたてる足音や物音が、かすかに漏れて聞こえてくる。
さきほどまではあんなに眠かったのに、今はすっかり目が冴えてしまったようで眠れない。
ローレントはベッドの中で、じっとそのかすかな物音に聞き耳を立てていた。
2人がそれぞれ何をしているかは分からないが、ガーディアスの体重のかかった重い靴音や、ラミネットのパタパタという軽い靴音がいったり来たりを繰り返している。
しばらくするとガーディアスが身支度を終えたのだろう、遠くで重い扉の開閉する音が聞こえ、部屋からガーディアスの気配が消えた。
そしてそれと時を同じくして、ローレントの部屋からも、窓を開閉する音を最後に物音がしなくなった。
ガーディアスは2階の執務室へと降りたのだと分かるが、ラミネットはどうしたのだろうか。
(……もしかして、休憩でもしているのか?)
耳を澄ましても、ローレントの部屋からは音のする気配はない。
(珍しいな。あのラミネットが休憩なんて)
王宮にいた頃は、彼が休憩をとっているところなど、一度たりとも見たことがなかった。
いつも忙しなく動き、ローレントが寝るまでつきっきりだった。
(まあ、ここじゃやることなどないか)
1日のスケジュールがびっしりだった王宮とは違い、ここでのローレントは暇しかない。
食事のメニューや身につけるもの。今日は誰が来て何をし、またどこへ誰に会いに行くのか。どのようなものがいつまでに必要で、どこになにを依頼するのか、そんなことを考える必要は一切ない。
ただのんびりと起き、クローゼットにある軽やかな衣服を適当に身に着ける。食事も皆と同じものを食べ、好きなときに本を読み、散歩をする。
辺境伯の妻とは言うものの、やることは何もなく、隠居も同然の身だ。
当然着飾る必要もなく、そんなローレントのためにできることなど限られている。
ラミネットは侍従だった頃と同じように、ローレントに完璧な支度をと張り切って来てくれたのだろうが、実際はできることなどなにもなく、早々に暇になってしまったのだろう。
しばらく経ってもラミネットの動く気配がない。
このままでは仕事を求めて、ラミネットはガーディアスのいる執務室へ行ってしまうかもしれない。
そんなことが気になって眠れないローレントは、結局起きることにした。
いそいとベッドから降り、ささっと乱れた寝間着を整えると、自室へと続く扉を開けた。
ガーディアスが部屋を出て行ってからたった数十分程度だったが、すっかりと日が昇り、部屋には明るい光が充満している。
薄暗い寝室から急に明るい場所へ出たローレントは、あまりの眩しさに目をきゅっと細める。
ドアを閉めたと同時に、小さな鳥の羽ばたきが聞こえた。
「――ああ、起きられましたか。おはようございます。ローレント様。お早いですね」
開いた窓の外を眺めるように立っていたラミネットが、笑顔で振り向いた。
「おはよう。君が窓の外なんか眺めて、ぼんやりしているなんて珍しいな」
「おや、そうです?」
「どうせすることがなくて、暇だったんだろ?」
そう茶化したように言うと、ラミネットが「とんでもございません!」と仰々しく首を振った。
「あらためてローレント様にお仕えするにあたり、これからどのようにスケジュールをたてようか、ひとり思案しておりました。これまでは侍従が何人もおりましたが、もう私ひとりですからね」
そう言いながら、サイドテーブルの上にドンと大きな革製のトランクを置いた。これはローレントにも馴染みのあるもので、旅行用の侍従カバンだ。中にはローレント用の身支度の品が揃っている。
開くとやはり思った通り、整容品がぎっしりと入っている。ローレントのクローゼットにも同様のものがあるのだが、それよりも品数が多い。
「いつかこんな日が来るかと、定期的に器具の手入れをし、足りないものは少しずつ買い揃えてまいりました。残念なことにサルースの街は品揃えが悪くて。王都でいつも使っている石鹸などは入手できず、やや品質が劣るのが難点です」
かなり残念そうな、いやまさしく無念といった表情のラミネットに、ローレントはクスリと笑った。
懐かしいやりとり。まるで王宮にいた頃に戻ったようだ。
「さ、ではまずは手のお手入れからいきますよ! ああ、ほら爪の形がこんなに悪くなっているじゃないですか! この間お会いしたときも気になっていたんですよ、私は」
ローレントを椅子に座らせると、自身も対面に椅子を置いて座った。そしてローレントが差し出した手をそっと手のひらで受けとめると、いつものように素早く、そして丁寧な手つきでオイルを爪に塗り込め始める。
