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第5章
何も知らない
しおりを挟む理人に連れられてやってきたのは、無人の休憩所だった。
入口まで来ると、理人は掴んでいた真田の手を離し、休憩所に備え付けられた自動販売機に小銭を入れる。
理人は缶珈琲を二つ取り出し、一つを真田に手渡してきた。
「まあ座れよ。」
「あ、ああ…。ありがとう。」
真田は戸惑いながらもそれを受け取り、ソファへと腰を下ろす。お互いに無言のままプルタブを開け、こくりと珈琲を流し込む。
暫しの沈黙の後、口火を切ったのは理人からだった。
「十年ぶりくらいか。お前と話すのは。」
感慨深げに理人は深く息を吐く。
「そう…だな。」
理人は、真田と同じ高校のクラスメイトだ。
当時、理人は成績優秀で、剣道の全国大会に何度も出場しており、しかも極め付けにバイトでモデル業もしていたという校内随一の有名人だった。
理人と真田は入学当初からずっと同じクラスで、しかも同じ剣道部だった事もあり、二人が仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
真田にとって理人は良き好敵手であり、大事な友人でもあった。そうして青春は殆ど剣道に心血を注ぎ、高校生活は十分過ぎるほど充実していたと思う。
だがそんな最中、急に理人は学校に姿を見せなくなった。
目立つ存在だった理人が全く音沙汰がないまま一カ月も登校して来ず、校内は一時期大変な騒ぎになっていた。
真田は何度も理人の携帯に連絡したり、寮を訪ねてみたりしたが依然として消息はわからず、顧問の先生を問い詰めても、言葉を濁すばかりで何も聞き出せなかった。
程なくして、理人が交通事故に遭い、後遺症の所為で転校して行ったのを風の噂で聞き、真田はそのまま別れの挨拶一つも言えないままだったのだ。
数年後の高校の同窓会に参加した時、特に理人と仲の良かった友人に彼の事を尋ねると、何処かの国立大学の医学部を卒業したらしいと聞き、真田はふとした疑問が頭を過ぎった。
『なんで医学部なんだ?あいつ、あんなに料理学校に通いたいって言ってたのに…。』
元々男子にしては珍しく料理が趣味だった理人は、日に日にその腕を上げ、高二で既にプロ級の腕前になっていた。
『後遺症と何か関係しているのか?いや、だとしても料理学校より医学部に入る方がずっと難しいよな…』
一体、理人は事故の後に何があったのか。
だがそれを訊くことができないまま、気付けば十年という月日が流れていた。
それをまさかこんな形で出会うとはーーー。
十年越しに見た理人は懐かしくもあったが、どこか違和感を感じた。
なんというか、本当に理人自身なのだろうか?
なんだか理人の纏う雰囲気がまるで別人のように思えてならなかった。
一番気になったのは、右眼を覆った黒い眼帯である。
「…その右眼、事故の時のものなのか?」
「まあな。だけどもう慣れた。」
理人は事もなげに言うと、空き缶をゴミ箱に投げ入れる。あまり事故の事は触れて欲しくないのかもしれないと思い、真田はそれ以上聞かなかった。
「でもまさか理人がこの病院で働いているなんて思わなかったよ。ありがとうな、俺の大事な生徒を助けてくれて。」
真田は改めて理人に深く頭を下げる。
「大事な生徒、ね…。」
理人はふと、そう呟く。
「それで、遊馬の容態はどうなんだ?入院とかになるのか?」
聞きたい事は山程あるが、今は佐助の安否が気掛かりだった。
「今は薬が効いてよく眠ってる。だからとりあえず今日の晩だけ病院で様子を見るが、入院とまではいかないな。あとは佐助の体力次第だ。」
『…….え?』
『なんで理人が遊馬を名前で呼んでいるんだ…。』
「理人、お前遊馬と知り合いだったのか?」
何故か二人の関係が気になって問い質す。
「…ああ。少なくとも悠希、お前よりもずっと‘昔’から、佐助の事は知っている。」
理人はそう言って笑った。
ドクンと一瞬鼓動が跳ねる。
真田と理人が初めて出会った十年前よりももっと前なら、佐助が小学生の頃に二人が出会ったのだろうか?
だが、理人の妙に含みのある言い方に、真田は違和感を覚える。
すると、理人は不意に薄ら笑いをやめた。
重苦しい沈黙が空間を支配し、真田の首筋にたらりと冷や汗が流れ落ちる。
『…とにかく、遊馬のいる病室を教えてもらわないと。』
ほんの数分だけでいい、遊馬に逢いたい。
真田がそう言いかけた時、
「悠希、もうこれ以上佐助に関わるな。」
「!」
真剣な声音で、理人はそう真田に告げた。
『なんで…理人がそんな事…。』
指先から血の気が引いていく。
「何も知らないお前が近くに居るだけで、どれだけあいつが苦しんでいると思ってる。お前がお前のままである限り、佐助と俺の間には、到底悠希が入り込める隙間はない。」
何も知らない俺?
俺が、俺のままでいる限り?
理人の言ってる意味が理解出来なかった。
「悠希、悪いが佐助は俺のものだ。もう誰にも渡す気はない。」
「!!」
そう理人は低い声で言い放った。
俺のもの?
一体何を言っているんだ。
遊馬はーーー、
ーーー言葉が紡げない。
真田は、理人に何も言い返せなかった。
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