風が記憶を攫う日に、君へさよならを。

塩見凛

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灯り揺れる町。君といた夏。

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 ─昼前の空気は、濃く、重たく、そしてどこか柔らかかった。

 町は、夏の終わりを惜しむように、ざわざわとした気配に満たされていた。
 坂の下から伸びる通りには、カラフルな屋台が立ち並び、子どもたちの声がはじける。
 焼きそばの匂い、リンゴ飴の甘い香り、金魚すくいの水面を叩く音。
 全部が溶けあって、夏の最後のページを彩ろうとしている。

 俺は、人混みの端を、静かに歩いていた。

 手には、何も持っていない。
 ただ、祭りのざわめきと、それにまぎれるようにして浮かび上がる“あの日々”を、胸の内でそっとたぐり寄せていた。

 ─アユ。

 ふいに、名前だけが浮かぶ。

「ねえ、あれ食べたい!」

「またかよ。さっきも食ったじゃん」

「いいの!夏祭りの日は、特別なんだから!」

 そんな、何気ないやりとりが、耳の奥でふわりと蘇る。

 俺は、焼きそばの屋台の前で足を止めた。
 鉄板の上で跳ねるソースの匂い。
 熱気。
 ジュウジュウという音。

 ─アユは、こういう屋台の前ではいつも目を輝かせていた。
 小柄な体形で、祭りの夜に胸をふくらませて、あれもこれもと指さしては、はしゃいでいた。

 その姿を思い出すだけで、胸の奥が、ほのかに痛んだ。

 今、ここに立っているのは、俺ひとり。

 手を伸ばしても、何も掴めない。

 あの時の笑い声も、視線も、全部、空気に溶けてしまったかのようだった。

 それでも─俺は歩いた。

 にぎやかな祭りの通りを、まるで何かを確かめるように、一歩一歩。

 

 通りの角を曲がると、射的の屋台が見えた。

 ぴしっ、とゴム銃の音が響く。

 景品のぬいぐるみが、棚の奥で揺れている。

 ─そういえば、アユは、あの時、パンダのぬいぐるみを欲しがったんだっけ。

 俺が撃った銃弾は、見事に的を外して、隣の飾りを落とした。
 その時の、アユのあきれたような、それでも嬉しそうな顔。

「ぜーったい狙ったんじゃないでしょ、それ」

「バレたか」

「もう、しょうがないなあ」

 そう言って、にっこり笑ったアユ。

 ─そんな場面を、細部まで覚えている。

 あの日の空気、匂い、光、音。

 それらすべてが、俺の中に、鮮やかに残っている。

 まるで、昨日のことのように。


 空を見上げると、遠くに綿菓子みたいな雲が浮かんでいた。

 真夏の空よりも、少しだけ白く、柔らかい色。

 ─夏の終わり。

 この町が、いちばん美しく、いちばん寂しい季節。

 アユも、きっとそれを感じていた。

 だから、あの日、あんなにも楽しそうに笑っていたんだろう。

 

 ふと、俺は、金魚すくいの屋台の前に立っていた。

 ビニールのたらいの中で、金魚たちがキラキラと尾ひれを揺らしている。

 ポイを持った子供たちの歓声が飛び交う。

「すくえたー!」

「やったね!」

「おかあさん!見て見て!」

 ─アユと一緒に、こんなふうに金魚すくいをしたことを思い出す。

 最初は、お互いに一匹もすくえなかった。

 それが悔しくて、何度も何度も挑戦して、最後には、俺が小さな赤い金魚を一匹、すくい上げた。

 楽しそうに笑ってた彼女の顔。

 その金魚には、「ヒナ」って名前をつけたっけ。

「一緒にお世話しよう!」

 アユは、笑いながら言った。

 その約束を、俺は、果たせないままだった。

 ─いや、違う。

「果たせなかった」のではない。

 ……俺は、まだ、「ここにいる」。

 そのことだけが、いまの俺をかろうじて支えていた。

 歩み進め、

 通りの奥、子供たちが太鼓を叩いていた。

 ドンドン、と不器用なリズム。

 けれどその音が、町に小さな命を吹き込んでいるように感じられる。

 ─アユも、子供のころ、あの太鼓を叩きたがってたな。

「カッコいいよね、法被着て、太鼓叩くの」

「おまえ、リズム感ないからな」

「ひどい!」

「事実だろ」

 
 そんなふうに、からかいあって、笑いあった夏の午後。

 俺は、少し早足になった。

 どこへ向かうというわけでもない。

 ただ、このざわめきと、音と、匂いと、思い出と─全部を、少しでも多く、身体に焼き付けたかった。

 

 細い裏道に入る。

 表通りの喧騒が、すっと遠ざかる。

 そこには、古びた木造の民家が並んでいた。

 軒先には、小さな風鈴がいくつも吊るされている。

 その音が、静かに、絶え間なく、鳴っている。

 