「あのさラミネット。どうせ誰にも会わないんだし、もうそこまできれいにする必要はないと思うんだが」
「なにを言っておられるのですか。領主様がいらっしゃるじゃないですか」
「いや、でも僕は女性じゃないしさ。それにガーディアスも、そんなこと気にしていないだろ」
ガーディアスは、ローレントの髪がクシャクシャだろうが服が乱れていようが、そんなことお構いなしに美しいだのきれいだのと言ってくる。いくらきれいに整えたところで、その違いに気づく男じゃない。
「あの方が気にする気にしないは問題じゃありません。大切なのはローレント様の心の持ちようです。いいですか、身だしなみは心の鏡。いくら領主様がいいと言われたとしても……」
そこまで言うと、ラミネットは口元に手を当てて、急におかしそうにふふふと笑った。
「なんだよ」
「いえ、領主様と仲睦まじいご様子で。このラミネット、安心した次第でございます」
「まだなにも言ってないだろ」
「先日はあまりにピリピリしておりましたので、心配しておりました」
そうだった。ラミネットとはあの日以来だった。
ひどく取り乱した姿を見せていたことに気が付き、なんともきまりが悪い。
「諸々の懸念は解決されたので?」
「……まあね」
懸念が解決されたどころか、彼についてそれ以上のことを知り、ローレントはガーディアスをの妻として、彼に寄り添う心が密かに芽生えはじめている。だが、いまだ素直になれないローレントは、そんな自分の心に気付かないフリをしているところだ。
そんなローレントの心を見透かしたように、ラミネットはまたふふと含み笑いをした。
「それはそれは。まあ何はともあれ、お2人の仲がよろしいのであれば、それで十分かと。とはいえ、それとこれは別の話です。さ、次はそちらの手を。これが終わったら髪のお手入れをいたします。しっかりと磨かれたローレント様を見ていただいて、いかに私が必要か領主様にご理解していただかねば」
そう張り切るラミネットに、ローレントは苦笑いをした。
ラミネットはこの城に揺るぎない自分の居場所を作る気満々らしい。さすがラミネットだ。逞しい。
黙々と爪を磨くラミネットを見ながら、ローレントは小さくあふっと欠伸をした。
なんだか少し眠くなってきた。自分以上に寝ていないだろうガーディアスは、本当に眠くないのだろうか。
爪に続き今度は髪と、あちこち手入れをされながら、ぼんやり考えていた。
まどろみから目覚めるきっかけとなったその呼び声のあと、ローレントの唇に温かく柔らかいものが落ちてすぐ離れた。
その感触に「んー……」とかすかな目覚めの声を上げた。
さっき寝始めたばかりの気がして、またまどろみの中に戻ろうとしたが、「お前の元侍従が、もう部屋に来てるぞ」という声で一気に目が覚めた。
「もうそんな時間か!」
飛び起きると部屋は暗く、自室へと続く扉の隙間から漏れる朝の光は、まだわずかなものだ。
ローレントはいつもこの扉から漏れる光の長さで、朝のおおよその時刻を読んでいた。
この光の感じだと、まだ朝が明けたばかりといったところだ。
「なんだ。まだ明け方か」
ローレントは安堵し、バタッと枕に頭をつけるとあふっと小さく欠伸をした。
「久々にお前の元で、侍従の真似ごとができるとはいえだ。張り切り過ぎじゃないのか。いつもあんな感じなのか」
二度寝しそうなローレントとは対照的に、ガーディアスは困惑したように、ラミネットがいるだろうローレントのほう部屋を見て、声を潜めた。
「王宮の侍従たちは、僕が起きたと同時に支度を始められるように、早めに来て準備をしているんだ。それでも一応交代制だったんだけど、ラミネットは筆頭だったからこれが当たり前だったんだ」
「ってことは、お前が起きるまで部屋で待機しているってことか? にしても早すぎだろう。あいつ何時に起きたんだ。このあと普通に秘書官の仕事があるんだぞ」
ローレントの説明をガーディアスは納得できないようで、ブツブツ言っている。
「お前もお前だ。あんなに楽しみにしていたのに、なぜ早く起きないんだ」
「起きる時間が早すぎても、お小言を言われるんだよ。しっかり睡眠を取ることも、僕の仕事らしい」
睡眠時間の管理も侍従たちの仕事のひとつで、ローレントがそれに従わず夜ふかしや早起きで睡眠時間を削ろうものなら、総掛かりで小言を言われ、昼寝の時間を増やされてしまうのだ。