 ─アユと来た、あの裏道だ。

 夏の午後、二人でアイスを食べながら、ここを歩いた。

 暑さで溶けたアイスが、彼女の指に垂れて、彼女はくすぐったそうに笑った。

「ほら、手、ベタベタだぞ」

「わかってるよー!」

 拭いてやると言ったら、顔を真っ赤にして逃げたアユ。

 ─そんな、何気ない日々が、今もなお、俺の中に息づいている。

 

 風が、吹いた。

 小さな風鈴たちが、一斉に鳴る。

 その音が、胸に沁みた。

 ああ─本当に、俺たちは、ここで生きていたんだ。

 

 それでも、俺は、ひとりだ。

 手を伸ばしても、触れられない。

 声を出しても、届かない。

 それでも、歩き続けるしかなかった。

 

 やがて、坂の下にたどり着く。

 見上げれば、送り坂の長い石段が、真夏の光の中に溶け込んでいる。

 あの坂を、アユと一緒に登った夜。

 あの坂で、彼女と並んで見た花火。

 あの坂の途中で、交わした小さな約束。

 ─すべてが、音もなく、胸の奥から浮かび上がってきた。

 

 俺は、ゆっくりと、坂を登り始めた。

 一歩。また一歩。

 踏みしめるたびに、記憶がこぼれ落ちる。

 でも、それを拾い集めることはできなかった。
 
 ─まだ、ここにいるのか。
 
 自分に問いかける。

 答えは、風の中に、微かに混じっていた。

 坂を登りながら、俺は小さく息を吐いた。

 太陽はまだ高いはずなのに、どこか空の色は鈍く、光も柔らかくなり始めている。
 石畳に落ちる影も、じわじわと長くなっていく。

 人混みの喧騒は、坂を上がるごとに遠ざかり、かわりに、風の音と、どこか懐かしい草いきれの匂いが満ちてきた。

 

 ─あの年も、こんなふうに、坂を登った。

 アユと並んで。

 途中で、足を止めて、空を見上げて。

「ねぇ、坂の上から見る夕陽って、すごくきれいなんだよ」

 そう言って、彼女は小走りで先に行ってしまった。

 追いかける俺の影が、アユの小さな背中に重なったのを、今も鮮明に覚えている。

 それは、たぶん、何でもない一瞬だったはずなのに。


 坂を上る途中、通りの端に、小さな水たまりができていた。

 未明に降ったにわか雨の名残だろうか。

 その水面に、祭りの提灯が映り込み、赤や黄色のぼやけた色がゆらゆらと揺れていた。

 

 ふと、思い出す。

 アユと、雨に降られた帰り道。

 二人でひとつの傘に入って、肩を寄せ合ったこと。

「こっち寄ってよ、濡れる!」

「おまえが傘持つからだろ!」

 なんて、子供みたいに言い合って、結局、二人ともずぶ濡れになった。

 そのあと、コンビニで買ったホットココアの甘さが、やけに沁みたっけ。

 ─そんな、小さな思い出たちが、歩くたびに胸の奥から滲み出してくる。

 

 坂道を半分ほど登ったところで、俺は足を止めた。

 石垣の向こうに、小さな広場が見える。

 そこでは、子どもたちが集まって、手作りの小さな神輿を担いでいた。

「わっしょい! わっしょい!」

 元気な声が、夕暮れの空に弾ける。

 その中に、見覚えのある顔はなかった。

 でも、どこか、懐かしい横顔をした少女が、小さな神輿を一生懸命支えていた。

 

 ─ああ、そうだ。

 昔、俺たち小さな法被を着せられて、神輿に参加していた。

 当時は、半べそをかきながらだったけど、最後にはちゃんと笑っていた。

 写真も残っている。

 法被のすそを引きずりながら、得意げにピースサインをしている、あどけない顔。

 そんなアユの姿に重ねてしまっているんだ。

 

 そんな記憶に引き寄せられるようにして、俺は広場の端に近づいた。

 子どもたちの歓声が、耳の奥に響く。

 でも─その声は、どこか遠い。

 まるで、水の中で聞いているみたいに、ぼんやりとしている。

 

 ─俺は、ここにいるのに。

 ここにいるはずなのに。

 誰も、俺のことを見ていない。

 俺は、手を伸ばしてみた。
 
 ただ、冷たい風だけが、俺の手のひらをなでていった。


 だけど。

 この祭りのざわめきは、まるで俺を取り残すように、少しずつ遠ざかっていく気がした。


 振り返ると、坂の下に、町の全景が広がっていた。

 色とりどりの屋台。
 行き交う人々の波。
 笑い声。
 はしゃぐ声。
 誰かの呼ぶ声。

 すべてが、ひとつの大きな光の海になって、ゆらゆらと揺れている。

 そしてその光の海は、俺を中心に、ゆっくりと─遠ざかりつつあった。

 

 俺は、ポケットから、小さな風鈴を取り出した。
 
 透明なガラス。

 小さな舌。

 ─また、ここで。

 その約束を、俺は守れているんだろうか。

 ─アユならきっと。

 それとも、もう、取り残されてしまっているんだろうか。

 

 チリン─。

 小さな音が、風に運ばれていく。

 その音は、誰の耳にも届かない。

 ただ、俺だけの中に、静かに、確かに響いた。


 俺は、再び歩き出した。

 坂の上へ。

 夏の終わりの、最後の光に向かって。


 ─アユ。

 おまえも、あの空のどこかで、同じ音を聞いているだろうか。
 
 チリン─。

 どこかで、小さな風鈴が鳴った。
 
 陽が高くなるにつれ、風鈴坂町はゆっくりと熱を帯び始めた。

 坂の下では、赤や青の提灯が等間隔に吊るされ、微風に合わせてかすかに揺れている。その下では、町の人々が手分けして祭りを盛り上げんと奔走していた。

「おーい、こっちにもう一本、柱立てるぞー!」

「焼きそば用の鉄板、どこだー!」

「金魚すくい、今年はバケツ何個用意したっけ?」

 活気ある声が、あちこちからぼんやりと聞こえてくる。

 

 祭りは、風送りの締めくくりを祝うものだ。

 町の誰もが、忘れたいものも、忘れたくないものも胸に抱えたまま、それでもこの夜だけは笑って過ごそうとする。

 毎年、そういう、不思議な夜だった。

 

 坂のふもとでは、まだ懸命に子どもたちが神輿を担ぐ練習をしていた。

「せーのっ、わっしょい!」

「もっと声出してー!」

 小さな肩に神輿をのせ、懸命に歩くその姿は、微笑ましくもあり、どこか切なさも漂わせていた。

 子どもたちの手には、手作りの小さな風鈴がぶら下がっている。

 それは、町の古い慣わしだった。

「前を向くために、夏の思い出を、一緒に運んで、坂を登るんだよ」

 誰かがそう教えていた。


 町の中央にある広場。

 屋台の屋根越しに立ち上る湯気が、真夏の空にぼんやりと溶けていく。

 香ばしい匂いが、潮風に乗って町全体に広がった。

 

 すれ違う人々は、浴衣を身にまとい、笑顔で挨拶を交わしていた。

 子供たちは手に風車を持ち、くるくると回しながら坂を駆け上がっていく。

 年配の夫婦は、手をつないで、ゆっくりと坂を下りていく。

 友人同士でふざけあう声、遠くで響く太鼓のリズム─。

 音が、色が、匂いが、風に溶け合い、この町を満たしていた。
 

 そして、そのどこかで。

 ─チリン。

 風に揺れて、かすかに風鈴が鳴った。

 それは目立たない、小さな音だった。

 けれど、確かに町のどこかで、誰かの記憶が今も息づいていることを、そっと告げていた。
 

 **
 
 昼過ぎ。
 
 坂の中腹迄歩いたところで、俺は足を止めた。
 眼下には、赤い屋根と青い洗濯物がちらほら見える家並み。
 その向こうに、うっすらと海の気配。
 そして、忙しそうに祭りの準備をしている商店街。
 
 風が、ようやく吹いた。額に張りついた前髪をやんわりと撫でるような、やさしい風だった。

 この景色を、アユと並んで見たことがある。中学の夏休み、学校の帰り道に寄り道して、ふたりで並んでラムネを飲んだ。笑いながら話していたアユの声が、風の中にふっと混ざった気がした。
 
 セミの声が遠くで鳴いている。舗装の継ぎ目を踏むたびに、靴底から少しずつ記憶が沁みだすようだった。

 中腹あたりまで降りてきたところで、また足が止まった。
 そこは、かつてアユが「この坂、一番風が気持ちいいのここだよ」と言って立ち止まった場所。
 今も、通り抜ける風が少しだけ涼しい。

 坂の中腹では、今年初めてのお披露目となる大きな山車の飾りつけが進んでいた。

 町の若者たちが集まり、色とりどりの紙飾りや布を山車に結びつけていく。

 その中心には、一つの風鈴が吊るされていた。

 古いガラス細工の風鈴。

 誰もが、どこかで誰かを想っている。

 それが、町全体を包む柔らかな空気になっていた。

 

 祭りの開始は、夕暮れからだ。

 だが昼のうちから、町にはどこか浮足立った熱気が満ちていた。

 普段は静かな商店街も、今日は違った。

 軒先には風鈴がずらりと吊るされ、色とりどりの短冊が風にたなびいていた。

 一枚一枚に書かれた願いごと。

「あの喧嘩のこと、風に流したい。」

「大切な人を、忘れませんように」

 ……など、それらが、風に吹かれて、そっと空へと運ばれていく。

 