「だがここは王宮じゃない。お前の世話のせいで、秘書官の仕事が疲れでおろそかになるようなら、世話係をおろすと、そう言っておけ」
そう言いながらガーディアスが、ローレントに背を向けてベッドから降りていく。
ベッドがギシッと音を立てて、少し傾く。
こんなことで、他の仕事がおろそかになるラミネットではない。だからその心配はないだろう。
「もう起きるのかい」
君もさっき寝たばかりじゃないか。
そう広い背中に声をかけると、ガーディアスが振り返りニッと笑った。
「俺をベッドに引き戻してどうしたいんだ? 朝っぱらからお前のいい声をラミネットに聞かせたいなら、それでもいいぞ。俺は朝からでもイケるしな」
「そういう下品なことを言うなって言ってるだろ!」
ローレントは頭の上に立てかけてあった小さなクッションを掴むと、ガーディアスめがけて投げつけた。だが羽の入ったクッションはガーディアスまでは届かず、上にふわっと舞って、すぐそこにポスッと落ちただけだった。
ガーディアスはハハッと笑うと踵を返し、ベッドの上にのし上がると、ローレントに軽くキスをした。
「俺はもう仕事に行く。まだ仕事が山積みなんだ。起きたら執務室へラミネットと来い。朝食を一緒にとろう」
そう言ってガーディアスは、今度こそベッドから降りた。
そしてドアノブに手をかけたと思ったら振り向き、「わかっているとは思うが、もうラミネットに素肌を見せるんじゃないぞ。あと触らせるのもナシだ。あいつはもうお前の侍従じゃないんだからな」
と念を押して部屋を出ていった。
「まったく。忙しい奴だな」
ラミネットもラミネットだが、ガーディアスもガーディアスだ。昨日は一緒に寝たのだから、睡眠時間が足りていないのは、ガーディアスも同じだというのに。
ひとりになった部屋で、ローレントはもう少し寝ようと、目をつむる。
左右の扉からは、2人のたてる足音や物音が、かすかに漏れて聞こえてくる。
さきほどまではあんなに眠かったのに、今はすっかり目が冴えてしまったようで眠れない。
ローレントはベッドの中で、じっとそのかすかな物音に聞き耳を立てていた。
2人がそれぞれ何をしているかは分からないが、ガーディアスの体重のかかった重い靴音や、ラミネットのパタパタという軽い靴音がいったり来たりを繰り返している。
しばらくするとガーディアスが身支度を終えたのだろう、遠くで重い扉の開閉する音が聞こえ、部屋からガーディアスの気配が消えた。
そしてそれと時を同じくして、ローレントの部屋からも、窓を開閉する音を最後に物音がしなくなった。
ガーディアスは2階の執務室へと降りたのだと分かるが、ラミネットはどうしたのだろうか。
(……もしかして、休憩でもしているのか?)
耳を澄ましても、ローレントの部屋からは音のする気配はない。
(珍しいな。あのラミネットが休憩なんて)
王宮にいた頃は、彼が休憩をとっているところなど、一度たりとも見たことがなかった。
いつも忙しなく動き、ローレントが寝るまでつきっきりだった。
(まあ、ここじゃやることなどないか)
1日のスケジュールがびっしりだった王宮とは違い、ここでのローレントは暇しかない。
食事のメニューや身につけるもの。今日は誰が来て何をし、またどこへ誰に会いに行くのか。どのようなものがいつまでに必要で、どこになにを依頼するのか、そんなことを考える必要は一切ない。
ただのんびりと起き、クローゼットにある軽やかな衣服を適当に身に着ける。食事も皆と同じものを食べ、好きなときに本を読み、散歩をする。
辺境伯の妻とは言うものの、やることは何もなく、隠居も同然の身だ。
当然着飾る必要もなく、そんなローレントのためにできることなど限られている。
ラミネットは侍従だった頃と同じように、ローレントに完璧な支度をと張り切って来てくれたのだろうが、実際はできることなどなにもなく、早々に暇になってしまったのだろう。
しばらく経ってもラミネットの動く気配がない。
このままでは仕事を求めて、ラミネットはガーディアスのいる執務室へ行ってしまうかもしれない。
そんなことが気になって眠れないローレントは、結局起きることにした。
いそいとベッドから降り、ささっと乱れた寝間着を整えると、自室へと続く扉を開けた。
ガーディアスが部屋を出て行ってからたった数十分程度だったが、すっかりと日が昇り、部屋には明るい光が充満している。
薄暗い寝室から急に明るい場所へ出たローレントは、あまりの眩しさに目をきゅっと細める。