 ふと、坂の上から潮風が吹いた。

 海が近いこの町では、夕方になると潮の匂いが強まる。

 その匂いを含んだ風が、町を撫でるように抜けていった。

 

 ─チリン。

 どこかで、またひとつ、風鈴が鳴った。

 

 陽が傾き始めると、空の色がじわじわと変わっていった。

 青から、群青へ。

 群青から、紫紺へ。

 そして、夜の帳が降りる少し前、町は一番美しい色に包まれる。

 

 そんな中。

 町の広場では、最後の準備が進んでいた。

 屋台には灯りが入り、赤や黄色のちょうちんが柔らかな光を放ち始める。

 大人たちは浴衣姿で屋台を手伝い、子供たちは早くも金魚すくいに、射的に興じていた。

 笛の音、太鼓のリズム、そして─風鈴の音。

 それらが町中に重なり、ひとつの大きな「音の海」をつくりあげていた。

 

 坂の上では、送り堂の方からも太鼓の音が聞こえてきた。

 それは、今日と明日、そして明後日─。

 三日間にわたって続く、風送りの“最後の祈り”の始まりを告げる音だった。

 

 町の人々は、知らず知らずのうちにそのリズムに合わせて動き始める。

 子どもたちは手を取り合って踊り、

 大人たちはゆったりとした足取りで坂を上り、

 老人たちは縁側に座りながら、微笑みを交わしていた。

 

 ─そして、風は、音を運ぶ。

 

 短冊の願いも、

 誰かのさみしさも、

 胸の奥の祈りも、

 全部─この町を満たして、夜空へと運ばれていく。

 

 ふと、坂道を歩いていた小さな女の子が、立ち止まって空を見上げた。

「ねえ、ママ。あのお星さま、誰かのお願いかな?」

 母親は少し考えたあと、微笑んでこう答えた。

「うん、きっとね。誰かの、大事なお願い事だよ」

 女の子は満足したように頷き、また手を引かれて歩き出した。

 

 ─この町では、願いも、祈りも、風に乗る。

 忘れたくないことも、

 忘れたはずのことも、

 すべてが、風に運ばれ、空へ還り、時には町に溶け出していく。

 俺は夏の暑さにじんわりと肌を湿らし、
 送り堂へと赴いた。

 送り堂は、夕暮れの光に沈みかけていた。

 坂を登りきった先にある、古びた木の建物。

 その正面に立ったとき、俺は小さく息を吐いた。

 手のひらの中に、あの風鈴がある。

 透明なガラスの器。

 かすかに手の熱を移して、ほんのりと温もりを持っている。


 ─ここに、吊るすのか。
 

 **
 
 あの年の夏も、やっぱり暑かった。

 蝉の声が耳を塞ぐほどに響いていて、坂を登るだけで、額に汗がにじむ

 「あっつい……」

 思わず声に出すと、隣を歩くアユが、くすっと笑った。

 「当たり前だよ、夏だもん」

 俺はうんざりしながら、手にぶら下げた風鈴を見やる。

 透き通ったガラスの中に、青い朝顔の模様が描かれている。

 短冊には、まだ何も書いていない。

 「なぁ……本当にやるのか、これ」

 ぐったりとした声で聞くと、アユはうん、と頷いた。

 「せっかくなんだから、ちゃんと願いごとしないと」
 
 「願いごとっていうか、忘れたいことだろ? 風送りって」

 「どっちでもいいんだよ。忘れたいことでも、叶えたいことでも。とにかく、風にまかせるの」

 坂の途中で立ち止まったアユが、手のひらでおでこをあおぎながら、にこっと笑った

 「さ、行こ」

 そう言って、軽やかにまた坂を登りはじめる。

 

 俺は仕方なく後を追った。

 背中越しに、アユのポニーテールが揺れている。

 ─どうせ忘れたいことなんて、ないのにな。

 そんなふうに思いながら、風鈴を握り直した。

 送り堂に着くと、すでに何人かの町の人たちがいた。

 小さな子供連れの家族。

 浴衣姿のおばあちゃん。

 中学生ぐらいの兄妹。

 

 みんな、思い思いに風鈴を選び、吊るしていた。

 堂の奥からは、微かに風鈴の音が響いてくる。

 重なり合って、溶け合って、優しい音の波を作っている。


 アユは境内の端っこにある、机に向かった。

 短冊に、ペンで何か書き込もうとしている。

 
 俺も隣に腰を下ろした。

 ペンを持つけれど、何を書けばいいのかわからない。

 「なあ、アユ」

 「ん?」

 「お前、何書いてんの?」

 
 アユはちらりと俺を見て、それからペンを止めた。

 「─秘密」

 「なんだよそれ」

 「へへ、まぁ忘れるというよりも、未来を前向きに生きるための行事だって
 おばあちゃん言ってたから、将来の自分に向けてのメッセージみたいなものかな!」

 「……おまえ、いつも前向きじゃん

 「ふふ、そうだけどさ」


 アユはそう言って、また短冊にペンを走らせた。
 
 俺は仕方なく、白紙の短冊を見つめる。

 ─忘れたいこと。前向きに、生きるために。

 思い浮かべようとするけど、なにも浮かばない。

 楽しいことも、悔しいことも、腹が立ったことも、全部、どれも忘れたくなかった。

 だって、どれも大切な記憶。

 俺は結局、何も書かずに立ち上がった。
 

 「……いいや、俺は」

 「えっ、書かないの?」

 「忘れたくないからな」

 アユは、びっくりしたような顔をして、それからふわっと笑った。

 「そっか。……じゃあ、いいんじゃない?」

 「いいのかよ」

 「うん。忘れたくないなら、無理に流さなくても。」

 

 彼女はそう言って、自分の風鈴を持ち上げた。

 透き通ったガラスの中に、赤い金魚が泳いでいる。


 「……でも、私は、書いたよ」

 「何を?」

 アユは少しだけ、寂しそうに笑った。

 「……いつか、つらいことがあったときに、それを受け止めて、前を向ける自分でいたい、って」

 その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。

 
 「……お前、今、悲しいことなんてないだろ」

 「うん、ないよ。でも、未来のために」

 
 アユは風に短冊を揺らしながら、ぽつりと呟いた。

 
 「未来の私は、ちゃんと前を向ける人でいたいから」
 
 「まぁアユなら……大丈夫だろ。なにがあっても。」

 「俺はアユのそう……いうとこ、好き……だけど」

 「かわいいとこあるじゃん」

 
 そう恥ずかしそうに笑った彼女の顔を思い出す。
 
 彼女は、何かを分かっていたのかもしれない。

 この日々が、永遠じゃないことを。

 どこかで、変わってしまうかもしれないことを。


 ─だから、忘れるために祈ったんだ。

 

 俺は、ただ、願った。

 この夏が、少しでも長く続けばいいと。

 アユの笑顔が、ずっと隣にあればいいと。


 そう、心の中で、強く願った。

 
 ─でも。
  

 そんな願いも、風に流れてしまうんだろうか。

 俺は、握りしめた風鈴をそっと見つめた。

 ─チリン。

 その瞬間、風が吹いた。

 無数の風鈴が、一斉に鳴った。

 
 世界が、音で満たされる。


 アユの笑顔も。

 坂を吹き抜ける風も。

 透き通った空も。

 全部が、音の中に溶けていくようだった。

 **

 あの日の送り堂。

 あの日の願い。

 今も、胸の中に、確かに残っている。

 送り堂の軒先には、すでに無数の風鈴が揺れていた。

 それぞれが、誰かの願いや、悲しみや、後悔を乗せて、静かに鳴っている。

 

 チリン。

 カラン。

 