ドアを閉めたと同時に、小さな鳥の羽ばたきが聞こえた。
「――ああ、起きられましたか。おはようございます。ローレント様。お早いですね」
開いた窓の外を眺めるように立っていたラミネットが、笑顔で振り向いた。
「おはよう。君が窓の外なんか眺めて、ぼんやりしているなんて珍しいな」
「おや、そうです?」
「どうせすることがなくて、暇だったんだろ?」
そう茶化したように言うと、ラミネットが「とんでもございません!」と仰々しく首を振った。
「あらためてローレント様にお仕えするにあたり、これからどのようにスケジュールをたてようか、ひとり思案しておりました。これまでは侍従が何人もおりましたが、もう私ひとりですからね」
そう言いながら、サイドテーブルの上にドンと大きな革製のトランクを置いた。これはローレントにも馴染みのあるもので、旅行用の侍従カバンだ。中にはローレント用の身支度の品が揃っている。
開くとやはり思った通り、整容品がぎっしりと入っている。ローレントのクローゼットにも同様のものがあるのだが、それよりも品数が多い。
「いつかこんな日が来るかと、定期的に器具の手入れをし、足りないものは少しずつ買い揃えてまいりました。残念なことにサルースの街は品揃えが悪くて。王都でいつも使っている石鹸などは入手できず、やや品質が劣るのが難点です」
かなり残念そうな、いやまさしく無念といった表情のラミネットに、ローレントはクスリと笑った。
懐かしいやりとり。まるで王宮にいた頃に戻ったようだ。
「さ、ではまずは手のお手入れからいきますよ! ああ、ほら爪の形がこんなに悪くなっているじゃないですか! この間お会いしたときも気になっていたんですよ、私は」
ローレントを椅子に座らせると、自身も対面に椅子を置いて座った。そしてローレントが差し出した手をそっと手のひらで受けとめると、いつものように素早く、そして丁寧な手つきでオイルを爪に塗り込め始める。
「あのさラミネット。どうせ誰にも会わないんだし、もうそこまできれいにする必要はないと思うんだが」
「なにを言っておられるのですか。領主様がいらっしゃるじゃないですか」
「いや、でも僕は女性じゃないしさ。それにガーディアスも、そんなこと気にしていないだろ」
ガーディアスは、ローレントの髪がクシャクシャだろうが服が乱れていようが、そんなことお構いなしに美しいだのきれいだのと言ってくる。いくらきれいに整えたところで、その違いに気づく男じゃない。
「あの方が気にする気にしないは問題じゃありません。大切なのはローレント様の心の持ちようです。いいですか、身だしなみは心の鏡。いくら領主様がいいと言われたとしても……」
そこまで言うと、ラミネットは口元に手を当てて、急におかしそうにふふふと笑った。
「なんだよ」
「いえ、領主様と仲睦まじいご様子で。このラミネット、安心した次第でございます」
「まだなにも言ってないだろ」
「先日はあまりにピリピリしておりましたので、心配しておりました」
そうだった。ラミネットとはあの日以来だった。
ひどく取り乱した姿を見せていたことに気が付き、なんともきまりが悪い。
「諸々の懸念は解決されたので?」
「……まあね」
懸念が解決されたどころか、彼についてそれ以上のことを知り、ローレントはガーディアスをの妻として、彼に寄り添う心が密かに芽生えはじめている。だが、いまだ素直になれないローレントは、そんな自分の心に気付かないフリをしているところだ。
そんなローレントの心を見透かしたように、ラミネットはまたふふと含み笑いをした。
「それはそれは。まあ何はともあれ、お2人の仲がよろしいのであれば、それで十分かと。とはいえ、それとこれは別の話です。さ、次はそちらの手を。これが終わったら髪のお手入れをいたします。しっかりと磨かれたローレント様を見ていただいて、いかに私が必要か領主様にご理解していただかねば」
そう張り切るラミネットに、ローレントは苦笑いをした。
ラミネットはこの城に揺るぎない自分の居場所を作る気満々らしい。さすがラミネットだ。逞しい。
黙々と爪を磨くラミネットを見ながら、ローレントは小さくあふっと欠伸をした。
なんだか少し眠くなってきた。自分以上に寝ていないだろうガーディアスは、本当に眠くないのだろうか。
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