 風が吹くたび、音が重なり、離れ、またひとつになる。

 俺は、風鈴を吊るそうとして─手を止めた。

 アユのことが、脳裏に浮かぶ。

 あの日々が、浮かぶ。

 笑った顔も、泣きそうな顔も、怒った顔も、全部、今この瞬間も、鮮やかに思い出せる。
 
 忘れたくない。

 強く、そう思った。

 
 この音に、託すことなんてできない。

 この想いを、風に流すことなんて、俺にはできない。

 アユへの想いを抱いたまま、俺は生きていく。

 俺は、そっと手を下ろした。

 風鈴を、ポケットに戻す。

 忘れない。

 絶対に、忘れない。

 辛い。あの日のことを思い出すと。

 ―でも。

 アユなら、もし俺が、くよくよしてる時、

 前を向けと、ビシッと正してくれる気がして。
 
 たとえ、この町の風が、すべての音をさらっていっても。

 たとえ、世界が変わっても。

 
 アユのことを。

 アユと過ごした時間を。

 あの指切りを。

 
 俺は、俺の中で、背負っていく。

 
 ─だから、吊るさない。


 小さく首を振って、俺は踵を返した。

 坂の上には、誰もいない。

 夜風だけが、そっと裾を揺らした。
 
 坂道を下りながら、ふたたび祭りのざわめきが耳に戻ってきた。

 灯りの海。

 屋台の匂い。

 笑い声。

 人の群れに戻りながら、俺は歩いた。
 
 ─けれど、その輪郭は、どこかぼやけて見えた。

 誰かが笑っている。

 誰かが呼んでいる。

 誰かが手を振っている。

 でも、俺の名前を呼ぶ声は、どこにもない。

 俺は歩き続けた。

 焼きそばの屋台の前を通り過ぎる。

 金魚すくいの水面に、光がきらきらと揺れている。

 わたあめの甘い匂いが、鼻先をかすめる。

 ─アユと一緒だったら、きっと、もっと笑えたんだろうな。

 そんなことを思いながら、俺はひとり、夜の町を歩いた。

 ─チリン。

 ふいに、背後で風鈴の音が鳴った。

 振り返っても、誰もいない。

 でも、その音だけは、確かにそこにあった。

 俺はそっと、ポケットに手を入れる。

 そこにある、あの風鈴の重みを、もう一度、確かめる。

 まだ、ここにある。

 アユの記憶も。

 俺の想いも。

 すべてが、ここにある。

 夜の光の中で、俺は静かに、歩き続けた。

 ─チリン。

 どこかで、また、音が鳴った。

 ―喧騒をかき分けるように。
 
 俺は、進んでいく。

 アユとの記憶を、胸に抱えたまま。

 ─まだ、ここにいる。

 夜風が、ひときわ強く吹いた。

 幼い頃から、何度も見上げたこの堂の軒先。

 夏の終わり、この町に願いを預けるために。

 忘れたいことを、手放すために。
 
 だけど。

 俺の手の中にある、小さな風鈴は、何も言わなかった。

 短冊も、音も、何もない。

 ただ、冷たい硝子の感触だけが、確かにそこにあった。

 ─吊るさない。

 この手で手放すことなんて、できない。

 忘れるなんて、できない。

 だって、アユとの記憶は─。

 この胸に、いまもちゃんと、息づいているのだから。

 夜の空気は冷えはじめていて、夏の終わりがすぐそこまで来ていることを知らせていた。

 足を踏み出すたびに、胸の奥で何かが軋んだ。

 きっとそれは、手放さなかった痛みだ。

 ずっと、引きずってきた想いだ。

 でも、それでいい。

 アユとの日々を、忘れるくらいなら。

 この痛みごと、抱きしめて歩いていくほうが、俺にはずっと自然だった。

 ─カラン。

 送り堂へ、どこかで、誰かが願いを託した音。

 その音に、心臓がひとつだけ、強く跳ねた。

 前を向いて、力強く足を踏み出す。

 それはまるで、現実という名の海へ帰っていく航路のようだった。

 ─忘れたくない。

 ─忘れられない。
 
 アユと交わした言葉も。

 笑い合った時間も。

 指切りした約束も。

 ぜんぶ、俺の中に、まだ確かにある。

 それがたとえ、誰にも見えない記憶でも。

 誰にも届かない想いでも。

 俺だけは、忘れない。

 夜空を見上げる。

 雲の切れ間から、ぽつり、ぽつりと、星が覗いていた。

 ─なあ、アユ。

 今でも、あの坂を一緒に登ったことを、覚えてるか?

 あの風を、覚えてるか?

 あの、約束を─。

 風が、頬を撫でた。

 それはまるで、優しい手のひらで触れられたような感触だった。

 何かが、そっと胸に触れた気がして。

 何かが、そっと、消えていった気がした

 ─大丈夫だよ。
 
 心のどこかで、そんな声がした。

 アユの声かもしれなかった。

 それとも、ただの風の囁きだったのかもしれない。

 祭りが活気づく中で、

 誰かが笑っている。

 誰かが、祭り囃子に合わせて手を叩いている。

 遠くで、子供たちの声が弾ける。


 この町の音。

 この町の夏。

 ─もうすぐ、終わるんだ。

 ふいに、そんな実感が胸に滲んできた。

 活気づく中央広場を少し過ぎたところにあった、小さな祠の前で立ち止まる。

 苔むした石の鳥居。

 しめ縄に結ばれた白い紙垂が、夜風に揺れていた。

 ─ずっと、ここにいたんだな、俺。

 思わず、そう呟いていた。

 この町の、夏の空気の中に。

 この坂の、風の音の中に。

 俺は、たしかにいた。

 でも─。

 それも、もう、すぐに。

 ふと、ポケットにしまった風鈴を握りしめる。

 冷たい硝子の感触。

 その向こうに、アユの笑顔がある気がした。

 俺は、そう信じたかった。

 たとえ、この町の誰からも見えなくなっても。

 たとえ、この世界に、俺の存在を覚えている者がいなくなったとしても。

 
 俺は吊るさなかった。

 風に流さなかった。

 手放さなかった。

 
 夜空に、花火が上がる音がした。

 

 パァン。

 

 橙色の火花が、空に咲いた。

 そして、すぐに消えた。

 儚く。

 役目を終えた花の様に。

 人々の歓声が、遅れて耳に届く。

 俺は、その波に飲み込まれることなく、ただ静かに、歩き続けた。


 風の匂い。

 夜の音。

 アユの面影。

 
 すべてを抱えて、俺はこの町の中を、もう少しだけ、漂っていた。

 誰の目にも、俺の姿は映っていないようだった。

 もう慣れたはずなのに、ふとした瞬間、その事実が胸に冷たいものを落とす。
 
 「……。」

 風が吹いた。

 それと同時に、微かに、送り堂の方角から、何かの気配が流れてきた。

 ざわり。

 そんな音を立てるように、空気が揺れた。

 その瞬間、世界の色が一段階、淡くなったような錯覚を覚えた。

 ─なにか、始まっている。

 理由もないのに、そんな予感が胸をよぎった。

 視線を送り堂の方へ向けた。

 夜闇の中に浮かぶ坂道。その上にぼんやりと灯る送り堂の光。

 そこから、確かに、なにかが─動き始めている気がした。

 

 **

 送り堂の奥に、一人。

 誰もいない堂内で、一人、静かに儀式の準備を進めていた。

 蝋燭に火を灯し、白布をかけた台の上に、ひとつ、またひとつと、風鈴を吊るしていく。

 どの風鈴も、色も形も違っている。

 けれどそれぞれが、誰かの"忘れたい想い"を抱いていた。

 その風鈴たちを、ひとつずつ掌で包み込み、そっと空に掲げた。

 「……さあ、帰る時間じゃ」

 誰にともなく、独り言のように呟く。

 その手はしわだらけで、けれど動きには一片の迷いもなかった。

 彼女は静かに、送り堂の中央に据えた大きな風受けに、ひとつずつ、風鈴を捧げていく。

 ─記憶を、音にして。

 ─音を、風に還して。

 それが、この町に伝わる「風送り」の儀式だった。

 アユばあは目を閉じ、掌を合わせた。

 口の中で、誰にも聞き取れないような古い言葉を紡いでいく。

 「……すべての風よ……すべての記憶よ……しかと受け止めてくれ……」

 堂の中を、ひと筋の風が通り抜けた。

 並べられた風鈴たちが、それぞれに異なる音を立てる。

 ─カラン。

 ─チリン。

 ─シャン。

 異なる音たちが重なり合い、空間に柔らかな波紋を広げていく。

 その中心に立ったまま、ふっと小さく笑った。

 「……ほんに、にぎやかになったもんじゃ……」

 そして。

 ふと、顔を上げる。

 夜の奥へと向かって─いや、その先にある、何かへ。

 「……あの子のも、そろそろ、風に還すべき頃じゃのぉ……」

 独り言だった。

 けれど、その声には、かすかな哀しみが滲んでいた。

 誰にも気づかれないように。

 儚い残滓。

 アユばあは知っている。

 最後の風鈴にそっと手を伸ばす。

 夜風が、堂の中を優しく満たしていく。

 音が、想いがひとつ、またひとつ、空へと昇っていく─。
 

 **
 

 夜の町を、ただ歩く。

 提灯の灯りは、遠くでどこかぼんやりと滲んでいて、あの夜、アユと見上げた星空のように、不確かな光を撒き散らしていた。

 さっきまでの屋台のざわめきも、太鼓の音も、遠い夢の中のようだった。


 「─あれ、食べたいな」

 
 誰かの声が聞こえた気がした。

 振り返る。けれど、そこには、誰もいなかった。

 笑ってしまう。

 ─幻聴だ。

 それに、祭りの夜なんて、そんなもんだ。

 子供の頃から、風送りの日の祭りには、必ず誰かが見えたり、聞こえたり、そんな不思議な噂が絶えなかった。

 きっと、今日もその延長に過ぎない。

 そう思った。

 広場から漂う焼きそばの香ばしい匂いを横目に、俺は細い路地へと入る。

 アユと一緒に歩いた小道。

 石畳の割れ目には、小さな草が生い茂り、歩くたびに微かな音を立てる。

 子供のころ、アユはこの路地を「秘密の抜け道」って呼んで、よく俺を引っ張っていった。

 「こっち、こっち!」

 振り向きざまに笑う、あの顔が浮かぶ。

 ─忘れられるわけ、ないじゃないか。

 気づけば、胸の奥が、目頭が熱くなっていた。

 路地を抜けると、公園に出た。

 中央には、立派なやぐらが組まれていて、浴衣姿の人々が輪になって踊っている。

 風送りの締めくくりを祝う、町ぐるみの盆踊りだ。

 

 俺はその輪の外側を、そっと歩いた。

 楽しそうに踊る子供たち。

 手を取り合って笑う年配の夫婦。

 そして、俺。
 

 やぐらの上では、町の太鼓打ちたちが、リズムを刻んでいた。

 ─ドン、ドン、カッ、ドン。

 

 その音が、やけに胸に響いた。

 血の音みたいに、体の奥で反響する。

 いや、違う。

 これは、心臓の音ではない。

 ─風が想いを乗せて運ぶ音だ。

 風が、太鼓の音と混じり合って、俺の内側を通り抜けていく。


 目を閉じる。

 ─アユ。

 呼びかけたつもりだった。

 けれど、声は風に溶けた。
 
 やがて、太鼓の音が遠ざかっていく。

 踊りの輪も、少しずつ崩れていった。

 広場を抜け、また路地へと入る。

 提灯の灯りはもうまばらだ。

 屋台も、少しずつ片付けが始まっている。

 気づけば、町全体が、ほんのわずかに静かになっていた。

 ─夜が深くなったせいだろうか。

 そう思いながら歩く。

 ふと、立ち止まった。

 坂の上─送り堂のほうから、微かな風鈴の音が聞こえた気がした。

 ─チリン。

 静かな、やわらかな音。

 誰かが、想いを風に託した音。

 あれは、たぶん、アユの─。

 いや、考えるのはよそう。

 今はただ、風に任せよう。

 この夜に、身を預けよう。

 送り堂に戻ることはせず、俺はそっと踵を返した。

 
 風鈴の音に背を向けて、ゆっくりと町の灯りの中へと戻っていく。
 

 どこかで、子供たちが小さな花火をしている。

 ぱちぱちと、火花が地面に散った音がした。


 かつて、アユと並んで、同じように花火をしたことを思い出す。
 

 「見て見て! 線香花火、最後まで落ちないよ!」
 
 誇らしげに火玉を揺らしていたアユの顔。

 ─あの頃から、俺たちは、ずっと。

 ぱちん、と、小さな音を立てて、ひとつの火玉が地面に落ちた。

 ─アユ。

 名前を、心の中で呼ぶ。

 風が吹く。
 
 その風に、何か大事なものを、またひとつ攫われた気がした。

 ふと、祭りの終わりを告げる太鼓の音が、遠くで響いた。

 ─ドン、ドン、カッ、ドン。

 それは、其日の終わりを告げる音だった。

 そして、俺にとっては─。

 何か、大切なものの終わりをも、告げる音だった。

 それでも、俺は歩き続けた。

 灯り徐々にきえていく町を。

 風の冷たさが、ほんのわずかに秋を思わせる夜を。

 ─チリン。

 その音だけが、俺と、世界をつないでいた。

 気づくと、祭りの会場を離れ、静かに眠る町を歩いていた。

 耳を澄ますと、わずかな虫の声。

 家の光は、もうところどころで消えかけていて、遠くの空は濃紺を通り越して、どこまでも深い闇に沈み込んでいた

 俺はふと、足を止めた。

 ─ここ、どこだろう。

 知らない道ではない。何度も通ったことがあるはずの、町の裏手の細い坂道。

 それなのに、目の前の風景が、妙によそよそしく感じた。

 石畳はひび割れ、草は無造作に伸び放題になっている。

 道端の小さな祠も、まるで誰にも手入れされていないかのように苔むしていた。

 ─おかしい。

 昼間見たときは、もっと整っていたはずだ。

 けれど今は、まるで何年も誰も通っていない道のようだった。

 背中に、ひやりと冷たい汗が流れた。

 それでも、俺は歩く。

 どこへ行こうとしているのか、わからないまま。

 ただ─。

 ─風鈴の音が、聞こえる気がするから。

 遠く、微かに、確かに。

 チリン─。

 風が吹いていないはずなのに、耳の奥で、確かに鳴っている。

 どうして。

 ─こんなにも、世界は遠い?
 
 気づけば、町のざわめきが完全に消えていた。

 祭りの音も、笑い声も、誰かが叩く太鼓のリズムも─

 すべて、遠く、遠く、闇の向こうに沈んでいた。

 ここだけが、取り残されたように静かだった。

 ─ここが、終わりの場所なのか?

 自分でも、よくわからなかった。

 ただ、なんとなくそう思った。

 そう感じた。

 ─アユ。

 名前を呼ぶ。

 けれど、返事はない。

 ただ、風鈴だけが、静かに鳴る。


 チリン─。

 
 そして、その音が、またひとつ、俺の中の何かを、はがしていった。

 足元を見ると、石畳の間から伸びた雑草が、俺の影を飲み込むように揺れている。

 その影もまた、かすれて、ぼやけて、地面に溶けていく。

 ─俺は?

 そんな疑問すら、声にならなかった。

 夜の風が、そっと吹いた。

 まるで、すべてを、静かに、優しく、なだめるかのように─

 遠くで、今日の祭りの終わりを告げる花火が、夜空に上がった。

 小さな音。

 小さな光。

 ぱっと咲いたそれを、細い路地からぼんやりと見上げる。

 ─きれいだな。

 なぜだろう。

 涙が、出そうになった。

 ─アユ。

 もう一度、心の中で呼んだ。
 
 だけど、風は何も答えなかった。
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